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●『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』
 ●第2部 第2章 貴志彌次郎と周蔵

 3 面子が支配する社会 


 2カ月もしないうちに、周蔵手記が出てきて、一切の事情がはっきりした。それは貴志彌次郎についても詳しく書かれていた。

 ずっと昔、周蔵の手記に一応は目を通したという明子が、貴志の記載を覚えていなかったのか、訝った私は明子にそれを問い糾した。「周蔵の手記のここに・・・それとここに、ちゃんと貴志が出てるじゃないですか?」

「あっ、それがキシさんのことで手か。私はタカシさんと読むのだとばかり、思っておりました」

 明子は耳に聞いたキシの字を「貴志」と書くとは、思いもしなかったのだった。

 貴志彌次郎を従来の史家は田中義一派と理解しているが、実は上原派であった。上原派は「栄誉なんて関係ない。日本の行く末をきちんと決めるのがワシの仕事だ」と唱える総帥上原勇作元帥の下に、石光兄弟、貴志彌次郎、甘粕正彦、鎌田彌助など一騎当手の強者が、上原の命であることを隠したまま働いていた。周蔵もその1人だった。

 周蔵が貴志と初めて会ったのは大正3年の夏、欧州大戦に日本が参戦する直前のことであった。上原教育総監が千葉の陸軍歩兵学校教官貴志中佐を紹介してくれた。2回目は、大正6年秋、周蔵がウイーンでの安全輸血法の探索から帰国した直後、上原参謀総長の大森別宅に呼ばれたときである。貴志大佐は山東半島の済南に駐在して特務活動に携わり、いわゆる山東第三革命で大活躍していた。貴志に請われて、周蔵は純質アヘンの製造に関する知識を貴志に教えた。山東省で日本が軍政を敷いたことと関係があるものと思われる。

 3回目は大正9年である。5月、陸軍は奉天特務機関を再び設置し、特務機関員に貴志彌次郎少将を補した。周蔵は(上原に)「俺(おい)の使いして、満洲の貴志に届け物してたもんせ」と命じられた。表向きの要件は、張作霖宛の手紙を貴志に渡すことだったが、これは道中フリーパスになるようにとの上原の配慮だった。実際は「大連で満洲東亜煙草会社の設立に参加し、また旅順・大連での日本将校や外郭の行状を監察し、次いで奉天で貴志を助けてやれ」と言われていた。ちなみに、満州東亜煙草はこのとき法人設立にはいたらず、のち昭和12年に法人化された。奉天特務機関新設の第1目的も、進捗しない奉天古陶磁の商談を進めるためだった。上原が周蔵に「貴志を助けてやってたもんせ」とは、奉天古陶磁の商談の
ことであった。

 そもそも愛親覚羅家が、なぜ奉天に宝物を保管していたかというと、それは〔面子〕という中国社会の慣習に淵源を発している。中国社会では「来客に文物を誉められると、それを与えなければ主人の面子が立たない」。だから、来客がうっかり物を誉めると、帰り際に玄関で、紙に包んだそれを渡される。この習慣は東南アジアにまで広がっていて「ベトナム王の宝石入りの帯をフランス公使夫人が褒めたら、直ちに引き抜いて、その場で与えられた」という逸話がある。欲しくて誉めたわけではないので、慌てて断っても、使者を立てて後日わざわざ送り付けて来る。それを受け取らぬと、今度は使者の面子が立たないと言い出す。このような中国社会特有の「面子」、すなわち〔度外れて非合理的化した虚栄心〕を汚したら命がけの問題になると教えられた外国人は対応の道を見失い、ついには思うさま中国人に翻弄されるのである。

 ところが中国人にも本音がある。客が褒める度に家宝を贈呈するわけにはいがない。そこで、特等品・一等品は隠して絶対に他人に見せないのが、上下を問わぬ中国社会の慣習となった。愛親覚羅家は満洲族だったが、永年北京で過ごすうちに考え方が漢化し、隠匿の習慣を身につけたのである。清朝の皇室が伝世の秘宝を奉天宮殿に隠したのは、乾隆皇帝の時代であろうと思われる。

