カウンター 読書日記 ●『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』
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●『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』
 ●第2部 第3章 3 陶磁学者・佐藤雅彦  

 昭和30年、貴志彌次郎の養子・重光が、千葉市横戸の明星寺に隠棲していた周蔵を尋ねてきた。和歌山に在った古陶磁を神戸の金持ちに売り込んだのはいいが、先方にも眼力のある者がいて、それを真贋混淆だと指摘してきた。そこで、「これらの焼き物は本物だとの一筆を書いてくれ」と依頼してきたのである。

周蔵は現物を見もしないで貴志重光の頼みを断った。和歌山には奉天以来の古陶磁が真贋1式併存するとはいっても、3箇所に分別保管されており、混淆するはずはない。混淆しているなら、それは徳川家の内部で意図的にしたものと察し、自分が関与することではないと判断したからである。

 昭和34~5年頃、佐藤進三の子息で大阪市立美術館の学芸員の職にあった佐藤雅彦が周蔵を訪ねてきた。佐藤進三は、チヤの当時の夫・中沢明四の叔父にあたる下北沢の杉本という骨董屋と業者仲間だったから、中沢とも親しかった。中沢らは佐藤雅彦を大阪市立美術館の学芸員にしようとし、慶応時代には学費を援助した。佐藤らが大阪市立美術館を目標としたのは、そこがフランス文学者小林太市郎の根拠だったことと関係あるように思われる。小林博士は昭和18年、軍部に繋がる東方文化学院京都研究所の委嘱により、ダントルコールの『中国陶姿見聞録』を翻訳した。ダントルコールは18世紀のジェスイット会の僧侶として、布教の名目で景徳鎮に潜入し、窯業技術を仔細に観察して長文の手紙でフランスに送った1種の技術スパイである。その手紙を小林博士に翻訳させた黒幕は甘粕であるが、その目的は少しでも佐那具窯の役に立つようにと考えたものだという。因みに、内藤匡博士の名著『古陶磁の科学』も、同様に軍部(おそらく甘粕)の支援によって、成立したものである。

 昭和26年、慶応大学文学部を卒業した佐藤雅彦は大阪の市立高校で数ヶ月空席待ちをした後、目的の大阪市立美術館に就職することができた。佐藤雅彦は中沢明四を通じ、周蔵に「小森先生から『三井良太郎図譜』のことを聞いていたので、自分のこれからの研究のために、是非預からして頂きたい」と言ってきた。周蔵は中沢の口利きもあって、快くそれに応じ、『北宋紅定盤ロ瓶』図1枚だけを手元に置いたまま、残りの4百数十枚を佐藤雅彦に貸し与えた。ついでに『奉天図経』のうち1、2冊を貸し与えた。

 周蔵は昭和39年10月に他界した。周蔵の死は昭和37年に始まった「佐野乾山事件」が遠因をなすのであるが、そのことは別稿に譲らざるを得ない。

その頃、裏千家の丸山野宗匠について茶道を習っていた明子は、ときどき宗匠から茶道具の購入を勧められた。最初は5、6万円の茶碗だったが、周蔵死去の直後、鶴首の1輪挿しを70万円で勧められた。母に相談したところ、金は出してくれたが、しげしげとその花瓶を眺めていた巻は、翌日関西に旅立った。巻は佐藤雅彦に会い「このような贋作を売るとは何事か」と糾問したところ、佐藤は「自分はやっていない。それはHという骨董屋が、扱っているのだ」と弁解した。茶道具は必ずしも真贋を問わない世界だから、それでいいという説明であった。

 明けて昭和40年、佐藤雅彦が中沢の家に来て、吉薗巻と明子の母子も、呼び出されて中沢家へ向かった。巻が「焼物の勉強はその後、捗っていますか?」と問うと「あの『三井良太郎図譜』は、例の古陶磁が1括して売れるので、それに使います」と言っていた。

