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●疑史(第25回)支那秘宝の日本渡来(5)
 ●疑史(第25回)支那秘宝の日本渡来(5)   

 張作霖が奪った奉天秘宝の中には翡翠や玉、七宝もあったが大半は支那古陶磁で、奉天特務機関長・貴志彌次郎少将が仲介して、大正13年に紀州徳川家に入るが、間もなく1部が流出することとなった。紀州家財政顧問の東京商大教授・上田貞次郎が紀州家の1部に使嗾されて実行した。紀州家主催の茶会の度に、拝見にこと寄せて持ち出したので、携帯し易い小物が多かった。換金して紀州家縁戚の金鉱資金に充てたという流出品は、美術商を通じて内外の好事家に渡った。買手は法人ばかりでなく、世界的な貴顕富豪も多く、中でも上海の財閥パーシバル・デヴイッドが最たる者であった。すなわち、今日ロンドン大学にあって世界で最も高水準と評されるデヴイッド・コレクションである。

 デヴイッド蒐集品の中でも最も有名なのが、元代染付「至正瓶」で、学術上も重要視されている。瓶に施された至正11年の年銘と元代染付に特有の各種文様、すなわちラマ蓮弁文とか蕃蓮文などが、他の元代染付の製作年代-それも西暦1351年との前後関係を鑑定するために明確な基準となる、とホブソンが指摘したからである。

 本来1対だった至正瓶は、デヴイッドには当初片方しか入らず、もう1方はラッセル氏の蔵品だったが後にデヴイッドの許に合流した。至正瓶は、瓶に書かれた献納文によってはっきり民窯品と分かるが、吉薗周蔵が製作した『奉天図経』にその図が描かれていることから、奉天秘宝だったことは明白である。『奉天図経』は必ず数量を記しているが、至正瓶については1対とか2対とかの注記はなく、奉天秘宝には片方だけしかなかったとも考えられる。いずれにせよ、これだけの品となると、民窯品でもいつしか皇帝に献上されて御物に納まっていたわけで、乾隆皇帝の「美術品狩り」に遭ったものかも知れぬ。高さは60センチ強あるから、懐中に隠せるものではなく、上田貞次郎は、これを(1本だけ?)両手で携えて持ち出したことになる。

 デヴイッド蒐集品は、至正瓶を例外としてほとんどが官窯品だから、本もとは清朝皇帝の御物と誰にでも分かり、それは各所の博物館の所蔵に帰した奉天秘宝も同様である。それでも、清朝宮廷から各博物館に至るまでの経路を、各館の学芸員らがいまだに解明できないのは、無能によるものではなく、納入した美街商がひたすら来歴を隠蔽してきたからに他ならない。真相を後世に残すという人類史への義務よりも、営業上の都合を専ら優先するのが彼らの習いである。

 以て消極的偽史作業と断ずべきだが、この点は売文家も似た者のようで、吉薗周蔵から入手した「大連アヘン奉件に関する邉見メモ」を参考に、ひねりにひねった大作『神々の乱心』を著した松本清張とその周辺は、邉見(へんみ)メモを永遠に秘匿してしまった。ネタ割れを嫌ったのだろうが、それが日本近代史中の1大事件の解明を妨げているのである。

 それはさて結論を言えば、デヴイッド蒐集品も各博物館も、所蔵する流出奉天秘宝の大半は、紫禁城―奉天北陵-張作霖公館-紀州徳川家-上田貞次郎-美術商という経路を通ってきた。数で言えば、地元の利からわが国が最も多く、東京国立博物館、出光博物館は今でも数多くの流出品を所蔵し、多くは重要文化財に指定されている。昭和40年代に突然市場に現れ、安宅コレクションに入った「元代青花蓮池魚漢文壷」(注・青花とはわが国でいう染付)は、世に出るや直ちに重文指定となった。掬粋工芸館所蔵の「磁州窯・白地黒掻落し牡丹唐草七宝文枕」や同・重文「青花鳳凰草虫文瓢瓶」も奉天流出品である。旧熊本藩主・細川家の所蔵たる重文「康煕桃花紅合子」も例に漏れず、その他枚挙にいとまがない。

 外国では、ロンドン大学は素より各地の博物館にあるが、意外に多いのが中華人民共和国である。その例として、上海博物館所蔵の北宋磁州窯「白地線彫り人物文瓶」、同「白地鉄絵草花文瓶」、「康煕粉彩牡丹文碗」「雍正銘墨彩竹石図碗」が挙げられる〈品名は佐藤雅彦著『中国陶磁史』(平凡牡)刊を用いた、以下同じ〉。

 北京の故官美術院では「越州窯青磁水注」も奉天流出品の例だが、驚くべきは元代の「青花白堆龍水図梅瓶」である。これに関し、佐藤雅彦前掲著は「河北保定のある遺跡で、これに関する重要な発見があった。(中略)そして青花の玉壷春や水注にまじって、龍を白堆花であらわした青花面収の梅瓶1対が出土している」と解説する。これら所謂出土品は、先年展観のために日本に来た時は、超国宝扱いであった。たしか、昭和39年に河北省保定で、小学校の工事中に偶然地下の穴蔵から見つかった、と解説していたと思う。

 それら。【発掘品】が何と、周蔵が大正9年に奉天で製作した『奉天図経』に記載されている。日本に渡った奉天秘宝の幾つかが、40年後に穴蔵からの出土品と称して出現したのである。

