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● 疑史(第22回) 支那秘宝の日本渡来(2)
 ● 疑史(第22回)支那秘宝の日本渡来(2)

 大正9年5月、参謀総長・上原勇作元帥は陸軍特務・吉薗周蔵を満洲に派遣した。任務は表向き張作霖宛の上原の親書を奉天特務機関長・貴志彌次郎少将へ届けることであったが、極秘任務として、

①貴志彌次郎が命ぜられた奉天秘宝の換金工作への支援、
②満洲東亜煙草の増資払込、
③大連アヘン事件の真相調査、 の3点があった。

 本月は第1点について説明する。

 孫文の支那革命を横取りして新たに王朝を開き、洪憲皇帝を称した袁世凱は大正5年6月6日に急死した。それまで奉天で機を窺っていた張作霖は、12月から翌6年2月にかけて、奉天北陵の各所に隠されていた愛親覚羅家の秘宝(奉天秘宝)を強奪した。その中身は大半が支那陶磁で、蔵番は清朝時代から代々孫という家で、当代は孫游(孫文游とも)といった。

明朝時代から清朝中期にかけて紫禁城内に厳重に秘匿されてきた御物のこととて贋物混入の疑いもなく、各品に関する製作当時の文書や文献も明確で、鑑識に当たっては迷うことがなかったから、代々の伝承と文献を受け承いだ孫游は、生まれながら最高の支那陶磁学者だったのである。

 張作霖の手口を『周蔵日記』には「強奪」と記すが、孫游の友好的な態度を見ても、決して暴力に拠った筈はなく、買収といった方が当たっていよう。いずれにせよ、秘宝奪取に当たって張は、折から自分に近づいてきた満鉄総裁特別秘書・上田恭輔に手伝わせた。秘宝の換金先は日本が最適と見たからであろうが、国事のために張に接近していた上田は喜んで片棒を担いだ。

 秘宝の強奪を機に、上田恭補は古陶磁研究に没頭することとなった。研究といっても孫游先生の知識の受け売りだけだが、にわか陶磁学者となった上田は、翌7年から矢継ぎ早に各雑誌に陶磁評論を発表する。
 大正7年6月 雑誌『朝鮮及満洲』  「青磁の話」
 同8年3月 雑誌『実業公論』  「美術として支那陶器その製作品に対する批判と史的考察」
 同年4月   雑誌『支那風俗』  「辰砂紬の話」
 同年同月   雑誌『大陸之工商』  「絵高麗について」

 極めつけは、昭和3年東京美術学校の特別講座での講演録を刊行した『支那陶磁の時代的研究』である。同著は、今日では異端の陶磁書とされ、長谷部楽爾以下の今時の陶磁器学者は挙って言及を避けているが、実はこれが1番正しい。理由は言うまでもなく、孫游直伝の知識に基づくものだからである。

 奉天秘宝の1件を上原参謀総長が知ったのは、満鉄に配していた腹心・鎌田弥助を通じたものと思うのは、奉天公所次長の鎌田が上田の張作霖工作を支援していたからである。

 張作霖の軍資金にするための換金先を、色々の候補の中から上原が紀州徳川家と決めたのは、大名華族の中でも有数の金満家だったからであろう。上原の意向を伝えられた紀州家では、下調べのため世子徳川頼貞の訪満が決まり、紀州家財政顧問で頼貞の家庭教師でもある東京商科大学教授上田貞次郎を従えて、頼貞は奉天に向かった。

 大正6年7月25日夜に出京した2人は、27日神戸発の汽船に乗り、朝鮮経由で30日に奉天に到着し、ヤマトホテルに入る。『上田貞次郎日記』には「7月31日、赤塚総領事の案内にて北陵を見学し、城内の満鉄公所にて昼飯 (支那料理)を饗せられる。次長鎌田弥助氏接待す」と記すばかりで、秘宝については全く記していない。上田の日記は秘宝1件を隠すのが目的だから、それも尤もだが、秘宝は時すでに張作霖公館(事務所)に移されていた。

 続いて「8月2日朝、大連着。日中休息。同夜満洲館にて中村総督の招待を受く」と記す。明治38年占領地の軍政のために置かれた関東総督府は、41年関東都督府と改称したから、正しくは都督で、大正3年以来陸軍大将・中村覚がその職にあった。ところが2日前の7月31日付で関東都督府の官制が改正され、中村覚は軍事参議官に転出し、後任に満鉄総裁・中村雄次郎が補せられた。中村雄次郎は明治35年中将進級と同時に予備役編入、以後八幡製鉄所長官を経て満鉄総裁に就き、大正4年に後備役に編入されたのが、66歳にして現役に復帰したわけである。

 新旧都督が同じ中村姓だから紛らわしいが、頼貞主従を招待したのは新任の中村雄次郎である。旧紀州藩士で、幕末の藩命による仏国留学が今日の地位をもたらした雄次郎は、転任2日後の極めて多忙な時だったが、旧主の世子を丁重に扱ったわけである。大連に数日逗留した主従は、「8月7日、午後窯業試験所に赴き平野耕輔に会」したと記している。

 孫游の教えにより奉天秘宝の価値を知った上田恭輔の報告を聞いた関東軍参謀長・浜面又助少将は、その贋作を企てた。本物を紀州家に嵌め込んで張作霖の軍資金とする上原元帥の意図を真似て、贋遺品の方は内地の富豪に売却して関東軍の秘密資金にするのが浜面の名分である。満鉄の研究予算を自由に使える立場の上田恭輔は、浜面に製造担当を申し出た。

