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 ●中国共産党外伝(4) 
 ●[第19話】 トロツキスト ― 忌まわしき者たち  

 子供の頃、大人たちがよく「アカ」という言葉を口にしていたことを覚えている。比較的革新勢力が強い北海道でも、農村で「アカ」と呼ばれてしまえば、その本人が実際にはどういう人であっても、もうおしまいという雰囲気があった。ところが、不思議なことに大人たちは、その「アカ」が実際にはどんな人たちで、どんな考えを持っているか、全然知らなかった。ただ、「アカ」は悪い奴、恐ろしいやつであり、かつ蔑みの対象であった。隣部落の若い農民が、好奇心から『赤旗』をとったことがあった。すかさず駐在が周りの農家を訪ね、彼の様子を聞いて回った。それだけで「アカ」がどんなに危険な存在か、農民たちは十分にわかっただろう。

 自分が大人になった頃、かの「アカ」の末裔たち(日共)から「トロ」と呼ばれるようになった。トロツキーの本は少しは読んだが、自分が「トロ」と呼ばれるのにふさわしいと思ったことは一度もなかった。幸か不幸か、「アカ」も「トロ」も、今ではおそらく死語か、それに近い言葉になってしまった。 (*因みに、トロツキ=托洛茨基)。

 中国で「トロ」は托派(tuopai)である。ところがこの托派の語感は、時として一昔前の「アカ」に近くなることがある。単に革命の異端というだけではなく、反社会的な悪いやつ、不道徳な人間、挑発者、走狗(日帝の)、特務(国民党の)、売国奴、民族の敵など、ありとあらゆるダーティなイメージが積み重ねられている。

 大革命敗北(1927年)後、中共内に生じた亀裂は、ついに元総書記・陳独秀によるコミンテルン批判とトロツキズムの受け入れにより、最終的な局面に入る。折からソ連留学中にトロツキストになった若い党員たちが次々と帰国し、トロツキー支持を表明した陳独秀等元幹部たちと結合、いわゆる「陳独秀・トロツキー派」を形成する。とはいえ、極左派のつねか、互いに団結できず、いくつかのセクトに分かれ活動を継続している。

 中共内のトロツキストは、30年5月までに党内から排除される。31年5月、四つのトロツキスト組織は統一大会を開催、「中国共産党左翼反対派」を結成、陳独秀を総書記とする指導部が成立する。ところが、それもつかのま、内部の裏切り者の手で国民党に密告され、指導部はほぼ一網打尽にあう。同年9月には、陳独秀までもが逮捕されるにいたる。その後は無惨なほど、指導部の再建、検挙、再建、内部分裂、再検挙を繰り返し、中国国内の政治勢力としてはほとんど影響力を失う。これら本物の中国トロツキストの活動については、王凡西 『中国トロツキスト回想録』 (矢吹晋訳、柘植書房、1979年)に詳しい。

 しかし、このような実際のトロツキストの苦戦とはまったく裏腹に托派(tuopai)のダーティなイメージは増殖し始める。たとえば、李立三路線はその失敗後、コミンテルンより「半トロツキズム」と批判されたが、以後トロッキズムとは関係のない中共の党員たちも、その実践の誤りをトロツキズムの名で批判されることになった。

 30年12月に江西根拠地で起きた富田事変は、本来江西根拠地の指導権をめぐる毛派と江西地方党部の抗争が原因であったが、毛沢東等により、、AB団(アンチボルシェビキ)に乗っ取られた江西党部の反革命暴動と誣告される。しかも江西地方党部が李立三路線下の党中央に従い毛沢東と対立していたため、四中全会で党中央を奪取した王明たちは、江西地方党部=AB団(国民党の別動隊、特務組織)=李立三路線=トロツキズム=陳独秀・トロツキー派、という壮大な粛清の公式を発明、江西根拠地のみならずすべての革命根拠地における粛清運動に適用した。

