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●『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』
 ●第2部  第3章 奉天古陶磁の倣造

 1 小森忍、山茶窯に拠る  

 
 奉天古陶磁が日本へ運ばれても、小森忍は満洲で相変わらず奉天古陶磁の倣作を造っていたが、大正13年4月、大連市臺山屯町に移転した後、内地に引き揚げて、昭和3年4月、愛知県瀬戸町に新たに窯を開き、山茶窯と称した。

 帰国の理由を小森は、自著『日本の陶磁』のなかで「中国古陶磁の研究が大体所期の目的を達することを得たので、将来これが活用には、立地的に特に不利なる大連に存続することは無意味なので・・・」と述べている。本当のことをいえば、小森は大連では河南天目、磁州窯や清朝琺瑯彩など12の種類を除いては奉天古陶磁の倣造に成功しなかった。写真だけを見たのではムリがあった。ことに、奉天古陶磁の実物が、日本に渡ってしまってからは、大連に居ることの意義もなくなった。

 昭和3年、宮内省から山茶窯に御大典用の磁器の製作命令が下った。一般の注文品も盛んに造った山茶窯の窯・釉薬の主任田村靖治は小森の妻の弟で、大連時代から小森と行動を共にしていた。山茶窯作の『磁州窯掻落手草花文壷』を写真で見ると、古陶磁の倣作とはどんなものかわかる。その山茶窯も、取引先の倒産によって昭和9年閉窯に追い込まれたので、小森は名古屋製陶に入社し、鳴海工場の建設に当たった。その間も小森は大連におもむき倣古製作を指導していた。

 昭和6年、周蔵は久原房之助に呼び出された。久原は1個の焼物を前にして「今から10年くらい前のことやが、君が張作霖の宝物を買わんかと言うて来たのう。あのときはわしも都合がつかなんで残念やった。ところで、これは同じ手の品や言うが」ときりだした。

 周蔵が見ると、あれとは到底比べ物にもならぬ。すぐに上田・小森の一派の倣造と分かった。

 「これを甘粕が持ってきてのう、1万円で買え言うんやが、どう思う?」

 ここで甘粕大尉の足を引っ張ることもない、と思った周蔵は、明答を避けた。「いや、おいは こげん物は、全く分らんです・・・申しわけなか」

 「そうか。そんなら、とりあえず5千円に値切って、買うておくか」

 甘粕正彦が満洲事変の資金稼ぎの一助として、富豪に倣造陶磁の売り込みを計ったことは、『橋本大佐の手記』に窺える。「満洲事変直前、甘粕上京し携行する1品を示し、之を売却し金1万円の調達を依頼す。ついに調達しえず。帰るに臨み、金に窮せるを知る予は、僅かに5百円を与えたり」とあるからだ。甘粕が上田恭輔の倣造品に目を付けたのは、フランスから帰国し、満洲に渡った直後らしい。事変後、上原派の隠し財産だったシベリア金塊の力で満洲国の実力者となった甘粕は、古陶磁倣造による資金作りを企て、小森忍を満洲に呼んで協力を求めた(場所は目下調査中であるが、大連の夏案子という地区だと言われている)。

 小森が満洲で拵えた倣造品は、久原が五千円に値切った手であるが、甘粕はそれを5百個まとめて紀州徳川家に売りつけた。「この前の奉天のものと一緒」だという触れ込みであった。奉天古陶磁の持ち込みのとき、徳川夫人との道ができていた上田恭輔を通じたのである。紀州家は、さきに奉天古陶磁を買うために起こした借金3百余万円の返済のため、昭和2年4月に有名な家宝大売立をしたのに、また新たにそんなものを買い込んだのは理解しがたいが、経済的打算ではなく、国策にこと寄せた軍からの圧力があったのだろうか。

 昭和10年、甘粕の意を受けた上田恭輔が上京して周蔵を訪ね、倣造品作りに加わるように勧めた。それは、上田が『宣統帝愛蔵品図録・・・』などと書き付けた紙片と、その由来書を持ってきて、これに『三井良太郎図譜』を添えたら、倣造品を本物として売ることができるから、『図譜』を提供しろというのである。周蔵は貴志の無念を思って断った。上田は、折角の申し出を蹴った周蔵を憎んだようだが、周蔵は「自分と甘粕の関係は、そんな浅いものではない」と平然としていたが、はたして何もなくてすんだ。

