カウンター 読書日記 ●疑史 (第21回) 支那秘宝の日本渡来-(1)
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●疑史 (第21回) 支那秘宝の日本渡来-(1)
 ●西南事件を『中国共産党外伝』の眼から見た序に、『闇の世界史』(ウィリアム・G・カー著、太田龍監訳 成甲書房 2007)の巻末近くの一文「★中国共産化と蒋介石の排除」を紹介しようと思ったが、止めた。

 ふと、こんな文章を思い出したからである。

 「 太田竜(ママ、↑の龍の字ではない)は女の腐ったような奴だから出て行ってもらった。
さる女から、男のくさったようなやつと訂正してほしい旨申し入れがあったが、これはどちらでもいいことだが、俺(平岡正明)の語感では、男はスタれるのであり、女はクサるのだというほうがよりふさわしいと印象されるので、このままで行く。
 竹中労は汎アジア百八日幻視行に行っちまった。3-2=1、若輩のおいらが前口上を書く・・・略・・・」
(『窮民革命のための序説・水滸伝』 三一書房 1973・5・31 )

 落合莞爾 「疑史」に戻ることにする。

 *************   
   

●疑史 (第21回) 支那秘宝の日本渡来-(1)

 先月号では、張作霖暗殺の真相として、蒋介石が田中義一に満洲譲与と交換条件で依頼したことの証拠を挙げたが、稿中余談として、清朝の乾隆皇帝が奉天に隠匿した支那歴代の古陶磁を張作霖が横領し、それを上原元帥が軍資金援助の目的で紀州徳川侯爵家に買わせたことを述べた。以下は『周蔵手記』に記されたその詳細である。

 大正9年4月21日、陸軍特務・吉薗周蔵は、奉謀総長・上原勇作元帥から「1度満洲に行ってほしい」と言われた。以前上原から紹介された貴志禰次郎が間もなく奉天に転勤するので、そこに届け物をせよとの命令である。加えて「貴志モヰロヰロ 苦ニスルコト多ク 何力民間ノ手ヲ借リルコト多シ ト思ユルニ、是非行ツテホシヒ」とのことであった。
 
 心底貴志に憧れていた周蔵は、満洲に行けば情報術の師匠石光真清にも会えることもあり、この任務を喜んだ。貴志は前年8月少将に進級し、歩兵第31旅団長として富山に赴任していたが、5月12日付で奉天特務機関長に補せられる予定という。5月4日、貴志本人に渡すように、と念を押されて渡された届け物は、張作霖に宛てた上原の親書で、この任務で上原は周蔵の満洲行の名目を作ったのである。

途中で大連に寄り道して、満洲東亜煙草会社に出資せよとの密命を果たした周蔵は、21日奉天に着き、貴志に届け物を渡すや直ちに内蒙古の錦州に向かった。23日に会った石光は、諜報活動を隠すために表看板の事業を各地で行ってきたが、錦州商品陳列館という貿易公司の経営で損失を出したので、借金返済のために苦労をしていた。2人でいろいろ話すうちに、阿久津氏と共同で製薬会社を作り、軌道に乗せた経緯に及んだ。「スルト 石光サン。ソレヲ利用サシテホシヒ ト云ハル。アヘンヲ 薬品トシテ モルヒネ剤二製造スル 全テヲ教ヘテホシヒ ト云ハル」。

 上原閣下の命令で習得したアヘン知識を、無断で他言するは閣下に背くものと考えた周蔵は、石光自身で習得した知識ということにして欲しいと頼み、モルヒネの精製法を教えた。一方、『石光真清の手記』にも、錦州では有力軍閥の張宗昌と協約して阿片からモルヒネなど医薬品を製造したことを記しており、本件の裏付けをなしている。

 貯金をはたいた大金を携えてきた周蔵は、そこから1万円を石光に進呈する。「金ハ借リル ト云ハルルノデ ソンナコトハ無シ 寄附ニシマス ト云フ。願ハクバ 何カー筆書ヒテホシヒト頼ム・・・何ト書クノガ 希望デスカ ト云ハル」。「御自身ヲー言デ書ヒテ下サルト」との周蔵の請いに応じて、石光は筆を執り、有り合わせの石を硯にして、周蔵持参の和紙に「雪沈」と書いた。自分の心境だという。

