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●中国共産党外伝(3)
●第11話 張漢民が遭遇した紅軍 
 
 1935年の初め、国民革命軍第17路軍(西北軍)の領袖、西安紅靖公署主任・楊虎城は、陜西南部に侵入してきた2つの紅軍に頭を悩ませていた。
 1つは前年11月、北上抗日第2先遣隊の旗印のもとに湖北、河南、安徽地区を出発し、翌12月、河南・陜西交界の鉄鎖関から陜西南部に入った紅軍第25軍であった。呉煥先、徐海東に率いられた部隊は、その数3千、規模は小さくてもしたたかな戦闘力をそなえ、その行動にはいささか不気味なところがあった。

 さらに、1月下旬、紅軍第4方面軍が陜南を襲った。実はこの2年前の1933年、紅4方面軍が卾豫院地区から西征し、四川北部に革命根拠地を建設して以来、西北軍と紅四方面軍との間には、秘密裏に相互不可侵協定が結ばれ、両者の軍事衝突は回避されていた。その紅四方面軍が協定を破り、突如陜南に侵入、漢中盆地に駐屯していた西北軍の一翼孫蔚如部隊を攻撃してきたのである。

紅四方面軍の陜南戦役は、川北根拠地を放棄し、紅四方面軍を率いて再び西へ転じ、長征途上の中央紅軍と合流しようと考えていた張国が、その出発のため後顧の憂いをなくすべく一先ず部隊を、陜南に進撃させたものであった。2月、所期の目的を達した紅四方面軍は矛を納め、川北に撤収した。

 だが、紅25軍は陜南に残っていた。彼らは、神出鬼没のゲリラ戦を続け、陜南各地を転戦し、3月には楊虎城の警備2旅をも撃破する。だが、楊虎城はあわてなかった。彼にはまだ切り札が残っていた。陜南には彼が信頼する第17路軍直属の警備第3旅が配備され、紅25軍を追っていた。そして、この第3旅の旅長・張漢民が秘密共産党員であり、彼の部下の多くが共産党員であることは、楊虎城自身がよく知っていることであった。この時、甘粛南部(天水)から陜南にかけて、すでに国民党中央軍の胡宗南部が勢力をのばしつつあり、西北軍にとって脅威であったばかりでなく、それはまた川北革命根拠地をも脅かしていた。もし、このような軍事情勢を僅かでも把握しているならば、張漢民旅は紅軍にとっても得難い存在であり、張漢民旅と紅25軍との間には何らかの形で相互不可侵協定が成立し、迫りくる国民党中央軍の脅威に対して、共同戦線がつくられるべきはずであった。

 だが、事態は全く予想もしない方向へ展開した。4月、楊虎城は驚くべき報せを手にする。紅軍を付かず離れず逃走していたはずの張漢民旅が作水県(陜南)において、紅25軍の奇襲をうけ、壊滅的打撃をうけ、張漢民を含め将兵多数が捕虜になったというのである。しばらく後、さらに悲報が届く。釈放された捕虜の口から、張漢民と幹部多数が紅25軍の手によって処刑されたという報告が入ったのである。一体両者の間に何か起こったというのだろうか。

 張漢民は1903年、山西省陵山県に生まれた。中学を終えた1924年、黄河を西にわたり、当時陜北に居た楊虎城の学兵隊に入り軍事を学んだ。その時から、彼の軍人としての生活が始まり、そして一生続いた楊虎城との関わりが始まった。楊虎城の地方軍閥への成長とともに、彼も楊虎城の副官、中隊長、大隊長、連隊長と昇進し、また楊虎城の信頼も厚くなっていった。

 が、彼が軍人になったのは、小軍閥の首領になるためではなかった。すでに25年冬、張漢民は中国共産党に入党、革命にその生命をかけることを誓っている。西北軍のなかで順調に昇進しながらも、部下の思想教育と党へのオルグに余念がなかったし、国民党に追われていた革命家たちを匿い、それらを軍幹部に抜擢し、軍内工作にあたらせている(彼の部隊は「共産党幹部の貯蔵庫」と呼ばれた)。

