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●疑史(第23回)支那秘宝の日本渡来(3)
 ●疑史(第23回)支那秘宝の日本渡来(3) 

 大正9年5月、奉天特務機関長に補された陸軍少将貴志彌次郎は、奉天軍閥の主、張作霖が3年前に奪った愛親覚羅家の秘宝を旧主の紀州徳川家に買わせるよう、秘かに命じられていた。一方、上原付陸軍特務の吉薗周蔵も、貴志の支援を命ぜられて奉天に赴き、乾隆帝が奉天北陵に秘匿した支那歴代の古陶磁を見て、4千年の歴史に圧倒される。

 満洲では満鉄総裁特別秘書の上田恭輔が、大連の満鉄研究所内に窯を築き、名工小森忍を招聘して、早くも秘宝の倣造を始めていた。上田は、関東軍参謀長・浜面又助少将と手を組み、満鉄で秘宝の倣造品をこさえ、軍資金作りを名目にこれを拡売して、共に私腹を肥やす所存であった。

 紀州徳川家と交渉が始まる以前から、秘宝の倣造はすでに始まり、贋物が世間に横行せんとしていた。これでは貴志工作の妨げになるばかりか、工作が成功して秘宝が紀州家に納まった後に、倣造品が本物顔で出てくる場面も予想される。そうなれば紀州家は困惑し、貴志の立場は悪くなる。上原元帥はさすがに事態に気づいたが、今更倣造中止を言いだすこともできない。上原が周蔵に「オマンハ 満洲デ正義ノ弁ヲ カザシテ来イ」と激励したのは、貴志のために倣造工作に反対してこい、という意味であった。

 貴志の役に立つならと、勇んで満洲に来たものの、倣造工作を進める浜面は、貴志の紀州藩と陸軍での先輩で、現に関東軍参謀長として上官であるから、貴志はどうすることもできない。むろん周蔵なぞが歯の立つ相手ではなく、倣造を正面切って反対することは思いも寄らなかった。

 倣造品を排除する方法としては、正確な真品図録の作成が最も有力である。それには写真撮影が適切だが、張作霖は許可しなかった。秘宝入手の事情に後ろめたいものがあったからであろう。写生なら、上田はすでに満鉄製図技師・三井良太郎に依頼して秘宝を1品ずつ描かせていたが、これは倣造の参考にはなっても真贋鑑別に決定的な力はなく、むしろ倣造品を真物と誤認させる手掛かりにもなりかねない。

 何とか真贋鑑別の手掛かりを残そうと考えた周蔵は、妙案を思いつく。真品を写生して精密な測尺を書き加え、そこに2、3の工夫を加えるのである。これを作霖に具申すると快諾され、測尺作業用の机を運び込んでくれた。貴志少将自らも作業を買って出て、特務機関付の森上等兵にも手伝わせて、1品ずつ秘宝の寸法を測る。東亜鉄道学校で学んだ周蔵は測量が得意であった。

 陶磁器の測尺は、ふつう底径・高さ・口径など数力所を行うだけだが、周蔵はさらに「底から何寸目の高さの部分の周囲が何尺何寸」と、任意の1部分の数値を付け加えた。次に真品の1部分にだけ薄紙を当ててトレースし、その文様を正確に写した。通常、同一文様の真品は1点しか存在しないから、これが鑑別の決め手となる。同じ文様の品が数点ある場合は、代表的に1点をトレースし、類品の個数を注記した。他には年款銘や孫游のコメントなど特記事項を書き込み、以上を1枚の和紙に記し、それを綴って帳簿にした。これが仮称『奉天図経』で、私(落合)の手もとに目下2冊ある。周蔵が晩年の手記に記した所では、全部で4、5冊あったらしい。

