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●『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』
 第2部 第2章 貴志彌次郎と周蔵

  4 奉天古陶磁図経  


 上原参謀総長が貴志彌次郎少将を奉天特務機関長に補したのは、紀州出身の貴志なら紀州家との秘密商談を進める便宜に適うとみたからである。周蔵を奉天に派遣したのも、その貴志の商談遂行を日本で補佐させるためであった。

 周蔵は、奉天へ行く前に満洲東亜煙草会社設立の件で大連に立ち寄ったが、そこで倣造古陶磁を目にした。それは上田が満鉄窯業試験所で小森忍に作らせていたもので、関東軍参謀長・浜面又助少将は上田恭輔と共謀し、軍の戦略にかこつけて満鉄に協力させ、作った倣造品を密売して私益を図っていることを周蔵は察した。奉天に着いた周蔵が、貴志にそのことを話すと、端麗な顔が曇った。潔癖な貴志は、贋物と聞いただけで嫌悪感に打たれ「浜面は自分と同郷だが、軍人というよりゴロの性格だ・・・今回のことは将来大きな禍根を残すのではあるまいか」と憂慮したのである。奉天古陶磁の商談には寸法入りのカタログが必要と考えた周蔵は、三井良太郎を雇い、貴志少将に手伝ってもらって、古陶磁を1点ずつ寸法を測り、図面にした(「周蔵三井合作図譜」)。それでも周蔵に不安が残ったのは、これだけでは贋作を指摘する決め手にならないからである。

 周蔵は元帥から「ヲマンハ 正義ノ弁ヲ カザシテコヒ」と命じられてきたが、今すぐに上田、浜面らの悪事を止めさせるだけの力はなかった。贋物との区別の方法を考えた周蔵は貴志に連れられて張作霖に目通りしたとき、奇抜な提案をする。それは真贋の混淆を防ぐ決定的な方法である。『三井良太郎図譜』には寸法を記していないので、それだけでは贋作を完全には防げない。そこで、製図の方法で器物を厳密に計り、できるなら1部分の文様を原寸大で写しておきたい ― 焼き縮みのある陶磁器には、
同一寸法で同文様のものはできないから、その図を当てることにより、真贋は直ちに見分けることができる。理数系に秀でた周蔵ならではの合理的な着想であった。

 張作霖は周蔵の提案を喜び、早速取りかかってくれと言い、倉庫に机を運び込むなどの便宜を計らってくれた。褒美として、身の回りに使っていた箸立や水洗などの古陶磁を3点、直々に授かった。こうして描いた図に、周蔵は孫游先生から聞いた解説を書き込んだが、さらに磁器庫にあった陶磁関係の古書を写したりした。当時、上田たちが大連で作っていた倣造品がどのような種類かということも、できるだけ記しておいた。それを和紙に描いて紙縒り(こより)で綴じると4冊か5冊になったが、今はそのうちの3冊が吉薗家に残されている。図に解説を添えたものだから、それを『奉天古陶磁図経』と呼ぶ。

 上田恭輔は、周蔵がわずかの滞在期間に『奉天古陶磁図経』を仕上げたことを知らず、周蔵に『三井良太郎図譜』を買わないか、と持ち掛けてきた。「今までは満鉄の世話になって倣古を作ってきたが、いよいよ小森君を独立させて、自主経営に移ることにした。その資本金を我輩も出さねばならん。貴様は将来、乞食坊主になるのが望みで、茶碗を焼きたいと言っておったが、それにはこの図譜は役に立つぞ。どうだ、5千円にしておくが・・・」

 周蔵は言われる通り、450枚ほどあった『三井良太郎図譜』を5千円で買い取った。戦後になり、明子宛てに「父ハソンナモノ役二立ツトハ思ハナカッタガ 金ガ必要ト察シタノデ 買ッタノデアル」と書き残している。

 周蔵が帰国しても、貴志の奉天古陶磁の商談は進まなかった。これは1種の陸軍からの御用金だったから、紀州家は消極的に抵抗したのであろう。いったんは快諾したはずの頼倫老僕は、すでに老境に入り、世継ぎの頼貞に実行を任せようとした。頼貞の側近である東京商科大学教授・上田貞次郎が、陰で反対したこともあり、実行が延びた。そのうち、当初300点で120万円と言っていた宝物の数が、しだいに増え、金額も大きくなった。よろず先送り主義の幕末の気風に浸った旧紀州藩の要人たちは、大正中期となっても、すべてに因循姑息を脱していなかった。

 それに追い撃ちをかけるように、紀州家の周辺に、思いがけない事件も重なった。第1に起きたのが、商談の推進役だった和歌山市在住の俳人、文泉堂主人・貴志貞善の急死で、大正10年秋のことであった。紀州御庭焼に関する『紀州陶磁器史』を著した目利きの文泉堂主人が、老僕に購入を進言すれば万事整うはずだったのだが、これで振り出しに戻ってしまった。ところが、貴志少将はその時までに、見本として奉天古陶磁の数点を紀州に送っていた。前金をもらっていないのに、文泉堂の死去とともに、見本の行方が辿れなくなって貴志少将は進退極まった。周蔵は林次郎にも話して、いざと言うときの金銭解決に備えたが、張作霖の貴志儒次郎に対する信頼がことの他厚く、ことなきを得た。