 佐藤はその後『三井良太郎図譜』と『周蔵三井合作図譜』のほか『宣統帝愛蔵品図録』と書いた紙と『由来書』なる紙を持参し、「これが上田恭輔が書いた本物であり、吉薗家に在ったという証明が欲しい。それも印鑑証明付で頬みます」と頼んできた。巻とチヤが見ると、原物とは違う字体である。『合作図譜』の絵も別人が描いたものとすり変わっていた。

 「これは貸したものの状態と違う。また文字も違う」と指摘した巻との間で、激しい口論になったが、佐藤は「これは、必要があって原本を書き直したもので、字はHという骨董屋が書いたもの」と説明した。

 「そんなことは周蔵の遺志に反し、書ける道埋がありません」といい、さらに「それじゃ、上田恭輔さんが偽物を造っているのを憂慮した周蔵が、この図譜を造ったとでも書けばいいんですか?」と皮肉をいうと、佐藤は「そんなことを書いてもらっては困る。お父さんはもう亡くなられたんだから、いいじゃないですか」となだめようとした。

 要するに、一緒にやって利益を分配しようというのが、佐藤の申し出であった。佐藤と古陶磁商が組んだ善からぬ策謀に気がついた巻は、中沢に預けてあった『奉天図経』の1冊をちらりと見せた。「うちにはその図譜の他に、こんな本があって、ホンモノの存在数も明記してあるし、寸法や特徴、原寸大の模様までハッキリ判るから、これに当てると真贋はすぐに判る。貴方が骨董屋と組んで変なことをするなら、私はこれを本にして、世の中にバラシますよ」といって、佐藤を一蹴した。

 翌日、佐藤はHを連れてきた。「自分たちは、この図譜を裏付けにして、もうモノを動かしてしまったのに、今更そんな本を出されては、迷惑します」というのは、要するに『三井良太郎図譜』を使って、倣造品を売ったということらしい。図譜の絵に似せてそれらしく造った倣作を、図譜と照らして見せると、買手は納得したものらしい。吉薗ツヨミが佐藤とHに対して協力を断ると、神戸のヤクザと称する者から脅迫電話が入ったが、効果がないと知ると、今度は『奉天図経』を売って欲しい、と申し込んできたがむろん断った。

 吉薗巻はこの1件を告発しようとした。ところが巻が相談した弁護士が、双方の知人に洩らしたため、茶道界が混乱することを憂慮したその人は、この件を思いとどまるように勧告してきた。混乱を意に介しない豪気な巻も、すでに死期が迫っていたので、この件を解決しないまま、昭和45年に他界した。存命ならば必ず告発したであろう、ということである。

 昭和47年、佐藤雅彦は突然京都芸術大学教授となって周囲を驚かせた。佐藤は学内で順調に出世して、49年には学部長となった。53年に『中国陶磁史』(平凡社)を著した佐藤は1部を池田チヤに献呈した。佐藤は、54年には小林太市郎訳注のダントルコール『中国陶姿見聞録』(平凡社東洋文庫)の補注をしている。

 一般に古陶磁書は、美術館の関係者同士がお互いの蔵品を盥回しにして、学芸員が若干の解説をしたものばかりだが、佐藤雅彦の著書『中国の陶磁』はその点ユニークで、ここにしか出てこない珍しい中国古陶磁の写真が多い。実は、その大半は『奉天図経』と『三井良太郎図譜』に描かれていたものである。また『中国の陶磁』の品名や解説文は『奉天図経』の第1冊を見て書いたとしか考えられない記載で満ちている。

 昭和53年、佐藤はついに京都芸大の学長となり、3年間その座を占めた後、58年には教授に戻り、62年には大学院の研究科長となった。このとき脳溢血で倒れた。昭和62年7月、佐藤教授は左手の麻痺を抱えたまま、古陶磁専門家としては異例なことに、北海道立近代美術館の非常勤館長に就任した。全国の美術館の館長人事を壟断していた河北倫明の工作によるものであった。