 浜面の計画が参謀本部で諒承されたので、上田は直ちに東京高等工業窯業科長の平野耕輔を招聘し、満鉄中央試験所の窯業科長にする。満洲転任に際して平野が付けた条件が京都の名工小森忍の引抜きであったが、上田はこれを呑み、同年6月3日小森忍が満鉄中央試験所窯業科主任として転入してきた。

 因みに『周蔵手記』の別紙記載の一つ「奉天陶磁図経」のうち「私文」と題された文には、「(満鉄では始めはいろいろ失敗したが)コノ(大正9年)2月二来タル小森忍ナル人物ノ技巧優レテヲリ・・・」と記す。小森赴任の時期は、平野耕軸『布袋磁小誌』と『河合寛次郎日誌』によって、大正6年6月3日とはっきりしており、大正9年とするのは周蔵の聞き違いと思われるが、いずれにせよ、小森の赴任によって倣造は軌道に乗ることとなった。ここで一言すれば、平野も小森も要するに陶工で、上田の企みを見抜いていたが、当時の職人気質では、倣造を悪事なぞとは夢にも考えていなかったのである。

 徳川頼貞主従が訪ねた満鉄窯業試験所は、秘宝倣造計画の拠点であった。会った相手に平野の名があるが、窯業科主任小森忍も当然お目見えしたのであろう。それにしても、紀州家が秘宝購入の以前から贋造の一端を担っていたとは、いかにも考えにくい。窯業試験所の見学は、いずれ上田恭輔か浜面の差し金であろう。

 奉天宝物の嵌め込み先は大正6(1917)年、早くも紀州徳川家と決まったが、取引が遅れたのは資金事情もあろうが、狡猾な張作霖との折衝も、紀州家には難儀だったのであろう。そこで上原は紀州根来同心出身の貴志彌次郎少将を選び、大正9年5月奉天特務機関長に補した。取りあえずは張作霖と懇親する任務を与えたわけである。その頃には、上田らの秘宝倣造は軌道に乗っており、奉天に来る途中大連に寄った周蔵は、幾つかの倣造品を見せられた。

 上記「私文」に周蔵は、「大連ニテ ソノ作りタル物ノ幾ツカヲ見タガ ソノ時ハ 何モ考フル事モナカッタモノノ 張作霖ノ宝物ヲ 今見ルコトトナリ 大連デ見タ物ノ技巧二驚ヒタ」とある。誰がそれを見せたのか記していないが、アヘン事件の調査に当った周蔵の、大連での宿泊先は大谷光瑞師の別邸だったから、そこで見せられたものだろう。上田恭輔の著作2つに光瑞師が序文を書いているが、上田の本当の頭は後藤新平でなく、光瑞師だったフシがある。大正3年日本を去り、大連に本拠を構えた光瑞師は支那古陶磁に関心を深め、支那陶磁研究の草分けとなり、陶磁に関する著作も多い。やがて大連に住む満鉄関係者の間に古陶磁研究グループが生まれるのも光瑞師の影響によるものと思われる。

 さて「私文」は「トニカク自分ハ コノ状況ヲ賛成シナヒ態度ヲ 示ス側デアレバ良ヒ トヰフノガ仕事」と続く。周蔵は「参天秘宝の倣造を賛成しない態度を示す側に付けば良いという任務」、つまり、倣造に反対してこいと上原から命ぜられたのである。「私文」の別の箇所にも、上原から「おまんは満洲で正義の弁をかざして来い」と言われたとあるが、これも同じ意味のようだ。

 続いて「ソレハ 貴志サンノ側デアルニ 自分ハ ヤリヤスヒガ ソノ理由ハ何力」と記したのは「倣造反対は貴志少将の側だから、自分にとってはやり易いが、それを自分が命ぜられた理由は何だろうか」と自問し、「軍ハ 張作霖二ヘツラフ フリヲシ 上田ヤ浜面ガヤル事ハ 軍ノ意トハ異ナル ト見セルタメカ」と自問する。参謀本部は「秘宝の倣造は、張作霖にへつらうためを名分にしながら上田や浜面が行うもので、参謀総長の意思とは異なる」という事を貴志に仄めかして、貴志を通じて張作霖に分からせるためだろうか、と憶測したわけだ。

 続いて「貴志サンガ ソレニ気ヅカナヒハヅガナヒ ト思フ。軍ハ 何ノ目的ナノカ。アンナ窯業カラ 軍ノタシニナル 金ガ上ルノカ 疑問ダ」と記す。しかし明敏な貴志少将が上田・浜面らの意図に気づかぬ筈はない。参謀本部の意図がどうにも分からないのは、あんな倣造品で稼ぐ程度では軍の秘密資金のタシ(足し)になるとも思えないのに、倣造を認可したことだ。「貴志サント 話セルヤフニナリ ソノ事聞クト 『東京ハ現地ヲシラナヒカラ 上田ノ話ヲ ウマヒ話ト 思ッタノデハナヒカ』ト云ハル。『浜面ハ 自分ト同郷ニテ軍人トヰフヨリ ゴロノ性格』トノ事」。東京の参謀本部は現地を知らないから、上田の話に乗せられて、許可したのではないか。浜面なぞ紀州の先輩だが、軍人というよりゴロの性格だよ」と渋面を作った。すべて彼らの私益目的だというのである。

 倣造計画を知った貴志は、倣造品が本物になりすまして出て来る日を予感した。紀州家から疑惑を招き貴志の立場も悪くなるが、それよりも張作霖と日本軍との親善にヒビを入れることを懸念し、上原に具申したので、上原は貴志の支援を周蔵に命じたわけである。周蔵は、贋物と本物を見分けるための方法を張作霖に提案し、張の快諾を得て、それに取りかかった。現在の真贋混同の古陶磁界を一刀両断で解決するその方法とは何だったのか。次号に詳しく述べる。
 
 

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