カウンター 読書日記 ●中国共産党外伝(5)
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●中国共産党外伝(5)
 ●[第21話] したたかな交渉一第2次国共合作にむけて 

 1935年11月、当時、北平(北京)の中国大学教授であった歴史家・呂振羽は南京から送られてきた奇妙な手紙を受け取った。手紙の文面は「東の隣人の侵犯がはなはだしい。ゴン、姜(ジャン)両家は縁を通わせ、侮りを防がねばならない。貴兄がそれを伐たんとお望みならば、ただちに南京に参られたし」といった内容であった。ゴン(龍の下に衣の字)、姜(ジャン)両家とは共(ゴン)、国(蒋ジャン)両党のことであり、あきらかに、これは日本の中国侵略に対し、国共合作の樹立をほのめかしたものであった。この奇妙な手紙の差出人はジン(言偏に甚の字)小岑。呂振羽は、ジンとは少し面識があった。

 呂はさっそく手紙を周小舟に見せた。北平師範大学を出たばかりの周は、共産党北平市委員会の宣伝部長であり、党シンパであった呂との連絡役でもあった。手紙を持ち帰った周小舟は数日後、呂に南京に赴き、交渉にあたるように、かつジン小岑の背後に誰がいるのかを探るようにという市委員会(実は北方局)の決定をつたえる。党員ではなかったが、マルクス史家であった呂は、その決定に従い、ただちに南京に出発する。

 ジン小岑は呂と同じく湖南人。五・四運動時期には、天津北洋大学に在学し、周恩来、頴超を擁した覚悟社のメンバーでもあった。その彼に北洋大学時代の同学で、当時国民党中央執行委員、国民政府鉄道部政務次長の曾養甫から重大な相談がもちかけられた。国共内戦の停止のため、共産党との間に秘密の交渉ルートをみつけよというものであった。曾は国民党C・C(陳果夫、陳立夫兄弟)派の幹部であり、同時に宋子文とも密接な繋がりをもっていた。当時共産党組織は国民党の苛酷な弾圧により、都市部農村部を問わず壊滅状態にあり、地下組織と連絡をつけるのは、非常に困難であった。もと覚悟社のメンバーであり、1927年の国共分裂後も左派知識人との関わりを保ちつづけていたジン小岑はただちに伯贊、左恭に相談する。彼ら2人も、ともに湖南人であり、進歩的な立場をとっていた。彼らの友人のなかに必ず共産党員がいるだろうと思ったからである。伯贊は呂振羽の学生のなかにはきっと党員がいるから彼に連絡をとれと提案した。

 すでに共産党員であった左恭は、上海の地子組織(中央特科)に連絡をとり、代表の派遣を求めた。上海の党組織は若冠23歳の張子華にこの大役を委任する。中共中央が長征を経て、陜西北部に居をかまえたことを知った上海の党組織は、寧夏出身で、西北に詳しい張子華が、国共のつなぎ役に最もふさわしいと判断したのであろう。

 同じく35年末、国民党4大家族の1人、宋子文は姉・宋慶齢(孫文未亡人)と相談し、使者を陜北に派遣し、中共中央と直接連絡をとることを計画した。彼らが連絡役として選んだのは董健吾であった。董は、キリスト教の牧師でもあり、宋子文と大学の同学であり、宋家には親しく出入りしていた。彼はもと共産党員であり、党を離れた後も党のために救援活動を行っていた。実は彼がエドガー・スノーの『中国の赤い星』でお馴染みの、赤い牧師こと王牧師である。董健吾は「陜北経済専員」の身分で陜北に向かうが、宋慶齢は彼に財政部長・孔祥煕(4大家族の1人)の署名が入った委任状をわたし、道中の安全を期した。

 同時期、蒋介石も動いていた。35年冬、蒋介石の腹心であり、駐ソ大使館付きの武官であった文儀が一時帰国を終え、モスクワに戻った。帰任後、は蒋介石の命を受け、中国共産党の指導首王明(中共駐コミンテルン代表団団長)と接触する。何度かの会談の後、王明は潘漢年を帰国させ、国民党との直接交渉にあたらせることにした。帰国を前にした瀋漢年は、文儀に会い、帰国後の国民党中央との連絡方法を打合わせる。