 翌年3月23日他界した佐藤は、結局、吉薗から借りた『三井良太郎図譜』『周蔵三井合作図譜』および『奉天陶磁図経』の一部をついに返却しないままであった。


 4 河北は知っていた 


 匠秀夫の「未完 佐伯祐三の『巴里日記』」に河北倫明の序文がある。その末尾を掲げる。

「・・・すでに門地を壊してしまったほどの周蔵には、片々たる名利などまったく眼中になかった。どこまでも社会の黒子に徹して自己流の人生を行った吉薗周蔵が、城山で自尽した郷里の大偉人西郷隆盛の熱烈な崇拝者であったことを、私は特に意味深いものと受け取っている。匠さんのこの本が、この異風の人物にも一定の照明をあてる機会を作って下さったことを、喜ばずにはいられない」

 吉薗明子は河北と知り合って以来、次のような話を何度も聞かされたが、ついにその意味が分からなかった。「まあ、焼物なんかは、ぼくは芸術と認めていないから、あれでも良かったんだが・・・絵画は芸術だからねえ・・・とにかく佐伯なんかどうでもいい。ぼくは佐伯なんて大嫌いだよ。・・・それより周蔵だ、吉薗周蔵のことが分かれば、すべてはっきりするんだ。とにかく周蔵を調べろ」

 明子はそれを、河北が「嫌いな佐伯だが、無理に応援してやっているんだ」という恩着せと理解し、そのたびに何かと御機嫌をとった。それにしても、河北がいつも焼物のことだけを持ち出すのが、不可解だった。

 実は、河北は最初から吉薗周蔵について知っていた。

 それは佐藤雅彦を通じたものだった。佐藤雅彦は父の進三が京都の出身で、自身も京都住まいが長かった。河北が京都国立博物館長を勤めていた永い間を通じ官舎には入らず、高級和風旅館の柊屋を常宿にしていた。佐藤は美術館行政のボス河北の知遇を得、京都でさらに昵懇の間柄となり、その政治力を活用しながら、茶道関係とも深い関係を持ち、真倣ともどもに陶磁を動かしていた。その中には奉天古陶磁(ホンモノ)も、かなり多かったのではないか。

 古美術の談義は、来歴から始まる。佐藤は紀州古陶磁を河北に説明するに際し、関係者として吉薗周蔵の実名をあげ、小森忍から聞いた話を詳しく伝えた。河北が吉薗明子が周蔵の遺児と知ったとき、何とも不思議な態度を見せた鍵は、ここにあった。

 昭和61年頃、佐藤雅彦から、元首相も臨席するというパーティーに招待された池田チヤは、和服を新調して出掛けてゆき、席上で河北倫明と画家の稲垣伯堂に会った。チヤは旧知の河北からかねがね、稲垣はやがて文化功労者になる手腕と聞かされ、作品の購入を勧められていた。河北が佐藤と稲垣を従え、元首相のいる前でチヤに、「佐藤君の所の図譜は中途半端だから、真贋を区別するのに、役にたたない。佐藤君から聞いたがおたくには吉薗周蔵が奉天で写した本があるそうだが、それを持ち出せば本物の説明ははっきりとつくから是非稲垣君に見せてやっていただきたい」と頼んできた。その後、稲垣の絵を送ってきたがチヤはそのまま返却し、結局『奉天図経』を見せなかった、ということである。

 昭和62、3年頃、北海道立近代美術館が多数の中国陶磁器を購入したという噂を最近耳にした私は、そういえば稲垣画伯が「古陶磁を北海道美術館が数多く買いにきた」と語っていたことを、やっと思い出した。明細はさっぱり判らないが、その中には奉天伝来の秘宝もあるのだろうか、見てみたいものだと思う。

