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●『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』 
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 ●『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』
 第2部 序 章

 吉薗周蔵ほど魅力的な人物は、私にはまず思い当たらない。
 本質的に自由人であるが、決してエゴイストではない。思想的には右翼、国家主義の側ではあるが、その行動には他人を思いやるヒューマニズムの筋が通っている。自然科学の素養が深く、極めて理知的である。一切の公職につがながった無冠の庶民にして、各界の重要人物とこれほど関わった人は他に居ない。ただしそれは、裏側だけでのつきあいであった。

 上原勇作(陸軍参謀総長・元帥)、大谷光端(西本願寺門主)、山本権兵衛(首相・海軍大将)など日本を代表した人物と関係が深かった。久原房之助(政友会総裁・幹事長・逓信大臣)とは、上原との関係から経済的に深く繋がっていた。甘粕正彦(満洲映画理事長)、貴志禰次郎(陸軍中将)、荒木貞夫(陸相・陸軍大将)、石原莞爾(陸軍中将)に対しては周蔵側がら手伝ったことが多い。甘粕が紹介してくれた辻政信(陸軍大佐・参院議員)とも親交があり、甘粕中尉に頼まれて、潜伏中の伊達順之助(満洲国軍上将)を匿ったこともあった。

 芸術家では藤田嗣治(画家)と関係が深く、その線からジャン・コクトーと連絡が絶えなかった。国内画壇では熊谷守一と親しく、佐伯祐三との間には御存知のような複雑な関係があった。少年時代にはヽ白樺派の作家武者小路実篤(作家)ヽ志賀直哉(作家)と遊びヽ浜田庄司(陶芸家)とはその後も交流があった。薩摩治郎八と知り合い、その紹介で徳田球一 (共産党書記長)も訪れてきた。

 医学者では呉秀三(帝大教授)の教えを受け、額田豊と晋の兄弟(東邦大創立者)から、帝国女子医専の薬学科の教師として勧誘された。青森の漢方医の槇玄範からは家伝の一粒金丹の伝授を受け、周居應(本名王希天)という中国人スパイからは針灸について教わった。

 市井に隠れた無冠の大物としては、石光真清(陸軍の諜報機関長)、牧野三尹(医師)、若松忠次郎(財界人)、若松安太郎(本名堺誠太郎)、布施一 (無職)、落合朝彦(音楽評論家)が知己であった。いずれも秘かに国事に尽力した人物である。

 さらに藤山愛一郎(外務大臣)、武見太郎(日本医師会会長)、岸信介(首相)、前尾繁三郎(議会政治家)らとも、関係があった。変わったところでは、渋沢敬三(元日銀総裁)とは秘かに助け合いしたことがあった。

 以上の人物との関わりは、『ニューリーダー』のこれからの連載の中で、自ずから明らかになるが、この章では、周蔵と宿縁深かった薩摩治郎八と貴志禰次郎、また周蔵からすれば佐伯絵画よりも重大な関係のあった奉天古陶磁について、簡単に述べてみる。

 
 第2部 第1章 薩摩治郎八と周蔵 

(1)日本会館建設の謀略


 薩摩治郎八(明治34~昭和52)は、綿糸綿布商・薩摩治平商店の3代目である。少年にしてイギリスに留学したが、すぐパリに渡り、社交と遊蕩と画家のパトロンとして、盛名をうたわれた。

 薩摩治平商店は、周蔵の父・吉薗林次郎が薩摩絣を納入していた得意先であった。大正3年、当時20歳の周蔵は、父に言いつかって、駿河台の薩摩家に薩摩絣を届けに行った。治郎八は13歳だったが、このとき2人は出会わなかった。★堀口大学によれは、治郎八は15歳の時、男の同性愛をテーマにした『女臭』という小説を著して水上滝太郎に見せたが、水上から余りに早熟過ぎると言われて、原稿を焼き捨ててしまった、という。
 ★堀口大學の「薩摩君のこと」(1955年8月4日未明)と題した一文。

