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 ●『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』
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 第2部 第2章 貴志彌次郎と周蔵

(1) 一生尊敬した人 


  平成7年12月、私は吉薗周蔵の輪郭をつかむため、毎日数時間をかけて、明子から聞き出していた。

 「お父さんは、日頃どういう人物を批判していましたか?」
 「まず武者小路さんと、総理大臣だった岸さんです。それに父は、藤山愛一郎さんと知り合いでしたが、戦後、岸さんと一緒にやるために、政界入りをなさるということを聞いて、それだけは思い止まるようにと、手紙を書いていたことを記憶しています」

 周蔵は生前、岸信介など当時の政界保守派の巨頭を貶していた。明子がその理由を聞くと「日本をアメリカと国際資本家に売ったからだ」と答えた。

「その逆に、褒めていた人はだれですか?」
 「やはりキシという方ですが・・・」
 「・・・どういう字を書きますか? フルネームは?」
 「貴・志・彌・次・郎」
 「・・!」思わず私は息を呑んだ。「貴志彌次郎ですか?」
 「あっ、そうそう。その方です。その方から父は、美術の見方を教わったそうです」
 「それで周蔵さんは、その方をどう言っていました?」
 「武者小路さんのように日本を悪くした人もいるが、その反対に日本を守ろうとして頑張った人もいたんだと・・・キシさんはそういう人だったと・・・」
 「吉薗さん。貴女はたしかに、私の『ドキュメント真贋』を読んだのでしょう?・・・最初はそう言っていましたね」
 「いえ、実は私は眼がとても悪いので・・・先生のご本は、写真をパラパラと見ただけで・・・」
 「では、私の本の中に貴志彌次郎の名前があるのを知らなかったのですか?」
 「えっ、貴志さんのことが出てたんですかっ!・・・私は、ほんとは読んでいなかったので、知りません・・・それに先生にいただいたサイン入りのご本も・・・人にあげてしまいましたから」
 「貴志彌次郎と周蔵さんはいつごろ逢ったのですか?」
 「ちょうど緑が生まれましたから、大正9年だと思います。父はその方に紹介されて、張作霖という方に逢ったのです・・・」

 「張作霖!」余りの意外さに、私は言葉が出なかった。

 私が貴志彌次郎の名を知ったのは、平成4年の春であった。
 平成元年の暮、私は恩師の画家・稲垣伯堂から、紀州徳川家関係の寺院にあった中国朝鮮の陶磁を見せられた。稲垣は徳川順貞侯爵の為子未亡人と親しかった。私はそれより前の昭和53年稲垣から徳川家の宝子当主(順貞侯爵の息女)を紹介され、光悦の茶碗などを譲り受けたことがあった。

 稲垣に「これらの古陶磁を研究してみる気はないか」と言われ、興味をそそられた私は、とりあえず陶磁専門書を買い集めて一覧した。それらの古陶磁(以下『紀州家古陶磁』と呼ぶ)が、陶磁書に掲載されている公開品と比べると、微妙に印象が異なるのに合点がいかず、台北の国立故宮博物院やソウルの韓国中央美術館に何度も出かけた。現物をみても紀州家古陶磁は故宮の展観品や図鑑掲載品ともやはり違って見えるところがある。どこが違うのか、今度はそれを考えてみた。

 まず第1に、紀州家古陶磁のなかには1見でも模倣品と分かる物やそう見えるものが混じっていた。日本を代表する大大名家の蔵に、なぜそのような模作が入ったのか、そもそも納得がいかず、稲垣に尋ねると「さあ、わしは知らん。それは自分で研究してみてくれ」と突き放された。

 そんな模倣品ないし疑惑品を除いてみても、たしかに真性としか思えない古陶磁が相当の数あり、公開品と比較しても(作行は)紀州物に軍配が挙がる。世界最高水準といわれるデヴィツド財団の蒐集品や、台湾故宮にもない物がある。実は模作の混入よりも名品の存在の方が、私を迷わせた。

 こんな逸品が日本の、それも紀州の片田舎に隠れていた理由は、常識では者えられないが、現に眼前に在る以上、必ず背景と理由があり、それは調べれば必ず分がるはずである。当初は陶磁学者を総動員して研究を委嘱しようがとも考えたが、結論として学者任せにはしないことにした。