 佐那具や大連の陶雅堂窯、さらに大連市の夏案子で造られた倣古品や贋造品は、旧特務機関員らが、にわか茶人となって、茶室を舞台にして世間に売り込んだ。陶磁学者として1派をなした小山富士夫もそれに加わっていた。関東では、日本橋にあった某美術店と湘南の某料亭が、関西では有名な超一流料亭がその舞台である。湘南某駅の近くで、旧軍の特務機関員につながる女性が料亭を経営していたが、茶会にことよせて大量の佐那具物・満洲物を売っていた。日本橋某美術店も、その店頭に佐那具・満洲物の実物やポスターを飾り、古陶磁マニアに売りつけていた。佐那具物を目利きしていたのは、そつ当時東京国立博物館に勤めていた某専門家で今や世界的な陶磁学者になったが、若年の頃、某美術店のパンフレットに執筆していた。

 それを聞いた私は、にわかに覚るところがあった。平成3年、私は紀州文化振興会の『陶磁図鑑』に手紙を添えてその学者に贈呈した。通常なら、贈呈品が気に入らねば、受け取りを拒絶するか返送すればいいし、まあ受け取って置こうという気持なら葉書1枚の礼状を出すのが学者の慣例なのに、まるで反応がないので、何となく不審に思っていた。また、平成4年に岸和田市の展覧会のとき、たしかにその1派が贋作攻撃の背後にいることを実感した。人から「落合センセは何かで恨まれてるんと、ちゃいますか?」と言われたが、心当たりがなく首をひねっていたものだが、その謎がこれで解けた。私は自分でも気付かずに、倣造陶磁シンジケートの営業妨害をしていたのである。

 佐那具物・満洲物の倣造陶磁シンジケートは関西にも売店を持ち、佐藤雅彦の目利きで商売していたという。やはり特務機関員だった人物が経営する画廊喫茶では、今も佐那具・満洲物とみられる陶磁器を展観している。そこに出入りしている美街商の伝聞では、「幕末に五代才助が上海に渡り大金で買ってきた陶磁器で、入手した紀州の医師が持ち山の蜜柑山に横穴を掘って隠匿していたもの」だという。そのような史実はありえないが、和歌山=医師=蜜柑山という3題噺にその出自をしのばせるものがある。満洲物や佐那具物を保管したと伝えられる徳川家の菩提寺はたしかに蜜柑の名産地にあるからである。

 佐藤雅彦はじめ居あわせた学者連が見守る眼前で敲き割り、一同に配ったという 釉裏紅の一片をもらった私が検査してみたら、周蔵手記に明記された倣造品の証拠が歴然としていた。真品と信じて購入したのなら被害者ということになるが、真相はそう単純ではないと思われる。

 佐那具・満洲倣造品の販売シンジケートは旧特務機関員を中心としたものである。シンジケートは、流派茶道の関係者を加えて、茶会を利用したパーティー・セールスをしていたが、販売拠点としては東京日本橋の某美術店や関西の某高級料亭が選ばれた。いずれの場合にも、目利き(販売促進のための鑑定)をしたのは佐藤雅彦などの陶磁学者だそうである。なかでも特別によくできた品は、仲間の東洋陶磁商が、公立私立の美術館に売り込んでいたものらしい。

 伝えるところによれば、松永安左エ門や畠山一清も晩年佐那具窯の贋作を買い、それは、小山富士夫によって重要文化財に指定されたという。また、風聞では、以前に静岡県所在のM美術館が、購入した李朝物を展観したところ、数人の古陶磁専門家が押し掛け、当分展観を見合わすように館側に対して懇請したといわれている。他の美術館でも、古陶磁を買うだけ買ったが、いまだに展観をしていないところが多いという。事情ははっきりしないが、展覧できない理由があるというのだ。

 佐那具物・満洲物は、今日の日本の古陶磁界において、妖怪のような存在である。それが誅戮されないのは、その道の権威が深く関わり過ぎたからである。

 昭和37年の★佐野乾山事件も、各地の美術館や収集家に売り込まれた大量の佐那具乾山の存在が原因であろう。佐野乾山の出現によって、それがあぶり出されることに対する怖れから行われた贋作攻撃と私は確信する。

 ★【佐野乾山事件】についても、前記、大島一洋・『芸術とスキャンダルの間』で1章が割かれている。
 第五章 佐野乾山騒動 まっぷたつに分かれた真贋の行方

 ●『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』  <了>

 

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