 そもそも倣造は、真品に即して原寸通りの器形を作り、文様をそっくり写してする作業だが、窯内で焼き縮みする陶磁器においては、文様を正確に模すことや、各部分の寸法を同じにすることは不可能である。よって、真品が1点しかない物(秘宝の大半はこれ)にあっては、対象品を『奉天図経』と照合するだけで、真贋判定は誰にでもできる。また、類品が複数ある場合には、図経にある代表の1点と比較することによって、対象品が真品か否かを判定できるのである。

 さて、日本に「陶磁学」なるものが芽生えたのは大正期であった。それまでは茶道の師匠が主に和物(国産)・高麗物 (朝鮮半島製品)を目利きし、唐物(支那製)・島物(南洋産品)については、伝来の事情などを文献的に追及する程度であった。ところが、大正茶道界に新たに参入した成金茶人たちは大学卒でのインテリが多く、茶器の鑑定にも科学的要素を求めた。彼らは世界観も広く、陶磁趣味においても、本場の唐物を主な対象とする傾向があった。
 19世紀後半から、経済力を背景に支那古陶磁を買い集めたのは欧米の成金で、その中から数人の研究者が現れたが、その方法論は学術的というより、西洋的知識を以て付会するエッセイに過ぎず、趣味の境地を脱するものは少なかった。20世紀に入り、新たに斯界に登場した邦人は大半が大連に僑居する満鉄関係者で、大谷光端・中尾万三・上田恭輔などが出現した。彼らは学問的方法による陶磁研究を相次いで発表したので、勢い斯界に先端的地歩を占めることとなった。

 その後、奉天駐在の外交官だった尾崎洵盛が『陶説注解』を著して文献研究で斯界の第1人者となり、さらに元共産党細胞の小山富土夫が、支那事変下に宋代の古窯跡を尋ねて定窯の遺跡を発見した。これを以て本邦陶磁学界の水準は上がり、今日でも支那・韓国を含めて、日本学者が世界陶磁学界の指導的地歩にあるというのだが・・・。

 蓋し、陶磁史のごときは地域文化史の一隅に在り、史学の最果てに位置し、今でも科学的方法論というには程遠い。雑器として顧みなかった朝鮮半島は固より、「政を見るに器を以てす」と謡って尊重した支那本土でも、陶磁の鑑定のごときは学術というより職人芸であって、父祖の伝承を継ぐ世襲の鑑定家が之に当たってきた。奉天秘宝を守ってきた孫游先生が正にその人で、明代は紫禁域に在った秘宝を清朝皇室が受け継ぎ、乾隆皇帝が奉天に移してからは、孫家の歴代に蔵番を命じて厳重に管理させてきたのである。

 秘宝が張作霖公館に移された後も、孫游は顧問的な立場で秘宝の傍らにいて、家伝の陶磁知識を上田に伝授したが、孫家管理下にあった蔵帳と古書は上田に移っていたようで、上田は「何ならその本を取ってきてやろうか」と周蔵にほのめかした。奉天秘宝の蔵帳には1品ずつの品名と生産窯が記されてあったことは『奉天図経』の記帳から窺える。周蔵は孫游自身とはあまり接触せず、もっぱら上田から陶磁知識を教わったようで、『周蔵手記』には、「焼キ物ニ スッカリ 身ヲ入レテシマッタ自分ニ ウヘダサン 君ハ軟弱ダ ト云ハルルモ、説明サル。〔コレハ 全テ 受ケ売リデアルニヨーク聞ケ〕ト云ハル」とある。

 すっかり陶磁器に魅せられた周蔵を、軟弱だとからかいながら、上田は孫游の受け売りを講義した。

 講義は「吾聞ク 陶ノ道タル哉。金石ノ屑〇、草木ノ精ヲ抜ヒテ陶土ヲ練リ、型ヲ作ル(以下略)」と古書の解読から始まり、「コノヤフニ 古人ノモノ 説明受クルモ 分カラヅ。詳シクハ 官窯ト呼バル 宮中二納ムルダケノ目的ノ窯ガアッタ ト云フコトラシヒ。民窯ト云フノガ アルヤフダカラ、ソノ反対ノ 宮中二納ムルモノハ 度合ヒノ違フ水準ナノデアラフ」と記すのを見れば、講義は官窯と民窯の違いを強調し、歴代官窯の在り方を説明したものであった。秘宝の大半は宮窯品だから、1品1品に関する記録や伝承は、歴代皇帝の権威に裏付けられ、疑う余地のないものばかりであった。

