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●中国共産党外伝・(6)
 ●未だに究明し尽くされたとは言い難い【西安事変】について、

 その首謀者(主要な関係者)の中で唯一虐殺された楊虎城の人物像を

 見直してみようとして、

 楊虎城 ー 西安事件 ー 汪精衛暗殺事件 と読み進めてきたが、

 最後に、この汪精衛暗殺事件がそもそも蒋介石暗殺を狙ったものであった

 という一文を紹介しておきます。

 このほかにも興味尽きない「エッセイ」に満ちた、

 『中国共産党外伝』 福本勝清著  蒼蒼社 1994・2・10。

 一読をお薦めしておきます。  
   

 ● [第八話] 蒋介石暗殺団始末記一陳惘子とその仲間 

1935年11月1日朝、南京の国民党中央党部において、国民党第四期六中全会の開会式が挙行された。式の後、中央委員は屋外に集まり、記念写真を撮った。撮影が終わり、委員たちがぞろぞろと再び会議場にもどりかけた時、写真を撮っていた記者の間から1人の男が飛び出した。男はオーバーのポケットからピストルを抜き出し、「売国奴を倒せ」と叫びながら、汪精衛(行政院長)に狙いをつけるや、続け様に3発銃弾を発射した。弾はみな汪精衛に命中し、汪は地面に倒れた。狙撃者も汪精衛の護衛に2発撃たれ、その場に倒れた。汪精衛は一命をとりとめたが、狙撃者は流血がひどく、病院に送られた翌日早朝死亡した。国民党当局は何とかして犯人を生かし、狙撃者の背後関係を聞きだそうとしたが、無駄であった。

男の身元はすぐ判明した。所持していた記者証から、男の名前は孫鳳鳴、晨光通訊社の記者ということがわかった。当局は早速、晨光通訊社の手入れを行ったのは勿論、南京に警戒態勢を敷き、軍警、特務を総動員し、「容疑者」を次々に逮捕していった。晨光通訊社の★社長は胡云卿、本名を華克之といい、その他の社のメンバーは、張玉華、賀玻光、そして孫凰鳴であった。

 国民党当局は晨光通訊社の社員ばかりでなく、出人りの者まで、狙撃者の一味とみなし、捕縛した。数十名が逮捕されたという。逃げのびたのは暗殺計画の首謀者と目される★華克之だけであった。そればかりか、当局は事件の背後には李済深、陳銘枢など旧19路軍関係者がいるとし、福建人民政府(1933年12月)残党の陰謀といった筋書きを捏造しはじめた。11月22日、香港で、元19路軍補充連隊長・余立奎ら3名が香港警察に逮捕され、翌年9月、南京側に引渡され、余は事件の主犯に祭り上げられた。

 彼らに対する裁判は、36年3月から始められ、37年4月判決が下った。主犯とみなされた余立奎、張玉華、賀披光には死刑が、暗殺計画を幇助したとみなされた他の6名の被告に対してはそれぞれ5年から12年の刑が言い渡された。不当な判決に被告たちは直ちに南京高等法院に控訴したが、同年7月日中戦争が勃発、政府各機関が南京から武漢に撤退するに及び、従犯6名は保釈される。だが、主犯3名は南昌から常徳、貴州とたらいまわしにされ、余、賀両名は貴州西部の大定県で光復(戦後)を迎えた。張玉華は肺結核を患い、39年に保釈された。戦後もなお余、賀両名は貴陽で拘禁されつづけた。1948年1月、最高法院は判決を10年の懲役刑に改め、彼らが拘禁されて以来すでに12年たつことを理由として、出獄を認めた。

 この暗殺計画が持ち上がったのは、1934年の春であった。上海フランス租界の1角、法政学院付近で一緒に間借り生活をしていた陳惘子、華克之は、ともに江蘇中部(宝応)の出身であり、小学校時代のクラスメートであった。その後、2人は別の中学を経て、華は金陵大学(南京)に進み、陳は安徽大学(安慶)に進んだ。国共合作時期から南京に国民政府が樹立されたころのことである。

 30年代初め、左傾化した陳惘子は安慶を追われ上海に赴き、私立法政学院に入学する。続いて華克之も上海にやってくる。ほどなく、彼らの同郷で同学の張玉華もまた上海にやってきた。彼ら3人は1つ屋根の下で暮らしながら、なんとか出口をみつけようとしていた。

 激化する国共内戦、蒋介石独裁体制の強化、深まりゆく経済危機、農村の荒廃、日本帝国主義の東北侵略、それにつづく華北侵略の動きなど、30年代前半はまさに出口なき閉塞の時代であった。

