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●疑史(第24回) 支那秘宝の日本渡来(4)
●疑史(第24回) 支那秘宝の日本渡来(4) 

  参謀総長・上原勇作元帥は大正5年9月、陸軍少将・貴志彌次郎を奉天特務機関長に補し、張作霖が鹵穫した奉天秘宝を紀州徳川家に売却せしめる仲介を命じた。上原から貴志工作の支援を命ぜられた陸軍特務吉薗周蔵は、すでに関東軍奉謀長・浜面少将が上田恭輔と謀り、満鉄研究所内で秘宝の倣造を始めたのを知り、後顧の憂を未然に防ぐため、真贋の判別に際して決定的役割を果たすべき「奉天図経」を作成した。

 図経は和紙をコヨリで綴じて3、4冊の帳面にした、と記されているが、そのうちの2冊を平成8年この目で見ることができたのは、私(落合)の一生を通じての奇跡と思う。

 私と奉天秘宝の関わりは平成元年末から始まる。紀州在住の稲垣伯堂の画室で数十回にわたり、ありうるべからざる古陶磁を見た。今から思うと、奉天秘宝の本物と倣造品をごちゃ混ぜにして見せられたのである。ほかに朝鮮物も多かったが、これについては後に回し、取りあえず支那陶磁について解説する。以下は私の実体験である。

 むろん稲垣も私も、当時は奉天秘宝の存在なぞ知る由もない。稲垣の口吻から紀州徳川家ゆかりのものとは察したが、稲垣も来歴を知らず、どうやら満洲から来たと、漠然と聞いていたようだ。来歴調査を引き受けた私は、古陶磁の大半が文様・様式・作行からして支那歴代の官窯品であることを確認した。もともとは清朝御物であったとしか考えられない。

 愛親覚羅家の発祥は奉天である。故に、清朝皇室が代にか、歴代御物を紫禁城から奉天に移し、秘かに隠したと考えても不自然ではない。日本に渡り紀州徳川家に入ったとしたら、時期は清朝の隆盛時はあり得ず、孫文奉命の後しかない。そう見当を付けたら、すぐに奉天督軍張作霖が浮かんだ。奉命後の中奉民国において日本軍に最も接近した奉天軍閥の主である。とすると、紀州家への伝来は、張作霖と親しい日本軍人が仲介した可能性が高い。それも紀州出身の軍人ではなかろうか。

 平成3年春、古本屋で『紀州出身軍人の功績』と題する古書を見つけ、浜面又助、坂西利八郎及び貴志彌次郎の存在を知る。いずれも紀州人である。北京政府顧問として北京在住20年を超え、日支の掛け橋として有名な坂西中将はまず除外できる。浜面中将は関東軍奉謀長を経験し、予備役編人後も奉天で張作霖の裏面指導に当たった、とある。また、貴志中将は奉天特務機関長として張作霖と昵懇だった、とあるのを見て、仮説は確信に近づいた。清朝宝物の日本渡来の仲介者は2人のどちらか、あるいは両方ではないだろうか。

 そこで和歌山市内の貴志の生家を尋ねたら、当主は幼時会った貴志のことは覚えていたが、奉天秘宝については何も知らなかった。浜面は後年楠山と改姓したが、遺族の所在はつかみようもない。

 調査はここで行き詰まったが、紀州家ゆかりの古陶磁の多くは、稲垣から私の管理に移った。専門家の意見を聞くべき段階に来たので、北京大学の楊根教授を招聘して意見を聞いた。世上のあらゆる陶磁全集を買い入れ、記載品と手元の品々を比較してみたが、どこか雰囲気が異なる。主要な相違点は2つで、第1は紀州物が概して寸法雄大であること。第2は、風格というか気品がどこか違うのである。

 岸和田市の助役が職員数名を従えて私を尋ねてきたのは、それから間もなくであった。聞けば「市制施行70周年の記念事業として特別展を開催したいから、紀州家ゆかりの古陶磁を貸してくれ」とのことであったが、どこから情報を得たのか、必ずしもはっきりしなかった。私が快諾したのは、展覧を機に、来歴に関する情報が入ることを期待したからである。私は、それまでの情報・知識を基に来歴に関する仮説を立て、デスクトップで『奉天城の秘宝』という小冊子を印刷し、展覧会場に並べた。内容は小説風で、張作霖と貴志彌次郎の関与を仄めかしたものである。

 岸和田城の天守閣で、展覧会は平成4年10月から開催された。開幕した途端、朝日新聞・読売新聞・テレビ朝日などによって、大々的に贋作報道がなされた。ことに執拗だったのはテレビ朝日で、「ニユースステーション」で長時間を費やして展示品を非難した。久米宏が例の軽薄調で「張作霖の軍資金作りなぞと言うが、歴史に詳しいお方の言では、それは考えられないとのことです。言ってみれば劇画・漫画の世界だ」とせせら嗤った。この手合いは、所詮この程度の見識しかない。画面を見ると、スポンサーは出光石油とあった。

 読売新聞が連れてきた大伴公馬なる大物は、岸和田市役所に対し「現行展覧品を即時撤収して、自分の所蔵品と入れ替えよ」と要求した。岸和田市教育長は「もしそうする場合には貴殿の名前を発表する」と言明したら、大伴は「そんなん困る」と言って引き下がった。だが、読売紙面には「古美術に詳しい短大元学長が展示品に疑念」と大書していた。大伴の専門は心理学で、趣味として和物をいじっているだけの実状は無視して、読売は世間を惑わしたが、記者は直前に東洋陶磁美術館に赴き、伊藤館長から展示品に関する見解を聞いて確信(誤解)を深めたものらしい。