 そのため、閥西、海南島、洪湖、川北などの根拠地において、托派、陳托派(chen tuopai)として多くの革命家が粛清されている。

 当初、托派(tuopai)は正真正銘のトロツキストを指していた。中共の党員たちは彼らをスターリンにならい、革命の裏切り者と呼ぶことはできた。が、彼らは革命の異端であり、自らの引き裂かれた分身であった。だが、王明たちの粛清の公式が定着するにつれ、托派は別に本物のトロツキストである必要も、革命の異端である必要もなくなっていく。党内反対派から異端の革命セクトヘ、そして反社会分子、悪の権化すなわち、托匪(tuofei)へと托派(tuopai)の汚れたイメージは限りなく膨張し続ける。

 トロツキストではないのに托派(tuopai)と、長く中共史の上で信じられてきた存在に張慕陶がいる。張慕陶は陜西人、原名を張金刃という。28年夏、モスクワで開催された中共六全大会に陜西省代表として出席、そこから彼の急激な昇進が始まる。

 その後、張慕陶は順直(河北)省委組織部長、省委書記を歴任し、大いにその羽振りのよさを誇った。が、31年初めの四中全会において、王明らか党中央を奪取するや、それに反対、河北緊急会議準備処を組織したため、党を除名される。33年夏、馮玉祥の察恰爾(チャハル)民衆抗日同盟軍に参加、中共の党籍を回復し、張家口特委の責任者として抗日同盟軍に積極的に協力した。だが、抗日同盟軍が敗北するや、その責任を問われ、再び除名されている。

 その後、彼は国民党の追及をかわすため、名を馬雲程と改め、山西王・閻錫山の高級参議となる。また、中共離脱者を糾合し、新ボルシェビキ党なる左翼組織を率い、山西を中心として活動している、とも噂されている。36年12月、西安事変の発生直後に閻錫山の命を受け西安に現れ、極左的な観点から蒋介石の処刑を強く主張、事件の平和的な解決に反対したと言われる。そのため、張学良が南京で捕らわれた後、憤った東北軍急進派(少壮派)が東北軍の留守をあずかる軍長・王以哲を殺害した37年「2・2」事件の黒幕と見なされる。


 おそらくこの時点からであろう、事態は思わぬ展開をみせはじめる。抗日民族統一戦線の結成を目指し、兵をもって諌めようと蒋介石を監禁した張学良、楊虎城に対し、コミンテルン及びソ連党は、抗日の名を借り、中国を分裂させようとする日本帝国主義の走狗と非難、また、孫銘九、応徳田(ともに中共党員)など東北軍少壮派が引き起こした「2・2」事件を、日本帝国主義の命を奉じたトロツキストの陰謀と断じた。折からソ連では、スターリンの大粛清が猛威を振るっていた時期であり、36年8月からは、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンなど名だたる革命家を反ソ活動、テロ、帝国主義のスパイなどの罪で裁判にかけ、自白させたモスクワ裁判が進行していた。コミンテルン及びソ連側の「トロツキスト=日独ファシストの手先」の観点にならい、中共もまた「張幕陶などトロツキストが和平統一を破壊しようと企てた」と非難し、「漢奸(売国奴)トロツキストが日本の特務機関の命を奉じている」と断じて、ソ連の反トロツキスト闘争に呼応した。ここに帳幕陶=托派(tuopai)=日本のスパイという連鎖ができあがったのである。実のところ、張幕陶がトロツキストであったという証拠はない。むしろ王凡西、鄭超麟、劉仁静といった中国トロツキスト組織の指導者たちはいずれも、帳幕陶はトロツキスト組織のメンバーではなかったと証言している。