 辛亥革命後、旧清朝宮廷は日に日に衰え、薄儀は周辺に群がるイギリス人達から宝物をねだられっ放しになった。厚顔なイギリス人は薄儀の面子を逆手に取ったのである。それを知った張作霖は、奉天の宝物もそのうち雲散霧消するだろうが、どうせ亡失するものなら我が軍資金として有効活用すべきであると考え始めた。民国2年秋頃、奉天宝物を北京に運ぶように大総統・袁世凱の下の国務院総理・熊希齢から命じてきたが、適当に誤魔化しておいた張作霖は、時機を見て奉天宝物の私有化を実行する。それは大正5年6月、皇帝就任に失敗した袁世凱が失意のうちに逝去したのを見届けた後、同年暮から翌6年2月にかけてのことである。周蔵は張作霖が奉天宮殿の秘納庫を襲撃し、愛親覚羅家の秘宝を奪ったとしるすが、清朝代々古陶磁の蔵番をしていた孫游先生が、逃げもせず、奉天に来た周蔵たちに明朝以来の伝統的な陶磁史学を教えたようだから、襲撃といっても武力ではなく、銀貨の実弾を発射したのではあるまいか。

 奉天古陶磁は、上原奉謀総長の計らいで紀州徳川家に買わせるのが最適と決まった。富力を見込まれたのである。大正6年夏、紀州家世子・徳川頼貞が家庭教師の上田貞次郎に付き添われて朝鮮満洲と中華大陸の旅に出たのは奉天古陶磁の購入問題に関わるものだったが、結局、奉天では北陵に奉拝したものの古陶磁を見なかった。大連では満鉄中央研究所内の窯業試験場を見学し、平野耕輔に会ったと記録されている(『上田貞次郎日記』)。上田貞次郎は、そのとき、窯業試験場にいたはずの上田恭輔や小森忍のことまでは、記録していない。

 上田恭輔は明治2年の生まれである。アメリカ留学から帰国後、台湾総督・児玉源太郎の秘書となり、後藤新平、中村是公と続く台湾人脈に連なった。日露戦争に際し満洲軍総参謀長を兼ねることとなった児玉に随行して満洲に渡り、陸軍では佐官待遇の奉任通訳の地位を与えられた。

 日露戦勝後、満洲の経営について政府内で議論されたとき、児玉は直接占領による総督制を主張したが伊藤博文に拒否され、結局は都督制を採用して関東州を置くこととなった。民営の株式会社を使って間接統治する方法をも模索していた児玉は、東インド会社の研究を上田恭輔に命じた。明治39年、南満洲鉄道株式会社が設立され、設立委員長・児玉大将の遺命で、後藤新平が台湾総督府から抜擢されて満鉄総裁になると、上田は総裁特別秘書として、満鉄内に隠然たる勢力を待つようになった。

 明治41年、2代目総裁になった中村是公は翌42年9月、学友の夏目漱石を満洲に招き、満鉄の宣伝を依頼し、漱石は紀行文として有名な『満韓ところどころ』を著したが、その中に総裁の周辺に上田がいたことが記されている。窯業試験所のことも触れてある。

同年11月宇都宮で陸軍大演習があり、イギリス国王は代理としてボーア戦争の英雄キッチナー元帥を派遣した。インド軍総司令官・キッチナーは北京を経由したのち満洲へ回り、日露の戦跡を調査した。そのとき、通訳として元帥の接伴に当たったのが上田恭輔であった。単色陶磁器の世界的なコレクターだった元帥が、2人だけになると上田との焼物談義を楽しんだ。両人とも、古陶磁研究において既にひとかどの知識があった。キッチナーは奉天宮殿の磁器庫に清朝の古陶磁が眠っていることを聞いて、見
学を申し出たうえ「一品頂戴」とねだり、「江豆紅」という名品を入手した。中国人の【面子】を悪用したのである。

 上田はその後、満鉄や関東軍の特別任務を帯び、支那服に身を包んで張作霖に接近し、奉天と大連を往復していた。大正2、3年の秋に張作霖秘蔵の陶磁器コレクションを拝見に行った逸話を上田は『支那陶磁雑談』に書き留めている。

 張作霖は陶磁趣味で一致した上田に、奉天に隠された清朝古陶磁の値踏みと売却計画を秘かに立てさせた。こうして上田の最大の任務は奉天古陶磁を日本の富豪に橋渡しすることとなった。参謀総長・上原勇作は相手先として紀州徳川家を選んだ。

 上田恭輔は、奉天古陶磁の商談に必要なカタログとして、満鉄製図職の三井良大郎に、450枚にのぼる焼物の図(『三井良太郎図譜』)を描かせたが、それを用いて大連の満鉄研究所内の窯業工場で倣造品を作らせようと考えた。そのために初め平野耕輔を招いたがうまくいかず、さらに京都窯業試験場から釉薬(ゆうやく、うわぐすり)の天才といわれた小森忍を招致した。

 続く。
 

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