 小森忍は名古屋製陶に昭和14年6月まで勤め、その後東洋セラミックスエ業の顧問として昭和16年までいたとされるが、実はその間しばしば本土と満洲を往復し、現地(夏案子海岸)で古陶磁倣造を指導していた。倣造が成功すると、さらに真作に近づけようと夢中になっていく小森の職人気質には、甘粕さえ驚いた。それでも現品なり図面がないと倣造は難しいものらしく、上田は昭和15年、周蔵を訪ねてきて、『三井良太郎図譜』を買い戻したい、といってきた。周蔵は、貴志彌次郎の偉勲に泥を塗るような計画には応じなかった。
               
 昭和17年、大阪の金持という触れ込みの木村貞造青年が、小森の才能を惜しむという名目で、三重県阿山郡府中村に財団法人佐那具陶磁器研究所を発足させた。小森の自著『日本の陶磁』には、佐那具窯のことを「・・・中国倣古陶磁器の研究に没頭す。中国の古陶磁器中その材質および技術上その倣作に至難とされる宋代の青磁、青白磁、明の青花磁(とくに祥瑞手)、明の五彩磁の研究に没頭し、昭和18年9月、大阪市美術館において約2百点研究倣古作品の展観を催す」とある。その活動の一端を自ら示したものだ。たしかに佐那具製の万暦(風)赤絵は、本物と見紛うものがあった。

 戦後、辻政信を匿っていた周蔵のもとに、未知の木村貞造という人から連絡があり、辻を匿うために必要な資金の拠出を申し出てきた。木村貞造の実体は日本軍の特務であったことが、それで分かったのである。木村はマレー作戦において辻参謀を支援する役割を果たしたと語っていた。最近、辻の潜伏資金は児玉誉士夫から出たとする説(『山本五十六は生きていた』第一企画出版)を読んだが、木村らが児玉機関ないしその類似機関に属していたことは事実であるから、話は整合する。

 木村貞造は後出の湘南の料亭主人や、戦後赤坂のクラブ「ラテンクオーター」を開いた山本某(★この辺の事情は、山本信太郎・『東京アンダーナイト』 廣済堂 2007・2 に詳しい。)らとともに、南方作戦に携わった特務で児玉機関に属していたと伝えられる。

 昭和16年6月24日、台湾軍から参謀本部部員に栄転してきた辻中佐は、9月25日、第二十五軍(司令官山下奉文中将)勤務の参謀要員として、仏国駐屯軍参謀となった。12月4日、第二十五軍司令部を載せた20隻の輸送船は、海南島の三亜港を出て、南方に向かった。マレー作戦、シンガポール攻略における辻政信中佐の発案は機略縦横で、ことに17年1月の銀輪部隊の活躍は有名だが、このとき木村貞造が活動した。銀輪作戦は、兵員が戦闘から追撃に移るとき、放棄していかざるを得ない自転車の前方移動がネックであった。辻は著書でその点を「大東亜共栄圏の理念に賛同した、マレー人やインド人や華僑が協力して、空の自転車を運んでくれたのだ」と事もなげに述べている。これは建前で実際は木村らがそのような工作をしたのである。

 一方、満洲映画の理事長に就いた甘粕正彦は、身を満洲におきながら、相変わらず軍事謀略に熱中していた。東京地裁の判事から満洲官吏へ転じた武藤富男は「昭和15年9月、日本軍がインドシナに進駐すると間もなく、甘粕の行方がわからなくなった。・・・1週間ほど経って、彼は社に帰って来た」と証言する。甘粕の言は「ちょっと海南島へ行って来ました。仏領インドシナの人たちで軍隊をつくり、これを海南島で訓練して待機する必要があるのです」ということだから、映画会社の社長がとんでもないことをするものだ、と武藤は思った(『満洲国の断面』)。

 甘粕と辻はこの作戦を協同していた。木村貞造もその線で甘粕と知り合い、甘粕の指導のもとに『佐那具作戦』を立案したものだろう。木村は明治45年、京都東本願寺門前の廿人講町で生まれ、東西本願寺ことに大谷光瑞師とかかわりが深いようである。このとき30を超えたばかりであり、昭和18年に旧小倉藩主小笠原伯爵の6女・福子と結婚している。
 

 2 佐那具陶研
 

 佐那具陶研は、木村貞造の資金、甘粕正彦の軍に対する支配力、上田恭輔の古陶磁知識、小森忍の窯業技術を組み合わせた一大古陶磁倣造事業であった。

 この地はもともと陶芸用の土が採れないから、陶土は他所から運んできた。そんな不便な地域に立地したのは、倣造の基となる奉天古陶磁は和歌山市近郊松林寺に保管されていた。厳しい条件付の下にモデルとしてそれを貸し出す許可を紀州家からもらってきたのは、上田恭輔であった。紀州にあるホンモノを借りておられる時間が短いので、和歌山とは近い三重県佐那具の地を選定したわけである。