 37年11月末の王明、康生の帰国は、中国党内のトロツキスト粛清(粛托)に一層のはずみをつけることになった。彼らは、抗日戦争開始後釈放され、トロツキスト組織からの離脱を宣言し、中共への復党交渉に入った陳独秀を9・18「満州」事変後、日本のスパイと接触し、彼らから毎月3百元の金を受け取っていたと中傷し、復党交渉そのものを御破算にした。さらにトロツキストに対する誹謗や中傷が繰り返され、中共及び抗日根拠地内の反トロツキスト感情がかき立てられ、それに煽られた民衆(山西民族革命大学の学生、教員)が、38年2月、ついに山西臨汾で「托派漢奸」張幕陶を捕縛するにいたる。

 38年10月、延安で開催された第六期六中全会以後、王明は次第に勢力を失っていく。だが、反トロツキスト闘争は終焉せず、ところによってはトロツキスト狩りにまで発展する。39年秋、山東湖西地区で起きたトロツキスト粛清事件により抗日根拠地の数百人の党、軍、政府幹部が逮捕、処刑された。処刑された者だけでも約三百人にのぼるといわれる。事件は、党中央より粛清の拡大化と非難されたが、トロツキスト粛清そのものは基本的に正しかったとされたため、山東の抗日根拠地ではその後も再三にわたり(40、41、42年)類似の事件が発生している。もちろん、それら逮捕されたり処刑されたりした托派の中には1人として本物のトロツキストなどいなかったのである。

 中共と何の関わりももたない政治家もまた、当時、托派として歴史から抹殺されている。一時中国の政界に大きな波紋を投げかけた広西の王公度事件がそれである。

 王公度はソ連留学より帰国後、広西に戻り、桂系(広西軍閥)の李宗仁や白崇○にその才能を認められ、桂系の新勢力を代表する人物として頭角をあらわし、一時は桂系のナンバー4と目されるまでになる。だが、おそらく彼の軍師然とした振る舞いや辣腕ぶり、その急激な昇進は、黄旭初など桂系の軍人たちの反感を呼び、彼を陥れる陰謀が進められる。両者の対立は桂系内部の旧派と新派の対立とも、保守派と進歩派の対立ともいわれる。37年8月、黄旭初等は李宗仁に王公度が桂系内に自分の個人的組織を発展させていると誣告し王及び王の人脈につながる幹部たち多数を勾留、自派で固めた尋問委員会により、王以下7名の処刑を決定する。勢いに押された李は反対できず、ついに王ら7名は9月15日銃殺に処せられる。実際には2人のトロツキスト、2人の中共党員がそのなかに含まれていた。事件後、王らの罪名に悩んだ李宗仁らは、王公度など托派の陰謀を処理したと公表したのである。内部の権力闘争を表沙汰にしたくない心理と、国共合作下においては、あからさまに反共を掲げることができない事情が、そのとばっちりを托派に向けさせたのであろう。

 さらに、38年2月19日、国民党貴州省党部は、貴州学連の指導者7名を逮捕した。が省党部は、学生たちは漢奸、托派であると称し、その新聞に「王公度の残党7名を連捕」と載せ、弾圧をカムフラージュしようとした。

 これらの事件の結果、中共やそのシンパばかりでなく、抗日派全体にわたり托派(tuopai)は危険な存在、ダーティなものとして受け取られることになった。

 40年代前半に延安で開始された整風連動において、王明は中共内部での影響力を喪失する。だが、王明の片腕としてトロツキスト粛清を推進した康生は、すでに毛派に転身、中央社会部長に就任(39年10月)、毛沢東の懐刀として再び粛清(幹部審査運動)に腕を振るうことになる。延安の文芸整風(1942年)では、過去にトロツキストとのつながりがあった王実味が槍玉にあげられ、精神に異常をきたすほどもみくちゃにされたあげく、托派特務として後に銃殺される(1947年)。一方、国民党側も41年1月、マルクス・レーニン王義を宣伝し、反蒋(介石)抗日を唱えたとして帳幕陶を処刑している。

  ●[第19話】 トロツキスト ― 忌まわしき者たち <了>

  ★誤字・誤記訂正しました。 2010年8月3日。
 
 


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