 現行の陶磁書1覧した限りでも、陶磁学界の現状の水準は、鑑定基準となる基本的理論と知識情報の体系が磁立しているとは思えない。現今の陶磁学者は長谷部楽爾を筆頭に、いずれも図鑑に並べた器物をほめそやす頌歌を歌うだけで、化学工業とか窯業技術から目を逸らしていた。およそ事を行うとき、根本的な知識を他人から借りると、自身に判断力がつかなくなる。基本的なことは自分で研究し体得することが鉄則、と信じる私は、図鑑と文献を頼りに、自分自身で研究しようと決心した。

 折も折、稲垣の画室で私が『紅海青花九龍文大酒会壷』を見せられたのは、平成2年3月のまだ薄ら寒い昼前であった。薄暗い画室はかなり広い。そのど真ん中に毛布でくるまれた大きな丸い何かがあった。「落合君、その毛布をどけて見い」といわれ、何気なく取り払った時、眼前にあらわれたその壷の印象は忘れるべくもない。

 それは仰天するような超名品だった。むろん、どの図鑑などを探しても、掲載されているようなものではない。こんな物が世の中にあったのか!

 既存文献だけで構築した私の陶磁史観が、体内で音を立てて崩壊した。従来の陶磁史学は、まだまだ払暁の闇に彷徨っていることを実感し、本格的研究の必要を覚った。すっかり陶磁史学に没入しかけた私だが、研究してみろというが、稲垣とて無償で提供してくれる訳ではない。私は自力の及ぶだけの古陶磁を引き取ったが、運搬撮影など他人の協力が必要だったから、高校時代の級友を誘って紀州文化振興会を設立した。稲垣が以前、紀州家古陶磁の分類や鑑定をするときに頼りにした古陶磁研究家の新屋
隆夫を紹介してくれたので、会の顧問に迎えた。

 振興会は稲垣から入手した古陶滋を前にして、1つ1つ新屋隆夫の解説を聞き、そのあと、過去の文献と対比して討議しながら時代分類し、製作窯を見定めていった。既存の図鑑や陶磁書を参考にしたが、信用すべきようなものではなかった。私はその研究成果をまとめ、平成2、3年にかけて『紀州文化振興会所管陶磁図鑑』を編纂した。1巻と4巻が李朝物、2巻と3巻は中国もので、平成3年までに刊行することができた。私が個人的なあらゆる事業を放擲した集中研究の成果であった。

 実に不可解だったのは、紀州家伝来の古陶磁には「五爪竜文」の器物が多く、ことに厳格に扱われるべき「九竜の図」の器物さえも在った。これは紛れもない中華皇帝の御物であって、中華王朝の健在時にあっては、間違っても外部に流出するはずはないのである。したがって、辛亥革命以前には、宮廷がいかに腐敗しようが、この手のものが流出するはずはない。革命後も旧宣統皇帝・薄儀は、紫禁城の内廷に逼塞していた。その身辺は、中華民国政府の保護下にあり、監視の眼が光っていたから、私有物の持
ち出しは自由とはいえ、小品の書画はともかく、このような大物の工芸品を持ち出せたとは思えない。

 歴史を調べてみると、大正13年、「赤い将軍」と呼ばれた革新派の軍閥・馮玉祥はクーデターを起こし、革命後13年経っても紫禁城の内廷に住んでいた前帝・薄儀を放逐したが、その直後馮玉祥も追い払われ、代わって北京の政権を担った黄郭の摂政政府は内廷所在の文物を残らず押収して、清室古物管理委員会の管理下に置いた。その後、清代の製作になる美術品の1部は薄儀に返還されたが、明代以前の宝物は、もともと中華人民の財産だったという理論によって、中華民国政府の所有となった。それが現在台北と北京に並立している故宮博物院に所蔵されている文物の中核となった。つまり、紀州家古陶磁が紫禁城から流出したものではありえないのである。

 こうして調べていったが、中国皇帝の御物が北京から紀州に流伝してきた可能性は見つからない。贋作の可能性もむろん真剣に検討した。だが、作風からしておよそ近代の製作ではありえないことを、専門家の陶匠や新屋が、明確な理由をあげて確認した。だいいち清朝以前では御物の贋作を敢えて企む者はいなかった。製造と流通に携わった者はもちろん、買手も1族皆殺しになるから、買い手がいない。だから商行為として成り立たず、制作動機そのものがなかった。御物に関するその辺の歴史的事情は知れわたっているから、偽物を御物と偽るような筋書をどう作っても、常識人に対しては通用しない。