 彼らの革命への道は、ほかの左翼青年たちの道とはかなり異なったものであった。彼らの1人、陳惘子が中共党員、しかも幹部であったにもかかわらず、彼らは中共の道とは違った独自の道を歩もうとしていたようにみえる。なによりも、陳惘子自身が非常にユニークな人間であった。上海で彼は、党指導下の左翼文化組織、社会科学家連盟(社連)指導部に参加し、34年にはその党フラクション書記に就任する。34年秋から35年夏にかけ、白区(国民党支配地区)の指導組織は国民党の徹底した弾圧をうけ、次々に崩壊し、社連も一時上部組織との連絡を失い、単独で地下運動を続行せざるをえなくなったが、彼はその闘いを指導し、35年夏に再建された左翼文化総同盟の指導部にも周揚(左連党フラクション書記)などとともに加わっている。

  社連は左翼作家連盟(左連)とともに、30年代を代表する左翼文化サークルであった。陳惘子が社連党フラクション書記に抜擢されたのは、おそらく彼が左翼文化運動のなかでは、それらしく(つまり模範的な党員らしく)振る舞っていたからであろう。だが、階級的な純粋さといったことが異常なほど尊ばれていた30年代初期の中共党内の標準からすると、彼は不純分子であった。

 陳惘子は上海の安徽会館で知り合った安徽幇会(マフィア)の★首領・王亜樵に随分気に入られていた。上海の労働者のなかではかなりの羽振りをきかしていた王亜樵は、それ以後しばしばフランス租界の彼らの部屋を訪れ、貧しい彼らをなにかと援助しつづけた。また王は、骨の髄から反蒋介石派でもあった。

★福本勝清註:王亜樵(1889~1936)=安徽合肥人。1912年社会党入党、安徽支部長。21年上海労工会を組織し、労工会を上海の有力な幇会にする。27年以後、何度も蒋介石暗殺を計画。

 彼らの部屋を訪れたのは王亜樵ばかりではなかった。当時南京の幾つかの教育機関に携わっていた教授、校長、書店のあるじなどが足しげく訪れ、彼らとの議論に花を咲かせていた。彼らのほとんどが江蘇人であり、かつ国民党員であり、孫文晩年の三大政策― 連ソ、容共、労農提携 ― の信奉者であり、そしていずれも徹底した反蒋介石派であった。

 この3人にあらたに孫鳳鳴が加わった。彼もまた江蘇徐州の人であり、幼い頃父母に連れられ「満州」に渡った。父母は商いによって生計をたて、漸く暮らしむきが安定した時「満州」事変が勃発した。「満州」を脱出した孫は上海に流れつき、つづく上海事変勃発のおりには19路軍に身を投じている。

 33年12月、上海事変で抗日部隊として名をはせた19路軍が、移駐先の福建で反蒋抗日を掲げて南京中央政府に対し叛旗を翻し、福建人民政府を樹立した。だが、反乱はほどなく鎮圧される。19路軍の敗北により、抗日派の希望の星はあえなくついえた。それは、陳惘子たちにとっても、大きな打撃であった。

 34年初め、香港から戻ってきた華克之から福建事変の顛末を聞いた彼らは、次第に現状を変えるには蒋介石暗殺しかないと考えるようになった。当時、華克之、張玉菜は社連の読書会に参加するようになっており、華克之の妻・尹彭杢(後に離婚)も陳惘子の勧めにより共産党員となっていた。つまりグループ全体が党の外郭組織のようなものになっていた。その年の春、陳惘子は上部組織に彼らのグループの計画を伝え、その指示を仰ぐ。だが、上部組織(中央軍事委員会白区残留組織)は、マルクス・レーニン主義を奉じるプロレタリア革命党が暗殺工作を指令することはできないと答えてきた。しかし、陳惘子を除いた3人は納得しなかった。彼らはあくまでも蒋介石暗殺を主張した。また、激論を交わしたとはいえ、陳惘子もそれを無理に阻止しようとはしなかった。彼は実行班には加わらなかったが、側面からの援助をつづけた。社連幹部として上海に残らなければならない陳惘子に代わって賀玻光が新たにグループに加わった。彼もまた江蘇(丹陽)人であり、社連の活動家であった。

 34年11月、彼ら4人は南京に晨光通訊社を創立する。首都南京に通信社をつくるのは容易なことではなかった。だが、彼らの常客であった元南京鐘英中学校長・李壊誠(江蘇無錫人)が保証人をみつけてくれたことにより、登記手続きをクリアーすることができた。李は彼らの計画が実行されたら、累が必ず自分に及ぶことを知りながら、彼らのために便宜をはかった。また、開設資金は、華克之が香港に赴き、王亜樵の□ききで李済深、陳銘枢に会い、彼らの援助によりまかなうことができた。