 佐那具は基本的に窯業には不向きな立地だが、厳しい物資統制の時代だから、軍からの物資割当があれば、経済的には充分成立しうる窯であった。5百坪の敷地に高い塀をめぐらし、軍関係の工場ということで、近隣を威圧する風があった。佐那具陶研には、瀬戸から山茶窯のスタッフが移ってきた。小森の義弟で窯・釉薬主任の田村靖治は大連時代からの片腕だったし、テザイナー日根野作三も、瀬戸時代の幹部であった。小森の旧友である浜田庄司も手伝いに来て、天目茶碗を造っていたという。周蔵が生前語ったところから憶測すれば、小森の親友鶴田吾郎が焼物の絵付を手伝ったことがあるようだが、それも佐那具窯と思われる。また、佐那具窯では江戸の名陶工・乾山を大量に倣造したものらしい。

 倣造のモデルとして古陶磁を貨した紀州家には、倣造品の1部が謝礼代わりに渡された。これが菩提寺に預けられ、後に、古陶磁蒐集界を騒がすこととなる。上田恭輔は戦時中、上京するたびに杉並の方南の周蔵宅を訪れ、『三井良太郎図譜』を買い戻したいと言って来たが、周蔵が終に応じなかったのは、これを用いて贋物を造られたりしたら、貴志さんに申し訳ないという真心からであった。

 佐那具陶研は倣造品を本物として売るのが基本戦略だから、当初から販売担当者を置いた。それは古陶磁商Hと学商の佐藤進三であった。得意先は茶道関係と国公立美術館をターゲットとしていたという。佐藤進三は京都の生まれで、東大を出て白樺派の運動に入り、一時柳宗悦と組んで民芸店を経営したが、すぐに自立して古陶磁商となった。日本の6古窯を研究し、論文を発表した半学半商として世に知られてきたが、佐那具古陶磁を頒布していたその実態は今まで世に知られていなかった。佐藤は、白
樺派に近かった小森忍とは昔から知り合いであり、吉薗周蔵の義弟・中沢明四ともたまたま親しかった。

 小森忍は昭和18年6月、満洲国宮内府および総務府嘱託を委嘱され、康徳宮窯製陶所長に就任した。甘粕正彦の差し金とみてよい。小森はその年5月、佐那具陶研の所長を退職しているが、理事長は辞めなかった。佐那具陶研は、小森が居ない時期も義弟の田村靖治が切り盛りしながら昭和25年の閉窯まで戦後も窯を焚き続けていた。窯主の木村貞造は昭和20年に長男をもうけるが、出生地は佐那具陶研の社宅であった。

 終戦後、まだ新宿小田急の横に露店の1杯呑み屋が並んでいた頃、その1軒に上田恭輔、小森忍、木村貞造などが集まり、佐那具の今後を話し合ううち内輪もめとなり、誰かが周蔵に電話をかけて、仲裁を求めて来たが、周蔵はあいにく留守だった。佐那具窯は終に解散する事が決まり木村は元利を回収し、上田は企画料に相当するものを収得した。

 単に月給をもらっただけに終わった小森は、失意のうちに北海道に渡ったが、勤めた工場が次々と閉鎖され、衣食にも苦労するようになり、鶴田吾郎を通じて周蔵に援助を求めてきた。周蔵は小森にあまり好感を抱いておらず、鶴田も藤田嗣治を通じての知人だが、海軍の特務筋なので、親しくしていなかった。しかし、義兄の池田敬三が函館に居たので紹介し、池田の世話で窯業工場に紹介された小森は、その後は何とかやっていけたようである。

 続く。 
 

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この記事に対するコメント
Re: タイトルなし
コメントありがとうございます。
当時、古書市場でも高価でしたので関連箇所だけですが紹介させてもらいました。



> はじめまして、非常に興味深く拝読いたしました、ずいぶん前の記事なのですね。保存しておいていただいてよかったです^^
【2013/12/13 19:03】 URL | ひろもと #- [ 編集]

はじめまして、非常に興味深く拝読いたしました、ずいぶん前の記事なのですね。保存しておいていただいてよかったです^^
【2013/12/09 13:26】 URL | 相生 #- [ 編集]


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