 第二次国共合作の端緒というと、誰しも西安事変(1936年12月)を想起する。確かに西安事変は、国共合作を成立させるうえで、大きな役割を果たした。事変の主役・張学良、楊虎城は、その時すでに中共と秘密停戦交渉を成功させていた。これまでの常識的な見方によれば、それに対し蒋介石は全く無理解であり、あくまでも共産党の討伐を命じ、自ら西安に乗り込みはっぱをかけようとして、かえってそれに抵抗する張、楊に監禁された、ということになっている。しかし35年11月以後、国民党と共産党との間では、すでに接触が始まり、交渉の準備が進められていた。一体どうして、そんなことが起こり得たのであろうか。 
 
 
 1934年秋、南方の革命根拠地は、国民党軍の大攻勢の前にあいついで崩壊した。その後、毛沢東らは包囲を破り、長征に出発する。1年もの行軍を経て、漸く陜北にたどりつく。1930年以来続けられていた国民党の共産党に対する包囲討伐は最終的に成功し、軍事的には共産党はもう国民党の敵ではなくなったかのように思われた。中共がいまや西北の田舎の政治勢力にすぎなくなった以上、地方軍閥や中間政党と同じように彼らを飼い馴らすことも、国民党のソ連とのコネのつけかた次第では夢ではなくなったのである。

 1935年夏、モスクワで開催されたコミンテルン第7回大会において、反ファッショ統一戦線政策が打ち出される。これは、日本軍の中国侵略に対する抗日民族統一戦線の結成を促すものとなった。もともと、蒋介石はスターリンの受けが悪くなかった。熾烈な国共の内戦が続いていた32年12月には、国民党政府とソ連の間に中ソの国交が回復されている。

 コミンテルンの方針転換以後、蒋介石はソ連との関係を1歩進め、対日軍事同盟を締結し、日本の侵略を牽制しようと考えた。ソ連とのいっそうの関係改善のためには是非とも国共の内戦状態に終止符をうつ必要があった。 
 

 この点において1935年11月に発生した汪精衛暗殺未遂事件は決定的な意味をもった。未遂に終わったとはいえ、この事件により国民党及び国民政府指導部が改組され、汪精衛をはじめとして国民党親日派は勢力を大きく後退させた。つまり4大家族とも呼ばれた蒋介石たち国民党親英米派は、この事件以後、汪精衛たちに牽制されることなく比較的自由にその後の対日、対ソ政策を決めることができるようになった。11月以後、4大家族がそれぞれ共産党との秘密交渉ルートの樹立に動きだしたのも、このような状況変化の結果であった。

  
 1935年12月9日、北平で発生した学生の抗日大デモンストレーションは、瞬く間に全国に拡大する。同年末、姓を黄と偽って南京で曾養甫に会った張子華は、彼らの要請を受け、中共中央と連絡をとるために陜北へ向かう。上海の党組織は張を董健吾に同行させた。

 董健吾の陜北行きについては、中央特科は事前に知らされていたのであろう。だが、董健吾は張子軍が一体何者か知らされていなかった。36年初め、2人は西安に向かい、陜北根拠地に入るチャンスをうかがった。だが、西安にはついたものの、2人は春節(旧正月)をすぎても根拠地に入ることができなかった。やむなく、董健吾は古い友人に仲立ちを頼み、張学良に会う。思い切って、東北軍に援助を請うことにしたのである。おどろいた張学良は南京に国民政府が中共中央との連絡のために人を派遣したかどうかを訪ね、それが確かめられるや、2人を東北軍に護衛させ、根拠地との境界まで彼らをおくりとどけた。2月27日、2人は瓦〇堡に到着し、博古(秦邦憲)など中共首脳の出迎えを受ける。
 それと同じ時期、北方局情報部長・王世英は、陜北軍のルートを使い
南京に国民政府が中共中央との連絡のために人を派遣したかどうかを訪ね、それが確かめられるや、2人を東北軍に護衛させ、根拠地との境界まで彼らをおくりとどけた。2月27日、2人は瓦 堡に到着し、博古(秦邦憲)など中共首脳の出迎えを受ける。