 実行の主役は拳銃の名手・孫鳳鳴であった。彼らはその後1年の間に2度ほど暗殺を実行しようとしたが、うまくいかなかった。資金もつきかけ、後がなくなった35年11月、国民党第四期六中全会が開かれた。最後のチャンスであった。もとより死を覚悟していた孫鳳鳴は自殺用にアヘン玉を用意した。孫鳳鳴は厳しい警戒のなかピストルを隠し、ついに会場に入る。だが、狙撃のチャンスはなかなかやってこなかった。用心深い蒋介石は写真撮影にも現れようとしなかった。猶予ならなくなった孫鳳鳴は狙いを汪精衛に切替え、暗殺を決行した。

 事が成就した後の逃亡については事前に準備がされていた。暗殺に加担した者及びその家族はただちに南京、上海を脱出する手はずになっていた。だが、裏切り者が出る。華克之夫婦以外はほとんど一網打尽にされ、陳惘子、孫鳳鳴の妻・崔正瑶は捕らわれた後、特務の手で惨殺されている。また、王亜樵も36年11月、広西梧州で戴笠(藍衣社)の手下に暗殺されている。

 香港に逃げた華克之は同年末に上海にもどり、続いて 陜北(中共中央の所在地)に向かう。李済深の紹介状を携え、彼は山西を経て延安に入り、毛沢東に会う。その後再び香港にもどり、潘漢年、寥承志のもとで秘密工作にあたる。

 彼らの蒋介石暗殺計画は未遂に終わった。また、第2の狙撃目標となった汪精衛も死を免れた(しかし、その後漢奸となった汪精衛が1944年死亡したのは、この時の傷が原因であった)。反対に暗殺計画の犠牲は、覚悟していたとはいえ大きなものがあった。だが、彼らの行動は無駄ではなく、その後の歴史に思わぬ波紋を投げかけることになった。

 まず、命をとりとめたとはいえ負傷した汪精衛の政治活動が不可能となり、国民党中央、南京政府の権力関係に変動をもたらした。指導部の改造により、汪精衛派(親日派)が後退、「満州」事変以後つづいてきた蒋汪合作が終焉した。また、この事件の2カ月後にはやはり汪派の唐有壬が、さらには楊永泰が暗殺され、親日派は国民党内部での勢力を大きく後退させる。これらは、一方では蒋介石独裁をより強化することになったが、もう一方では汪精衛の影響力がうすめられた結果、蒋介石など四大家族(親英米派)が、日本に抵抗するためソ連に接近する条件をつくりだした。国民党と共産党の間で合作のための準備交渉が始まったのも、この事件の直後のことである。事件の1ヶ月後、12・9運動(抗日学生運動)が爆発する。

 また、同じ12月26日には、南京中山陵で続範亭が割腹自殺をはかる(未遂)。国民党中央が外敵(日本)を追い払うには、まず内患(中共)を一掃してからという従来の方針を変えないことに対する死をかけた抗議であった。一見バラバラにおこったように見えるこれらの事件は、抗日闘争への決起が、もはや躊躇できない時期に達していたということを示していよう。

 最後に再び、陳惘子について語ろう。許條新は社連に関する回想のなかで、「彼(陳惘子)は侠客肌の人間であった。1933年、デモで逮捕され、租界の監獄のなかで知り合った何人かの反蒋派の暗殺者と意気投合し、友だちになった。1935年冬、国民党三中全会が開かれた折、陳とその友人はカメラマンに化け、蒋、汪を暗殺しようとしたが、蒋介石は現れず、彼が銃を取り出し汪精衛を殺害しようとしたとき、憲兵に逮捕されてしまった。・・・その友人の部屋を訪ねた陳までも逮捕され、翌年初め南京で銃殺された。陳が暗殺に熱心であったのは、政治的には誤りであるが、陳が監獄のなかで敵の残酷な拷問をうけ、両足を叩き折られても少しも揺るがず、死に臨んでも泰然としていたことは、尊敬に値する」と述べている。

 おそらくこの回想は伝聞をもとにしている。彼が獄中で暗殺者と知り合ったとか、最後は銃殺されたというのは事実ではない。また三中全会ではなく六中全会である。だが、個々の事実は不正確であれ、この回想は陳惘子の人柄を鮮やかに描きだしている。彼の死後、ひそかに語りつがれた伝説といった趣きがある。

 [第八話] 蒋介石暗殺団始末記一陳惘子とその仲間   <了>。

 

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