 辛亥革命以前に、清朝御物が秘かに売られたという説がときどき聞こえるが、宦官が盗み出して換金したにしても、小物だけである。つまり、紀州家の古陶磁のような逸品が、中国皇帝の宮殿を出たのは、絶対に辛亥革命以前ではありえず、それも紫禁城から出た可能性はまずありえない。

 以上の諸点を論理的に突き詰めた私が、その出所が紫禁城ではなく〔奉天宮殿」であると推定するまでに、大して時間はかからなかった。上田恭輔の著『支那陶磁の時代的研究』と『支那陶磁雑談』にある記載、とくに事実上の奉天王・張作霖の蒐集古陶磁を上田が鑑定した話と英国元帥キッチナーと奉天江豆紅の逸話を分析すると、上田がこれに何らかの関わりを持っているような気がした。この人は満鉄内                                         の隠れた実力者で、関東軍とも関係が深かった。

 私は稲垣に、古陶磁が紀州徳川家に渡って来た来歴について、知っていることをすべて教えて欲しいと、何度も懇願したが、裏に何か事情があるらしく、はっきりした事を言わなかった。紀州家に対する配慮のようであった。武家にとっては体面が極めて重要だということらしい。

 だが、あるとき稲垣は、たまたま岡本コシロウという名を出した。父が和歌山市出身の陸軍中将だった岡本は、紀州家の方々が和歌山に来たときには、まるで執事のように、つききりでお世話をしていたというのである。戦前、高級軍人が出身地の旧藩主と繋がりが深かったことに気がついた私は、紀州の旧藩主と軍人を結ぶ線を探究しようと考えた。


 2 奉天特務機関長


 平成4年の春、たまたま和歌山市和歌浦の古本屋をのぞいていた私は、矢田行蔵という人の著した『紀州出身軍人の功績』を入手した。それには満洲(現在は中国軍北部という)に雄飛した紀州出身軍人の略伝があった。そのなかの数人の軍人に私は目を付けた。

 北京駐在武官を20年以上も務めた坂西利八郎、関東軍参謀長からハルビン特務機関長となった浜面又肋、奉天特務機関長から張作霖顧問となった貴志彌次郎の3人は、いずれも陸軍中将にまで昇進し、それぞれ中国と関係が深かった。このうち北京駐在オンリーの坂西は後回しでいいだろう。

 浜面も貴志も張作霖と関係があったが、貴志の方がずっと密接であった。貴志が張作霖の次男・張学銘を自宅に下宿させ、陸軍士官学校に通わせていた事実や、張作霖爆殺の時、日本にいた貴志が急濾現場に直行したことにも、そのことは窺えた。張作霖の爆殺直後に白雲荘主人が著した小伝『張作霖』は、張作霖と貴志の深い交遊を描いている。

 貴志彌次郎は日露戦争時、大尉として満洲軍第四軍(司令官・野津道貫大将)に属し、参謀長・上原勇作少将の知遇を得た。その後満洲軍総司令部参謀の田中義一中佐にも目をかけられ、乃木第三軍に転属になった。大正9年5月、陸軍は奉天特務機関を新設し、初代機関長に貴志彌次郎少将を据えた。機関長の身分は関東軍附である。

 日本陸軍はロシアの南進に備えるため、張作霖を支援して満洲地域の独立と中立化を図っていたが、張作霖に対する露骨な資金供与は日本の単独満洲進出を警戒する英米の咎めるところであった。資金的な支援を禁じられていた日本軍は、まず人材面で張作霖支援をした。会津藩家老出身の町野武馬大佐などが顧問軍人となり、日本との橋渡しをしていた。会社に譬えれば、顧問軍人は出向社員、特務機関長は本社駐在員という身分の違いはあるが、日本軍人としての目的は同じであり、貴志少将が町野大佐と協同したことも多かった。貴志には英米の目を潜って、張作霖の資金作りをしてやるという役目が確かにあったはずだ。それには奉天宮殿の清朝遺宝を持ち出して、秘かに日本国内に売るのが、1方法ではあるまいか。

 ここまで推理した私は、『乾隆帝の秘宝』という題でノンフィクション・ノベル風の小冊子を作り、私が推理した流伝過程をフロー・チャートにして巻末に加え、平成4年10月24日から岸和田城で開催された東洋官窯古陶磁展覧会に際して場内で頒布した。