 それでも、稀には古伝にも疑義があると見えて、孫家先祖の誰かが自己の見解を書き加えた品もあった。ある青磁は蔵帳には元々「竜泉窯」と記していたが、孫某が「景徳鎮窯」と訂正している。この訂正の通りならば、宋時代の景徳鎮でも青磁が焼かれていたことになるが、今日の“陶磁学者”はおそらくそれを否定するだろう。

 上田から基本的な陶磁知識を受けた周蔵は、記憶のままを手記と『奉天図経』に記した。真品を眼前にし、蔵帳と見比べながらの勉強だから、紛れもない。因みに、小山富士夫が支那陶磁史上の3大難問と謂う紅定窯・北宋官窯・柴窯の3つのうち、紅定窯については奉天図経に極めて明白である。すなわち、蔵帳では「定州紅玉」と呼ばれ、秘宝の中でも殊に秘宝たる逸品とある。全部で数点あるが、2点は目下私が保管している。さらに、紅定窯にも劣らぬ珍品は緑定窯で、全体禄釉の中の1部分に黒釉を掛け、強いタッチで水禽を彫り込んだ壷は、某陶磁研究家がこれを見て驚嘆し、「今後何万点もの古陶磁を見るにせよ、これほどの物に会うことはあり得ない」と断言したほどの出来ばえである。禄定窯は、この壷の外には1、2点ほどしかないようである。

 惜しい哉、周蔵は古陶磁に関してはズブの素人であった。ゆえに、今日の陶磁学者なら重要視する事柄を、眼前に見ながら追究しなかった。1例は今日「デヴイッド瓶」又は「至正瓶」と呼ばれ、至宝とされる花瓶である。元代染付(青花磁器)が数多く揃う奉天秘宝の中には、入っていなくとも別に構わない品であるから、奉天図経には、例によって竜身の文様をトレースした他には、ただ「年記アリ」としか記していない。

 だが、元代の磁器には珍しいその「年記」こそ、今は有名な「至正11年4月」の年次(西暦1351年)で、これに陶磁史上貴重な価値があるとされる。第二次大戦後に元進駐軍将校のポープが、このデヴィッド瓶とトルコのトプカプ宮殿の所蔵品と比較して文様を研究し、デヴィッド瓶と似た様式を「至正様式」と名付けて、染付の年代鑑別のキーとした。蓋し、トプカプ所蔵品はほとんどが民窯の貿易陶磁であるから、ポープがデヴィッド瓶の比較相手としたのは真に適切で讃えられる業績である。しかし、それは元代官窯品が未だに世に出ないゆえの仮の手柄であって、実は奉天秘宝の中には元代官窯の染付磁器が数多く、それを見るだけで、極めて正確に元代染付の鑑別ができるのである。
 
 ★この花瓶がデヴィッド家に入った経路は追究されていないが、昭和4年にイギリスのホブソンが発見(!)したことは陶磁史上画期的な出来事とされている。しかし、このデヴィッド瓶は他の秘宝と同様、大正13年に奉天を出てシベリア鉄道を経由し、ハバロフスクで漁船に積まれ、蟹と鮭物に紛れて堺港に陸揚げされ、紀州徳川家に納められたものである。

 それが、5年後にロンドンで発見(!)されたのは、いかなる経緯によるものか。わずか1対の花瓶にも疑史が潜むものである。
 
 続きは次号で。
  


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