 因みにこの語は、陸軍大佐荒木貞夫(のち大将)作の漢詩から取ったものらしい。前年4月、ロシア革命の最中にブラゴビェヒチエンスクで日本人義勇団を率いて革命軍と戦った石光は、莫大なシベリア砂金が帝政ロシア政府の命令で、ホルワット反ソビエト政府に引き渡されるのを目にした。その後の金塊の行方は知らないと手記には記す石光だが、それと裏腹に、ホルワット政府の軍事顧問・荒木大佐と相呼応して金塊の極秘の受渡しに携わっていたのである。荒木作の前記漢詩は、当時の石光の、人に知られることのない功績を讃えたものである。石光に関するホームページによると『石光真清の手記】の戦前版に掲載されているが、そこで荒木の書とされているのは誤りで、「雪沈」の筆跡と比べると誰が見ても同じ手だから、つまり石光の筆跡なのである。

 「6月始メマデ 石光サンノ処ニテ過ゴシ、奉天へ戻ル。ソレカラノ毎日ハ 驚クコトバカリニテ、1ヶ月が 10年二モ思ハル。上田キョースケ ナル人物ヲ紹介サル」。

周蔵は貴志から上田恭輔なる人物を紹介される。この人物は奉天から満洲一帯の首領の張作霖なる人物の部下となって、貴志さんを助けているように見える。「日本人デアルガ、正シク現地タル者トナリ、馬賊ニナリキッテ 運動シテヰルヤフニ見ユル。サフシナヒト 支那人ノ信用ヲ得ルニ 難シヒノデアラフ。チャフド 石光サンノ姿勢ト同ヂデアル」。

 上田恭輔は、周蔵より25歳も上の明治2年頃の生まれで、貴志よりも幾つか歳上である。アメリカの大学を出てから台湾総督府に勤めた。日露戦争時には奉任通訳官として児玉源太郎大将に仕えたと自著に記すが、本当の親方は後藤新平だ。日露戦争に勝った日本は、遼東半島の租借地と南満洲鉄道の所有権を獲得し、鉄道付属地を守る独立守備隊を派遣することはできたが、満洲じたいは清国領土だったから、自由にならない。そこでイギリスの東インド会社に倣い、株式会社の南満洲鉄道に広範な権限を持たせ、間接的に満洲を支配しようとした。そのために東インド会社の研究を上田に命じたのは台湾総督府民政長官の後藤新平であった。上田が満鉄調査役・総裁特別秘書になったのも後藤の計らいで、2代目総裁・中村是公時代もその地位にあったことは、中村の級友・夏目漱石の紀行文『満韓ところどころ』(*岩波文庫等で)に出てくる。

 上田は大正5年ころから張作霖に接近したが、同時に支那古陶磁の研究に没頭することとなった。それは、奉天郊外の北陵の数カ所に乾隆皇帝が隠匿した明朝伝来の支那古陶磁と清朝皇帝が作らせた歴代陶磁器の逸品を、張作霖が収奪する作業に加担したからである。

 明朝の歴代皇帝は、古代から明代までの支那古陶磁を蒐集し、紫禁城に秘蔵していた。明朝を滅ぼした李自成も、金目の物は持ち出したが古陶磁までは手を付けなかったので、そっくり残ったのが、支那を征服した愛親覚羅氏の管理下に入った。乾隆皇帝がそこから重要な逸品を選び、清朝出身地の奉天に秘かに移したのは、清朝の天下も永遠ではあり得ず、いつか満洲に押し戻されることを予測したからである。奉天故官の2階の磁器庫には表の宝物を並べただけで、秘宝は2代皇帝ホンタイジの墓である北陵始め数力所に隠された。清朝時代の傑作もあるが、以上の経緯から、乾隆以後の作品は極めて少ない。