  西北の革命運動の幾つかの幕間に彼は登場する。1931年、彼が警衛連隊の連隊長になってからは、何度も共産ゲリラの討伐に狩りだされたが、いつも討伐を装いながら、ゲリラたちに便宜をはかり、敗走するゲリラ指導者の保護にあたった。32年12月、紅四方面軍が陜南を経て川北に入ったおり、張漢民の警衛連隊は陜南に移駐し、紅軍を南に追いながら、現地の地下組織と連絡をとりゲリラ隊を支援し、以後紅四方面軍との連絡に成功する。また西北軍と紅四方面軍との相互不可侵協定が結ばれた後は、陜西側から根拠地に必要な物資や人員を送りこむ秘密交通網の維持に1役かっている。

 当然、このような張漢民らの活動が国民党陜西省党部や国民党中央の目を引かないはずはなく、また共産軍討伐のために西北に進駐してきた胡宗南部との間に摩擦が起こるのも必定であった。が、国民党中央からの張漢民排除の要求に対し、楊虎城はいつものことながら曖昧にやりすごし、相手にしなかった。
 
  1935年2月、警衛連隊は警備第2旅に拡編され、張漢民は旅長に昇進する。胡宗南部との摩擦を避けるため、部隊を関中に移動させるはずであったが、35年初めの紅軍の入陜に追われ、張漢民派は紅25軍の追撃を命じられる。この時、張漢民派内の党員はすでに200名以上に達しており、張漢民自身は部隊が関中西部に移駐されるのを待って蜂起し、劉志丹らの陜北、陜甘根拠地に連接する新根拠地の開拓を準備していたという。

 3月中旬、陜南を転戦中の紅25軍は柞水県城を占領した。徐海東の説明によれば、その時、張漢民旅から使者(張某)が到着、相互不可侵の協定を申し込んだ。だが、紅25軍指導部の呉煥先(軍政治委員)、戴季英 (軍参謀長)はそれを信用せず、使者を査問に付した。その結果、使者は、張漢民は共産党員であったが、すでに脱党し、ファシストに加わっている、彼は紅軍を消滅させて楊虎城に功をたて彼に報いようとしている、と供述した。呉煥先、戴季英及び徐宝珊、徐海東(軍長)を含めた指導部はこの供述をもとに張漢民旅への攻撃を決定した。

 張漢民旅側の回想によれば、張漢民らが紅25軍に派遣した張明遠と馬宗仁は、紅25軍との間で相互不可侵協定を結び、連絡信号をうちあわせて帰り、張漢民に詳しく報告したとある。また張漢民らはその後も紅25軍のために、陜南や川北の軍用地図などを送り、また医薬品や通信機材を買い求める手筈を整えている。すでに使者を送り、紅25軍とは相互不可侵の約束ができていると信じていた張漢民は、計画通り紅25軍に対する「追撃」を続行した。4月9日、柞水県九間房で警戒もせず大胆に逃走してきた張漢民旅に対し、待ち伏せしていた紅25軍が襲いかかった。不意をつかれた警備第3旅は撃破され、張漢民以下多数が捕虜となった。全く予期せぬ攻撃にあい捕虜となった張漢民など20数名の党員は党員証を示して自分たちが同志であることを証明しようとした。が、戴季英らは信用しなかった。1ヶ月あまり後、捕虜の処分を決めたおり、党員と称した者は、全て偽共産党員として殺害され(一説によれば百人以上の犠牲者がでたという)、少数の非党員のみが釈放されただけであった。紅25軍と張漢民旅の協力のため党上海中央局に指示を仰ぐべく西安に赴き、戦闘の翌日、戻ってきた汪鋒 (中共陜西省委責任者兼省委軍事委員会書記)は、衝突の様子を聞き、紅25軍の駐屯地に駆けつけ、上漢中央局の指示を伝え、且つ張漢民らを数いだそうとした。だが、彼までもが紅25軍に勾留され、その後部隊の北上とともに陜北まで連行され、おりよく陜北に到着した党中央の手によって漸く釈放されている。