 薩摩家は海軍に近かった。大正6年、渡欧から帰った周蔵は海軍筋の若松安太郎から薩摩治郎八を紹介された。治郎八は直ちに周蔵に好奇心を抱き、突然幡ケ谷の周蔵宅に訪ねてきた。周蔵が陸軍の上層部から密命を受けていることを感知して、その内容を知ろうとしたのである。治郎八は周蔵を自邸のパーティーに呼び出し、その席上でわざと共産主義者の徳田球一を紹介した。以後徳田はしばしば周蔵を訪ねて来るのだが、それは治郎八の意を受けたものらしい。治郎八本人も予告なしに周蔵宅を訪ねて来
て、周蔵の動静を窺っていた。

 周蔵は治郎八の傾向に危険なものを感じていた。眼が青い人であれば、誰にでも近づき一体化しようとする治郎八は、西洋人崇拝と家柄コンプレックスが強すぎた。フランスに渡った治郎八が、自覚のないままに富力を利用され、国益に反する工作に走ることを周蔵は懸念した。思い立った周蔵は、薩摩邸のパーティーのときに治郎八の秘書の休暇日を聞き出し、その日に尾行して、新宿一丁目の私娼窟大黒座歌舞伎横町に通っていることを突き止めた。早速楼主を買収し、敵娼(あいかた)が聞いた秘書の言動から、治郎八のフランスでの行動を割りだした。

 治郎八の一大事業は、パリ市南部の大学都市に日本会館を建てて寄贈したことであった。これはもともと日仏両国政府の合意によって計画されたが、日本政府は資金不足を理由に、薩摩父子に肩代わりを要請して完成させた。その背景に関する驚くべき逸話は周蔵の手記から窺える(後日『ニューリーダー』誌に掲載予定)。日本会館は大正9年の10月12日、おりからパリ滞在中の李王殿下夫妻を迎えて定礎式を行い、9年の歳月をかけて昭和4年5月10日完工した。総工費は「現在の邦貨2借円」だったと、治郎八の自伝『わが半生の夢』にある。今日では数十億円にあたる。画家の藤田嗣治が、館の階下サロンと正面玄関の壁画を描いたが、裏で国事に携わっていた藤田は、その筋の必要があって、薩摩治郎八に接近していたのである。

  治郎八はやがて、周蔵に頼らざるを得ない立場になった。日本館建設の着手と同時に、大戦後の恐慌が始まり、独力で完遂できなくなった治郎八は、若松安太郎と吉薗周蔵に秘かに救援を仰いだ。当時、周蔵は、情報収集のために東京市電の運転手をしていたから「市電の運転手にそんな金はない」というと、治郎八はすかさず一言「知ってるよ」と言った。身辺探索はお互いだったのだ。

 周蔵は義侠心から薩摩治郎八に協力し、大正15年7月にまず5万円を融通するが、これは翌年の絵画10点で代物弁済された。昭和2年6月さらに6万円を融通し、対価はその翌年に絵画7点を贈られた。

 吉薗家に、次のような葉書が存在している。(*葉書の写真は略す。)

 **********

 東京市外 代々幡幡ケ谷四七六
 吉薗 周蔵様

 昨日例の事 完納いたしました

 パリに見事な日本の學生館を建てて見せますから期待していて下さい

 日本の名誉見事にあげてみせます

 大枚をお送りいただきましたのでせめてのおなぐさみに

 集めた絵をお送りいたします
 
 有名な画家のものです とくにルノアール・コーガン(*ママ)は見事です 

 ゴツホも小品ながら立派なものです三井(郵船)で送りました

 五月中に届くでしょう  薩摩

 周蔵が資金6万円を支援してくれた謝礼として絵画コレクションの1部を贈呈する趣旨のこの葉書は、5月に船便が着くというから、昭和3年4月のものである。「例の事完納」とは佐伯祐三から日本送りを依頼されていた油絵が乾いたので、周蔵宛てに船便で送った、という意味だろう。佐伯が周蔵の妻・巻からもらった前金の対価として渡した祐三作品は、佐伯米子が帰国する前に、3回に分けて幡ケ谷に届いた。薩摩が預かった祐三作品の、残りの分が届いたのは、昭和5年の年末であった。周蔵はそれらの絵をすべて、知人で海軍の筋だった外山卯三郎に預けた。

 薩摩父子が政府の依頼を受けて建設したパリの日本会館だが、外務省と文部省が出すはずだった維持費の話が立ち消えになってしまい、薩摩は金策に追われた。後年1930年代に入って、吉田茂や広田弘毅の斡旋で、日本政府から金1万円の資金が交付されたが、その日付と交付者たる外相の名義は、大正10年当時のものであった。これは日本政府がわざと支払いを遅らせていたことを黙示する。政治は本来、このように厳酷なものである。