 徳川家康も重要な美術品は尾張家に譲り、貴重な古書は紀州家に与えた。奉天は清朝宮家にとって、ちょうど京都御所のようなものだから、特別な秘宝はここに隠匿したのではないかと思われるが、漢族にとってはそういう考え方は面白くないらしく、荘嚴『遺老が語る故宮博物院』には、清朝皇室は重要でない品や重複品を奉天宮殿に送った、などと書いてある。これは、究明する必要があると考えていたら、岸和田展覧会に先立つ夏の頃、東京都立美術館で『紫禁城の至宝』という展覧会があったので、早速見に行くと、重要な史実が分かった。

 清朝の最も重要な宝物の保管場所は、紫禁城でなく奉天城内であり、宝物は革命後に奉天から北京に移されたという証拠が出てきた。それは外人画家の郎世寧(カスティリヨーネ)の描いた『乾隆皇帝騎馬像』で、展覧会図録では、紫禁城の南30キロにある南園に在ったと説明してあった。ところが、この絵は明治38年の秋、内藤湖南が奉天宮殿で見たものと同一物であった。内藤がそのとき撮影せしめた写真は有名なもので、漱石の紀行文『満韓ところどころ』にも掲載されている。南園に掲げられていたこの絵が、もし乾隆皇帝の在世時だとしたら、その後、他の秘宝とともに北京から奉天宮殿に運ばれたことになる。それが辛亥革命の後、再び北京に戻され、現在北京の故宮博物院の管理に置かれていることが分かって、清朝文物のうち重要なものは奉天に匿したという仮説に自信が沸いてきた。

 貴志彌次郎の墓所を和歌山市梅原の徳號寺と突き止めた私が、中尾とともに訪れたのは、平成5年1月26日であった。墓に詣でると、花が活けられたばかりで、線香の香りが漂っていた。寺で彌次郎の親族貴志庄三の家を教えてもらい、早速訪ねた。本日が彌次郎の祥月命日で、健次郎の養女益子が墓参に来て先程堺市へ帰ったばかり、という偶然に驚いた。庄三から回想話を聞いたが、健次郎は軍務の内容を話していないようであった。高齢ながら健在という益子に取り次ぎを乞うたが、益子は「張作霖のことは忘れたし、焼物のことには関わりたくない」と断るそうである。あくまでも頑に拒否することに、私はふと不審を抱いた。

 私の調査は更に進み、上田恭輔が張作霖の陶磁研究を手伝ったフシがあることから、貴志彌次郎と上田が合作して、宝物の紀州渡来に尽力したとの推理が固まった。これには90%の自信を持てたから、『乾隆帝の秘宝』を発展させたノン・フィクションを書き上げた。いつでもそれを出版できる態勢にしておきながら、私は何かを待っていた。それは、もっと確実な証拠が欲しかったことは言うまでもないが、それが出てくるような予感がしていたからである。

 私は吉薗明子から、貴志の思い出話を聞きだそうとした。

 「周蔵さんは、貴志さんと中国の焼物について、何か言っておられませんでしたか?」
 「それはもちろん、いろいろと聞きました・・・それで、私は浜田庄司先生のところに、焼物を習いに行ったのですから・・・」
 「何ですって?」
 「父は日頃から『絵画などは大した美術じゃない』と言っており、展覧会に連れて行ってはくれませんでした」

 周蔵は明子に「お父さんは若い頃、見たんだよ。凄い物を見たんだ。あれからすると・・・」といいながら、周蔵は傍のご飯茶碗を指差して言った。

「日本でも古いお寺に行くと、古いお茶碗を箱に入れて、宝物にしているが、たとえ国宝の焼物でも、軍人でいうと少将どまりだ。ところが中国では、元帥はおろか皇帝に当たる焼物がある。それをお父さんは見たんだよ。あれからすると、絵なんて美術のうちに入らない」

「それで私は『じゃあお父さん。私も焼物作りたい』というと、よしよしと言って浜田庄司先生のところに連れていってくれたんです」
「周蔵さんは、どんな物を見たのですがね。中国の焼物というのは?」
「龍の手が5本あるものが最高のもので、焼物では元帥や皇帝に相当するのだそうです。父は満洲でみた手が5本ある龍の壷のことを、日誌に書いておりました。今もどこかにあると思うんですが・・・」

 五爪龍の壷! それを周蔵が見ていたとは!

 私が「貴志彌次郎が清朝古陶磁の日本流伝を媒介したという直接的な証拠を待つのはあきらめ、そろそろ『乾隆帝の秘宝』の出版に手を付けようか」と言っていた矢先に、この奇跡が起こったのであった。

 続く。
 

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