 徐海東はこの事件の責任を、1部は張漢民らのいうことを信用しなかった戴季英に、1部は深追いしすぎた張漢民に押しつけている。だが、その実、張漢民の使者の供述なるものが拷問によって無理に自白させたものであることは明らかであり、それを信じた紅25軍指導部に最初から張漢民旅を殲滅しようという意志があったことは間違いない。もし、呉煥先、徐宝珊のいずれかが使者の自供の信憑性に疑いをもったならば、接近する張漢民旅を攻撃する時期を延ばせたであろうし、たとえ誤解が重なり相手を捕虜にしたとしても、同志だと主張する人々を殺害することは防げたはずであった。徐海東がいう「張漢民旅を攻撃したことは正しかったが、張漢民たちを殺したことは間違いであった」などというのは、苦しい言い訳にしかすぎない。

 35年11月下旬、今度は毛沢東の密使として中共と西北軍の統一戦線交渉のため楊虎城を訪ねた汪鋒は、楊虎城から張漢民事件の釈明を求められている。事件のあらましと、党内において張漢民の名誉がすでに回復されていることを告げた汪鋒は最後に、この事件によって、西北軍内には共産党員はいなかったということを蒋介石にわからせ、「蒋介石の第17路軍に対する疑いを解くことができたのでは」と語ったが、語った汪鋒にとっても、それにうなずいた楊虎城にとっても苦く、やりきれない一時であったに違いない。

 最後に、紅25軍については次の点に注意しておかなければならない。

 紅25軍は100%の労農紅軍であった。つまり、労働者・農民(雇農、貧農、小農)以外の階級出身者は全く含まれていない部隊であった。張国壽が登場した31年4月以後、際限なく続いた「内部の敵」の摘発、粛清の結果、地主、富農、ブルジョア家庭出身の革命家、知識分子、そして白軍、会党、土匪から紅軍に転じた兵土たちは全て抹殺され、少数の独裁者が知識分子であることを除けば、それらの成分は根拠地と紅軍からきれいさっぱり消えてしまった。にもかかわらず、日常的な相互監視と相互告発により、些細な理由で反革命分子とされたり、反革命の協力者、スパイとされる者が後を絶たなかった。

 この純粋な労農の革命軍、紅25軍3千の部隊のなかに、反動組織のメンバーとして疑われた人々が300人以上もいた。彼らは同志とは呼ばれず、全くの無権利状態のまま保衛局(粛清機関)の監視下におかれ、勿論自由に話すことも許されなかった。彼らは、着のみ着のままのぼろをまとい、重い荷物を背負ったり、担架隊員として傷病兵を運んで働いた。35年冬、徐海東は毛沢東の指示を仰ぎ、これら反革命被疑者を解放し、党籍や団籍を回復させている。

 張漢民事件の3ヵ月後、この不吉な部隊は中央紅軍らの北上に合わせ、陜北に向かう(9月到着)。張漢民の僚友、劉志丹たちが創りあげた陜北 の根拠地で彼らが見たものは、28、29年頃の南方の各根拠地そのままの世界であった。革命家の多くは地主、富農家庭出身者であったし、知識分子そのものであった。また、紅軍兵土たちの多くは土匪や哥老会などの会党、民団(自警団)、地方軍閥軍の兵士から革命に身を投じた人々であった。純粋な労農紅軍の鍛え抜かれた革命家たちから見れば、それは階級的に不純で、雑多で、素性の知れない者たちからなっており、しかもその指導者たちは張漢民のように軍閥や政客との曖昧な関わりを未だ断ち切ってはいなかった。まさにこの革命根拠地は汚濁にまみれた世界に見えた。彼ら赤い戦土たちは、上海の中央局や天津の北方局から党中央代表として陜北へ派遣され、根拠地の徹底した改造(王明路線の完全な執行)をはかろうと手ぐすねをひいていた朱理治、郭洪涛らと共同して根拠地の浄化に立ち上がる。陜北の粛清が開始された。

 雑多や曖昧さは、活気や創造性と結び付き、純粋さや完全さの追求は却って頑迷さや抑圧に結びつく。それらはともに革命というものの属性であり、革命というものが必然的にもたざるをえない浄化装置の入口と出口に備わり、革命の生と死に付き従っている。1935年の春、陜南で張漢民旅と紅25軍が遭遇した時、その二つがすれ違い、後者の勝利に帰した。その勝利が一時の勝利であったのか、永遠の勝利であったのか、多分歴史はまたその答えを出していない。

 [第11話」 張漢民が遭遇した紅軍  <了>
 


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