 (2)ドーリーの介抱


 薩摩治郎八の自著『わが半生の夢』によると、日本会館寄付の大事業を果たした薩摩は、昭和4年、日本に錦を飾り、5年の春に再びフランスヘ戻った。4月末、ギリシャ旅行からパリに戻って落ちついた途端、妻千代子が肺尖カタル(結核の初期段階)になった。11月、治郎八は代々幡町の吉薗周蔵宛に葉書を出す。

 「前略 要件のみ ドーちゃんに困っています 内密にお願いしたい大事が生じました。急ぎ事ではありませんが、一度 初音の方へ行ってみて下さい ドーちゃんのために 薩摩」

 駿河台の邸が関東大震災で焼けてしまい、治郎八の父は初台に移っていた。人形みたいな容貌で“ドーリー”と呼ばれていた千代子に起こった1大事とは何か。意味がよく分からない周蔵は、治郎八ヘの礼儀として、とりあえず初台の薩摩邸を訪ねたが、父子の間に意志の疎通がないらしく、治郎八の父は呑気なことを言っていた。1大事は、むろん肺尖カタル罹病のことだが、初台ではそのことを周蔵に教えなかったのである。

 翌6年の秋、再び治郎八から手紙が来た。周蔵はそのとき既に北沢に引っ越していた。

 「東京市世田谷区北沢五-1773  吉薗周蔵様
 ドーちゃんに困っています 誰もがスイスをすすめます。Mネッカーもです ドーちゃんは取り乱しています 援護お願いします 薩摩治郎八」

 外地で夫と離ればなれになる不安で、取り乱した千代子に「アルプス山中のメデェーブに転地療養することを勧めてくれ」という依頼である。だが、薩摩父子の関係は淡白らしく、治郎八の父はとくに心配していなかった。ここでネッカーの名が出てくる。周蔵は「ネクル氏ノコト書ヒテアルガ、藤田ノハヅナヒカラ 誰力 ツクッタノデアラフ」と解した。

 ネクル氏こと藤田嗣治は、甘粕正彦を通じて陸軍の密命を受け、コスモポリタンである薩摩治郎八を監視していた。藤田が甘粕や周蔵と連絡するときは、必ずジョルジュ・ネクルの名を借用した。ジョルジュ・ネクルは芸術家ジャン・コクトー(実体は黒マリア教の主頭と噂される)の部下で、本名をモーリス・グドゲという精神カウンセラーの別名で、のちに女流作家コレットと結婚する。治郎八の葉書にあるMネッカーとは、そのグドゲのことと思われる。

 因縁浅からぬ2人は時局観を巡って対立する。思想的対立を生じた2人の間を繋いだのはドーリーこと薩摩千代子であった。昭和8年秋、薩摩治郎八は「わが唯一無二の親分」というパリ大学都市総裁(元文部大臣)のオノラ上院議員の来日に随行する形で、結核の千代子夫人を連れ戻るため、帰国した。船中の様子を知った周蔵は「臆病者メ。妻君ヲツレ戻ルノニ、一緒ノ船デアリナガラ 一度モ会ハナカッタラシヒ」と、治郎八の薄情さを憤った。

 治郎八は千代子の今後を周蔵に相談した。周蔵が牧野医師に尋ねたところ、大磯の薩摩別荘でしばらく牧野などの医師に見てもらい、その後、医師・正木不如丘の経営する富士見サナトリウムに入れることを推奨された。治郎八は満洲事変、支那事変と束の間の戦勝景気に湧く世情に失望し、翌9年の暮春、再びフランスヘ向かった。その後パリやインドシナにあって独自の国際活動を行い、またタイで金鉱発掘に乗り出したが進捗せず、その間暑さで身体を壊し、看護のフランス婦人に付き添われて日本へ戻ってきたのは、昭和13年5月であった。

 千代子は大磯別荘で数年間療養していたが、昭和12年、長野県諏訪郡富士見にある富士見サナトリウムに転地した。2年ほどで退院した千代子は、諏訪に別荘を作ってもらい、薩摩家の什器を運んできた。別荘を建ててくれるということは、2度と薩摩家に帰ってくるなという意味だと、周蔵は察した。この間、周蔵の妻巻が千代子の看護を引き受けていたが、結核が再発した千代子は、昭和24年その別荘で息を引き取った。