 民国元年(わが大正元年)の辛亥革命で、清朝は倒れて中華民国が誕生し、袁世凱が孫文を押し退けて民国大総統に就いたが、各地の総督や巡撫は統治力に欠けた。満洲では緑林(馬賊)上がりの張作霖が軍権を握り、その死ぬ日まで北京政府にも国民党にも1歩も踏み込ませなかった。民国2年、袁世凱が各地に重要文物の北京送付を命じた時も、満洲側は奉天故宮の蔵品を多少送っただけで、北陵の秘宝には手を付けなかったのは、その存在自体、世にほとんど知られていなかったからである。しかし張作霖はいつしか秘宝の存在を知り、自分の物にしようと考えた。

 吉薗家に伝わる『宣統帝愛蔵品圖録』は、上田が奉天で出会った周蔵に5千円で売りつけた図録で、図を描いた三井良太郎は満鉄の製図技師で画家でもあった。図録の前文に上田は次のように言う。「愛親覚羅氏の特別に愛蔵されたる逸品は愛親覚羅氏の原点満洲奉天に大切に収蔵されてあった(中略)愛親覚羅氏は紫禁城にすべての家宝を飾り全世界に財力を公示したように見せておきながら、真實は漢民族の心を秘めていたということになる。つまり、愛親覚羅氏は常に己の拠は奉天にあるということを皇帝として心にしまい込んでいたという証がこれら約4百50点の美術品にて言わしめるであろう。愛親覚羅氏の拠点奉天の数ケ所に分けて、これらは1品1品布に包まれ収蔵されていた。
大正5年、張作霖氏は支那を守るためという野望を遂げるために皇帝の宝物を盗み出したのである。
 はからずも小生は国事のため、それを手伝う事となり、これらの美術品を目にする幸運に恵まれた。この機を逃すは愚かなりと思ひ三井良太郎君に出来るだけその品物に忠実に描いて貰うこととした。それがこれらの圖面であり、その品名は1品1品に書かれたる文字を写しとったものと判別不能なものは愛親愛羅氏代々の學者・担富者から問ゐて添えたものである。12月29日(中略)2月6日の日を以てすべてが張作霖氏の所蔵するところとなる。上田恭輔」

 後にも文章が続く。
 「愛親愛羅氏代々の宝物係を任されている歴史学者・孫文游という人物から判別できる範囲の事聞きここに記しておく(中略)。また唐三彩については約30点からあり圖面にするのが間に合わず描ききらなかったのが何より残念である。それでも三井君は技が速く蔵より出して次に運ぶまでの中1日から2日の間にすべてを描きつくしてくれたのである。1個1個の周囲を計り、1/2に割り彼独自の方法で計算し、寝もやらず描きつくして下すったことに感謝する(中略)。これら美術品の中には清の頃のものも多数あったが描ききれず後日に是非とも機会を得たひと願っている。
 まずは7回に分けて運んだものの6割は描けた事記す。これが機となって愛親畳羅家家宝は張作霖氏のものに移ったのである。二月七日夕」

 元々吉薗家には上田恭輔自筆の原文があった。周蔵の遺族が昭和40年代に図録を陶磁学者・佐藤雅彦に貸し出したところ、返ってきたのは別人(おそらく古陶磁商)の手になる写しであった由。全文ほとんど新仮名遣いで、新漢字も多いから、「戦後人の手になる戦後式の写し」であることが明らかだが、いやしくも学者の佐藤はこんな荒っぽい真似はするまい。佐藤と組んだ古陶磁商人の手になるものだろう。内容も原文を幾らか歪めているかも知れない。それでも、この文章から、清朝代々の学者孫氏が明代以降の伝承を受け継いでおり、各器の生産窯と年代が明確であったことが分かる。

 上田が秘宝の奪取を「國事のため、手伝うこととなった」と言うのは、換金して張作霖の軍資金にする関東軍の計画に加わった意味である。張作霖の秘宝奪取は、顧問軍人から上原に報告され、上原の相談した後藤新平が助っ人に上田を推薦したものだろう。とにかく、上田は孫文游から歴代伝承の解説を受けたことで、後に『支那陶磁の時代的研究』を著すほどの陶磁学者となった。秘宝のうち比較的小物が東博・出光美術館を始め世界各地に流出したが、現在の解説には間違いが多い。それは孫文游の知識が上田・吉薗に留まり、佐藤雅彦から先の世間には伝わらなかったからである。

 次号に続く。 
 

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