 憤激した自分は、展示品の1部について、放射線を用いた年代鑑定を実施し、結果を岸和田市で発表したが、1部のマスコミが僅かに報道しただけであった。その後、私が1件をまとめた著作『ドキュメント真贋』を公刊した頃には、岸和田贋作騒動はいつしか消えてしまった。

 紀州物の来歴調査も暗礁に乗り上げたが、私が1件について出版したからか、あちこちから引き合いがあった。不審だったのは、手元の紀州物とそっくりのように造られた陶磁器をあちこちで見せられたことである。大阪某所では膨大な数のそっくりな品を見かけた。「広島に行って鑑定して欲しい」との依頼があり、出向いたところ、紀州物とは確かに良く似ているが、どこか違うものであった。一方が他を真似たのは明らかだから、少なくとも片方は倣造品だ。しかし、だからと言ってもう片方が本物と言えるのか、最終的な判断がつかなかった。

 平成8年になり、私は吉薗周蔵の手記を調べる機会にめぐり合い、記載内容の裏付けに専念していた。すると、大正3年条に、周蔵が訪ねた陸軍教育総監・上原勇作中将から「キシなる佐官級の大物に引き合わされる」との条が見つかった。さらに大正9年条に、奉天で周蔵が貴志から張作霖に引き合わされて奉天秘宝を見せられるくだりを見るに及んで、懸案が解決した。紫禁城→奉天城→張作霖→紀州徳川家と伝来経路を推理した自分の直感が完全に当たっていたのである。

 おまけに、周蔵が作成した前記『奉天図経』も出てきた。その冒頭に記された「私文」によって、奉天秘宝の日本渡来の経緯が明確になり、また随所で見た倣造品の由来もはっきりした。図経はまだ2冊しか見ていないが、その2冊だけでも本物と倣造品が入り混じった紀州物のうちから、奉天秘宝を60点余り、はっきりと選び分けることができた。同時に、東京国立博物館、東洋陶磁美術館、出光美術館、ロンドン大学、デビッド・コレクションなど世界各地の博物館で、支那陶磁の代表作とうたわれて目下展示されている品々のほとんどが、本もとは奉天秘宝であったことが分かった。

 周蔵手記によれば、奉天秘宝は全部で3百点余り、中にも極上品は百点にも満たない。貴志の仲介で大正13年に紀州家に入った時、代価は7百50万円ほどであった。近年得た伝聞をも合わせ、臆断も交えて推測すると、奉天秘宝はその後、5つのグループに別れた。まず数年もしないうちに、小物を中心に、かなりの数が紀州家から流出した。紀州家財政部長で東京商科大学教授の上田貞次郎が、紀州家の1部と結託して秘かに売却したのである。これらが美街商の手によって国内および世界に散逸したのが、   第1グループである。今や国内はおろか世界各地の美術館で秘蔵の名品とされており、どの陶磁全集を見ても、支那陶磁の主役を務めている。

 第2グループは、佐藤雅彦著『中国陶磁史』(昭和53年、平凡社刊)が「個人蔵」として紹介する品々である。紀州家から譲られた某家が秘蔵しており、京都市立芸術大学教授・佐藤雅彦が見て、前掲著の動機となった。因みにこれまで各社から刊行された陶磁全集は何種類もあるが、揃いもそろって第1グループの写真を並べて解説しているだけなのに、佐藤の前掲著に限っては、併せて第2グループを掲載している処が異色である。つまり、佐藤の著作動機は、第2グループを公開することにあったわけである。平凡社ではその英語版も公刊し、広くその存在を海外の識者に分からせようとしている。
 
第3グループは、上田恭輔著『支那陶磁の時代的研究』の口絵に掲げられる数点で、上田が手数料代わりに頂戴したものだ。同著を見れば分かるが、蓋し珍品で、これを所持したことが上田の著作動機となったと見てよい。同様に貴志が褒美として賜わった数点もあり、詳細は分からないが、第3グループに含まれる。最近聞いたところでは、第3グループはひっくるめて大物右翼某氏に渡った、とのことである。

 第4グループが、故稲垣伯堂画伯が近年まで管理していた品々で、私(落合)は2年間にわたり何十回も拝見し、大半はその後私の管理に移った。だが、移らなかったものもあり、それらがどうなったのか今は分からないが、第5グループとしておく。

 第1グループは、現在、世界各地の美術館に飾られ、人類の遺宝とされているが、各地博物館では、故意か美街商に欺かれてか来歴を偽っている。東京博物館には「郊壇下官窯青磁鉢」高元代染村魚藻文壷」をはじめ、奉天秘宝の多数が重要文化財として展覧されているが、東博のいう来歴は、前者は「骨董商・広田某が裏日本の回船屋の伝来物を入手、得意先の横川民輔に贈与したもの」とあり、後者は「東博の創立に与った田中某が上海で買い求めてきたもの」と言う。来歴を仮装したのは入手経路を偽るためである。明白な歴史偽造で、先月号の「元代染付竜文瓶一対(至正瓶)」の来歴もこの伝であるが、他国にはもっと凄い例がある。
 それは次号に。
 

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