 一方、昭和13年、帰国した薩摩治郎八は、京都の別荘で静養したのち大磯の別荘に移ったが、富士見サナトリウムには見舞いに行かなかった。時に、三国同盟をめぐる陸海軍の暗闘は凄まじく、海軍筋の治郎八は陸軍の監視を受けて嫌気がさして大磯を離れ、箱根小涌谷の別荘で蟄居していた。翌14年時局をめぐる意見の相違で周蔵と大喧嘩をしたのち、周蔵に為替を都合してもらってパリに向かい、大戦中を欧州で過ごし、千代子の伯父にあたる松平恒雄(駐米大使)の影響下で、日独伊の三国同盟計画を潰す活動に参画していた。『わが半生の夢』には、国際主義者薩摩治郎八の日本軍人に対する反感と、絶望感が満ちている。


 (3) 治郎八の帰国


 薩摩治郎八が昭和28年ごろ、日本に引き揚げてきたとき、千代子はすでに他界していたが、仮に生きていたとしても、訪ねては行かなかっただろう。治郎八は箱根に落ちついた。後にサザエさんの長谷川町子が買い取ったという別荘であろう。治郎八が周蔵の居所を突き止め、連絡してきたことを物語る昭和27年2月2日消印の書状がある。

千葉縣犢橋村 横戸 明星寺   古薗 周蔵 様

久しく 今日本の土を踏みました
予想以上の荒廃に驚いています
随分探しました 県人会から移転先を問い質しました
千葉との事なので上原さんの関リで移ったと 思っています
貴兄とはパリに立ったあの日 袂を分ち 故に帰国の事 
知らせるべくもなしと 決めていました
しかし 悲惨な 現実に僕も 多少孝行の
真似事なりをいたしたく ルノアール二枚ほどいただきたく願い
ペンをとった次第です
此混乱の申 武士の情 よろしく願いあげます
また 妻が最後まで世話をかけた事 深く御礼申しあげます
            箱根の山中にて
               薩摩
 
13年前、袂を分かった2人だが、治郎八は妻千代子を面倒みてもらっていたことを、まず周蔵に感謝しなければならなかった。次に、かつてもらったお金の対価として周蔵に渡した絵のうちから、ルノアールを2枚ほど返してもらいたい、と懇望する。治郎八は薩摩県人会で周蔵の消息を聞き、千葉に移住と聞き、上原との関わリだと推量したのは、以前からその関係を知悉していたからである。

 その後の経過を物語る書状もある。

千葉縣犢橋村 横戸 明星寺   吉薗 周蔵 様
 消印 昭和27年12月1日

前略  箴言のみ
聞くに 今だ あの頃と変わらぬ活動の中にいるとの事 
此混乱に喘ぐ 現實を貴兄は何と見ていられるのであるか
世界中から幸福を奪た者は 全て貴兄の尊敬する人達である
目を見開けよ 混乱の中の 耳語を聞けよ 美くしい世界を
心の中に描けよ
貴兄は語て止まる人物でなく 口惜しいが改めて本日別れの
一筆啓上申し上げます
全人類の幸福を奪た 日本の愚鈍たるを自覚し侮いたるまで
僕は貴兄を念頭から消し去ります

1日もはやく 貴兄から何たるかの反省の言
聞ける事 願うのみです
日本の名誉のために あえて啓上
   吉薗 周蔵様          薩摩

追伸
先日は 早速に願い 聞き届けていただき
感謝致します
しかもルノアールの他 3作品も御恵贈賜り
痛み入ります
                   薩摩
 治郎八は、周蔵が敗戦後も一向に変わらず、日本帝国復活の夢を追っているものとみて呆れ返った。「貴兄の尊敬する人物」とは上原勇作、貴志彌次郎、荒木貞夫、甘粕正彦などの陸軍軍人であるが、周蔵は治郎八が思ったような頑迷なファシストではなかった。長い間に1つの民族にまとめ上げられた日本人には、独特の文化様式が染み込んでいる。日本人が浅い考えで、外人のやるとおりを真似しては、この国はたいへんなことになる。

 そう信じた周蔵は、治郎八のような浅薄な国際主義には同調しないだけであった。

   続く。
 

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