 それと同じ時期、北方局情報部長・王世英は、陜北軍のルートを使い陜北根拠地に入ることに成功する。35年11月、呂振羽を南京に派遣した北方局は36年1月、周小舟を派遣し、呂に南京にそのままとどまり曾養甫、ジン小岑と折衝を続けるように指令した。その後も呂は南京に滞在し交渉を続け、周小舟は天津、南京間を何回か往復し、連絡役を務めている。北方特科の指導者として、呂振羽、周小舟の南京派遣に責任をもっていた王世英は、どうしても陜北の党中央に交渉の在り方や交渉経過を報告する必要があった。ちょうどその時、天津の連絡局の責任者南漢宸より、王世英に西安に赴き、楊虎城に会ってほしいとの要請があった。楊虎城の西北軍のもとには、毛沢東の使者としてすでに汪鋒が派遣されていた。だが、汪鋒が本当に中共の代表であるかどうか確信がなかった楊虎城は、かつての自分の部下であった南漢宸に西安に来て、それを確認してくれるよう依頼したのである。他に工作を抱えていた南漢宸は、この任務を王世英に依託する。西安に着いた王世英は秘密裏に楊虎城と会談、西北軍と紅軍の秘密停戦協定締結について、おおよその点で合意をとりつけることに成功する。その夜、西北軍に護衛され根拠地に入り、2月末、彼も瓦 堡に着く。

 折から、陜北の紅軍は黄河を東に渡り、山西に攻め込んでおり(東征)、毛沢東、周恩来らは山西の前線にあった。上海への帰りを急ぐ董健吾は、宋子文の密書を博古にわたした後、西安に戻る。張子軍、王世英らは、山西に向かう。前線において毛沢東、周恩来に会い、それぞれ個別に報告を行っている。この2人の報告を通じて、ようやく毛沢東など中共中央の指導者は、白区に残された党組織の状況、盛り上がりを見せ始めた抗日運動の様子、そして国民党各派、各軍閥などの動向についてかなり明確な認識を持つようになったのだと思われる。

 4月中旬、張子華は慿雪峰とともに瓦 堡を出発、上海に向かった。高言峰は中共中央が長征の後、最初に上瀋に派遣した幹部であった。慿雪峰は以後4、5回にわたり南京と陜北の間を往復し、国共の連絡に当たっている。

 36年5月、潘漢年がモスクワから香港に着き、8月初旬、陜北根拠地に入る。翌9月中共中央は、潘漢年に党を代表し、国民党代表・陳立夫と交渉を行うよう指示する。これにより35年11月以後、幾つかのルートを通じて始まった共産党と国民党との間の秘密停戦交渉は、ようや一本化され、正式な代表同士による談判が始まったのである。西安事変の勃発はその翌月のことであった。

 第二次国共合作成立に向け情報工作(統一戦線工作)に従事した党員たちの運命は悲惨であった。早くも39年、張子華は軍閥との関係を疑われ、査問され獄死する。解放後の53年、当時上海のナンバー2であった潘漢年は、アメリカ帝国主義の手先として逮捕され、20年にもわたる拘禁のすえ、病死した。また、湖南省委書記であった周小舟は、彭彰徳懐批判に連座して失脚した。文革前後には呂振羽、王世英、南漢宸らが迫害、粛清された。唯一の例外は董健吾である。それは、楊問慧(毛沢東夫人)が国民党に捕らえられ、処刑されたあと、上海に連れてこられた毛岸英、毛岸青兄弟を、一時養育したのが、彼と彼の前妻・黄慧光であったことと無縁ではないだろう。兄弟をモスクワにおくる際、董健吾から革命家の子弟の国外留学のためと、援助を乞われ、ポンとその渡航費用を出したのは、張学良であった。歴史というものが、思わぬ糸で結びつき合っていることが、少しでもおわかりいただければ幸いである。
 
 ●[第21話] したたかな交渉一第2次国共合作にむけて   <了>

 

スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/543-10325631



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。