 ついでに言えば、南京博物院の元代「青花騎馬人物図梅瓶」もその伝で、博物館側は「南京郊外の皇族の墓から出た」と説明しているが、『奉天図経』にはこれと酷似した品の記載がある。いずれも、日本の美街商の手から、何人も経由して、中華人民政府の所有に帰したものだろう。

 歴史重視を唱える支那人士が、このような古物の伝来を敢えて偽装するのは何故か。これこそ支那社会伝統の慣習たる【面子】のために他ならない。【面子】とは何か、日本人には終に理解不可能と思うが、一応これまでに聞いた所を並べて、婉曲的に説明したい。

 明治44(1901)年秋、わが陸軍大演習の視察のため、同盟国イギリスは陸軍元帥キッチナーを派遣してきた。支那陶磁の蒐集家として知られた元帥が、途中北京に立ち寄ったのは、古陶磁研究の目的があった。時あたかも革命の前年で、皇帝博儀は幼児だったが、キッチナーはとにかく歓待を受ける。宴席の机上に1対の桃花紅(碗か?)を見たキッチナーは之を褒める。「それではお持ち帰りになるか」と聞かれたが、元帥は「かかる場合には断然固辞すべきという慣習の存在を、幸運にも知らなかった」と上田恭輔が記すとおり、土産に貰う結果となった。これで味をしめたキッチナーは、次に奉天に向かい、奉天宮殿の磁庫で半日を過ごした時、自ら「1品拝領」を東三省総督(張)にねだる。八道紅〇大瓶1対をせしめ、道中自らそれを抱きながら、元帥は日本に向かった。以上は、陸軍命令で元帥の接待に当たった上田恭輔の述懐である。

 ところが19世紀、安南某国王に謁見した仏国の貴夫人が、王の締めていたベルトをたまたま褒めたところ、王はいきなりそれを外し、片手でズボンを抑えながら、ベルトを夫人に差し出した。贈呈すると言うが、夫人はむろん固辞する。しかしどうしても聞いて貰えず、止むなく受け取る羽目となる。つまり、上田の言うように「断然固辞すべし」が慣習なのではなく、「固辞しても駄目」が本当なのである。

  何故、そんなことをするのか。文明が急速且つ過度に発達してしまった支那帝国は、いわゆる中華思想を形成し、中華文明を唯我独尊とし、外交的には冊封体制を採った。すなわち外交的にも文化的にも周辺諸国に対等的地位を認めず、政治的に屈従させるもので、交易さえ等価交換とは考えず、朝貢と回賜という形式にこだわった。このため支那人全体が1種独特の貴族的気風を形成した。地位・財力・思考力など実質はともかく、気位だけは貴族なので、社会全員が貴族のつもりで行動する。その規範が【面子】なのである。

 会食でも割り勘は論外で招待者が勘定を持ち、客は後日返礼する。来客に所有物を褒められた場合には、必ず与える。固辞されても受け付けず、客がその場を逃れても、後日使者を立てて押し付けにゆく。これは、貴族にあるまじき吝嗇の性格でないことを自ら証明するためである。これが面子の原点で、言うなれば「面子の第一法則」である。

 しかし、やたらと他人に与えたがる者はおらず、やがて貴重品は必ず、客に見つからぬ所に隠すようになる。客間に並べるのは安物ばかりだが、敢えて本物と称して展示する。客も支那人ならば先刻承知であるから本気で褒めはしないが、社交的必要で褒めた場合、呉れると言うなら、あっさりと頂いていき、後日、同等の安物でお返しすれば良いのだ。つまり、面子を守るために、主客とも真実を離れて嘘を付き合う社会的合意が形成され、「面子の第二法則」となる。

 周蔵が『奉天図経』で解説する所では、満洲族の乾隆皇帝自身の思考が支那化したため、紫禁城の最高品を選んで奉天に隠匿することになった。面子と品物の両方を守ろうとすると、皇帝であっても隠匿するしかないからである。次善品については展示する場合もあるが、それは敵の上使に見せて収賄を誘発する目的である(キッチナーが北京で見せられた桃花紅が好例である)。普通品は平常応接間に飾り、臨機応変に、社交的に利用する。

 その他、一般贈答品は例外なく倣造の下等品で、私も随分頂いたが、触れ込みでは必ず「伝家の宋画」などと臆面もなく称する。しかし、それを公然指摘しては相手の面子を壊すことになるから、謝して受領する姿勢を採る。因みに、日本人有力者は戦前、支那人から随分その手の物を貰い、対応に困った。荒木大将の孫扱いだった新屋正夫氏は、「高松宮が支那人から骨董品を贈られた、どう対応したら良いか」と側近から意見を求められ、すぐさま「貰い捨てになさいませ」と答えた。私(落合)も、現JOC会長から、尊父竹田宮が軍人時代に満洲で貰った唐三彩なぞ幾つかあり1度鑑定して欲しい、と言われたことがある。まだ拝見していないが、キッチナーの例ではよもやあるまいと思う。

 上田恭輔の著書では「乞食が観光土産店に来て金銭をせがむ。追い返すと乞食の面子を潰すので、マッチ1箱にせよ与えて引取りを願う。そうしないと乞食は女性客に向かって卑語猥言、およそ聞くに堪えないことを怒鳴り、土産店を困らせる」とある。乞食にも、支那人である以上、乞食の面子があるらしいが、この場合の根拠は分からない。

 どうにもはっきりしない面子観念だが、奉天秘宝が日本に流出した事実それ自体が、中華人民政府としては「面子上認められない」ということだろう。彼らが日本に迫る「正しい歴史認識」が、面子と無関係である保証があるのか。 


 ●支那秘宝の日本渡来(1)~(5) <了>。  

 

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