 紀州家周辺が郷土出身の貴志少将をないがしろにしたのは、貴志の出身が農家だったからであろう。貴志彌次郎も紀州徳川家に頼るのを諦め、周蔵に頼んで他の買手を探させた。周蔵は三井、久原、薩摩らに話をしたが、不況のせいか買手はつかなかった。ついで大正12年9月に関東大震災、14年5月には老侯爵の逝去と断続的に大事が続いて、またも延び延びとなり、紀州家に奉天古陶磁が入ったのは大正14年のことだった。

 最終的には、450点の古陶磁のほか文具、玉器、景泰藍七宝などをひっくるめた代金の750万円が張作霖の懐に入った。上田は幾つかの古陶磁を仲介料代わりにもらったらしく、それを『支那陶磁の時代的研究』に収めている。写真もあれば、三井良太郎の絵によるものもある。

 秘宝の1部はニコライエフスクを回り、若松安太郎(本名、堺誠太郎)の経営する堺漁業の漁船で大阪府の堺港に陸揚げされ、和歌山市郊外松江村の松林寺に預けられた。別便で運ばれた小物は東京の徳川邸に保管されたようである。

 こうして奉天古陶磁は紀州家古陶磁となったが、その後数年もしないうちに、紀州家から流出を始めた。徳川頼貞侯爵にそれを守ろうとする意欲がなかったためである。流出は上田貞次郎の手を経由して行われ、周蔵はそれを窃盗同様の行為と睨んだが、しかし、上田教授が為子夫人と親密であったというから、流出が夫人の意を受けた可能性が高いと思う。

 流出した名品は、まず上海在住のイギリス人に持ち込まれた。当時日本では、茶道具はともかく、鑑賞陶磁器と呼ばれる美術品を理解できる人がほとんどいなかったからである。名品には、英国人蒐集家の買手がつき、彼らの手を経たのち、上海に定住していたユダヤ人銀行家サッスーン家のパーシバル・デヴィッドの蔵品となった。至正11年の銘文があることから、元代青花(元の染め付)の基準品となり、デヴィッド瓶と呼ばれ、中国陶磁中屈指の名品とされている『青花象耳龍水図大瓶1対』が代表的な例であるが、汝官窯製といわれる香炉型の化粧盥(『汝官窯奩』)、大明成化年生銘の『豆彩花蝶文小壷』、『均窯月白長頚瓶』など多数の世界的名品も、もともと奉天から紀州へ渡ったことが『奉天図経』、『奉天図譜』で明らかになった。私がデヴィッド財団に尋ねたところ、これらの取得時期を、昭和9~10年と回答してきた。

 日本国内では、東京国立博物館の・『郊壇官窯青磁鉢』(重文)をはじめ、多数の重文を含む古陶磁が、奉天古陶磁であることは間違いない。出光美術館には数十点も奉天→紀州物が入っている。安宅コレクションの中でも、ことに有名な『元青花魚藻文壷』(重文)もその1つである。奉天古陶磁は、東博はじめ出光、梅沢、永青文庫などに散らばっているが、ことに東博では横河民輔寄贈品、広田松繁寄贈品の中に多い。広田松繁は、わが国で東洋古陶磁商の草分けで、屋号を壷中居と称した。広田が、自分が東博に寄贈した古陶磁の由来を、どの程度知っていたのか、極めて興味の持たれる所である。

 奉天古陶磁のうち、1部は紀州家→(上田貞次郎?)→広田松繁→松河民輔→東博と流れたが、紀州徳川家からの流出は、当初は模作品と本物とのすり替えという形で行われていたと伝わるが、それは侯爵家が正式に決めた売買ではなかったからであろう。ところが順貞侯爵の側近に奉天古陶磁の流出を阻む1派がいた。それは、順貞が寵愛した2代目照小森(本名は未詳)と呼ばれた大谷光端門下の寺小姓であった。照小森(2代目)は、もともと布でくるんだだけで箱がなかった奉天古陶磁に桐箱を作って品名を明記しておくと、すり替えを防ぐことができると考えた。ところが、その名案を頼貞侯爵が取り合ってくれないので、周蔵に醵金を求めた。周蔵は義弟の中沢明四を紹介し、桐箱を造らせた。箱書は2代目照小森がした。

 周蔵はこうして奉天宮殿の古陶磁(秘納庫は2代皇帝ホンタイジの墓である北陵にもあった)の日本への伝来に際し、脇役として加わったのである。

 貴志彌次郎は、親友張作霖を日本軍部の思惑で消された無念と、軍と外郭が、世界の秘宝奉天古陶磁の偽物を造っていることに落胆し、気落ちしたまま昭和13年に他界した。そのとき、周蔵は舌癌を宣告され、何時死ぬとも分からず、乞食坊主の心境で、その日その日を送っていた。

 上田恭輔は昭和3年春、上野の東京美術学校で中国陶磁について講義したが、講義録は「支那陶磁の時代的研究」と題して昭和4年に出版された。その口絵に奉天図経と同一の品が何品も掲載されている。

 続く。
 

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