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●中国共産党外伝(2)
 ●[第七話]赤色情報組織 一 中央特科小史〔後編〕 

 1933年、陳雲、潘漢年がソビエト区入りし、康生がモスクワヘ発った後、中央特科を指導したのは、経済学者として著名な王学文であった。王学文は日本へ留学、京大の河上肇のもとで経済学を学び、帰国後は中共側の代表的論客として中国社会性質論戦に登場、トロツキストたちと激しい論戦を繰り広げた。32年、上海事変の後、王学文は江蘇省委宣伝部幹部となり、本格的に党活動に入る。おそらく以前から日支闘争同盟を通し、日本軍水兵に対する反戦工作を指導してきたことが、評価されたのであろう。33年特科に転属する。

 33年夏から37年7月の抗日戦争勃発時にいたるまで王学文は、中央特科の最高責任者として、特科活動の指導に当たっている。抗日戦争開始後、彼は延安に向かい、マルクス・レーニン学院の副院長に就任している。また、八路軍総政治部敵軍工作部の初代部長であり、当時脱走日本兵を教育するために設立された延安労農学校の講師も務めている。特科時代についての彼の回想が未だ公表されていないので、この時期、王学文が実際どのような活動を担ったのか、残念ながらはっきりしない。

 34年6月から35年7月にかけ、上海中央局は4度の大検挙に遇い、ついに瓦解する。白区(国民党央配地区)各地の党組織も壊滅するか活動停止に追い込まれるかのいずれかであった。残された党組織は河北省委(北方局)のほか数えるほどであり、しかもそれらの組織は相互の連絡を欠いたまま闘いを続けなければならなかった。このような情況のなかで、あまり深手をおわず組織を維持していたのは、中央特科と、中央軍委の白区残留組織であった。軍委系統の指導者劉仲華、王世英は、多くの回想録のなかで常に特科(情報系統)の党員として現われる。35年前後の地下運動にとっての最も困難な時期、特科及び軍委系統の2つの組織は相互に密接な繋がりをもち、協力しつつ情報工作に従軍していたと思われる。当時、情報系統或いは特科といった呼称は、これら2つの系統の情報組織の全体を含めて使われている。

 言うならば、ずたずたになった党組織にとって、特科は瀕死の身体にかろうじて繋がっている神経繊維のようなものであった。地方党組織の相次ぐ検挙により、党組織のない地方が広がっていた。その空白を埋めるため、従来の党組織に代え、特科工作員を送り込み、地方の政治、軍事に関する情報を収集する一方で、大衆運動の動向や、党組織再建の可能性を探らせるようになった。その典型は中山大学教授として赴任する何思敬を、中央特科の秘密党員として広州に送り返した例である。長沙の特科小組、太原の徐冰、張友漁、西安の西北特別支部、香港の南方工作委員会なども情報工作の任務を負っている。

 彼らは党組織建設、党員拡大といった党員としての基本的任務の遂行を禁止されており、公開の職業に見合った振る舞いをし、あくまで非党員、無党派を装い、共産党員であるとの疑いを招かないようにすることを厳命されている。例えば何思敬は如何なる地方党組織、大衆組織であれ一切関わることを禁じられていた。中央軍委の指示により設立された西北特別支部は西北の抗日大衆運動を発展させることを任務とし、その他の地方党組織とは関係をもってはならず、また党員を増やしたり、党組織を発展させたりする任務をもっていなかった。

 また、特科は、党が摘発された後、党組織との連絡を失ってしまった党員を受け入れ、特科の連絡網を通じて党組織に復帰させたり、後にはそのまま特科に残留させ、新たな任務を与えたりしている。上海中央局の消滅後は、上部組織を失った地方党が上海を訪れ、党中央と連絡をはかろうとするのを援助し、党中央を代理して連絡を受け入れるようになる。31年以来、上部組織の指導なしで長期にわたり革命運動を組織してきた浙南地下党や、四川の劉連波、劉哲文の組織は、そのようにして上部組織との連絡がつくまで特科に繋がり、その指導を受けている。

 35年秋、辛うじて残っていた上海中央局のメンバーが北方(天津)に転じたのと前後して、北方局情報部、華北連絡局といった名称の情報組織が北方に登場するが、これらは王世英、南漢宸を指導者とする特科組織であった。そのメンバーには、徐冰、楊秀峰、張友漁、温健公といった北平(北京)、天津のそうそうたる左翼教授たちが名をつらねている。彼らは大学の内外においてその影響力を発揮し、多くの学生たちの左傾化を促したほか、上層に対する抗日宣伝活動を進めた。これまでの、地方党組織においては、左翼教授の立場は極めて危ういものであった。入党としたからには教らも一般党員と一緒に、ビラ貼りをしたりデモに参加しなければならなかった。1度党組織が摘発を受けるや、彼らもそれに巻き込まれざるをえなかった。だが、特科所属の左翼教授たちは、党組織に関わることを免除され、時によっては大衆組織に関わることさえ禁じられていた。それゆえ、急進的な学生との関わりは、あくまで師弟関係の範囲内に留めおかなければならなかった。しかし、それはかえって左翼教授たちの柔軟で思い切った活動を促すことになった。教授たちは講義を通じて、学生たちに左翼理論を注入し、密かに行動への準備を促した。そのようなスタイルをとるかぎり、逮捕された未熟な学生党員や団員から、その同志として指される心配がなくなったのである。

 とはいえ進歩派知識人の一員として抗日大衆運動などに参加することは可能であった。35年12月、北平で、12・9運動が勃発した折、9日のデモに参加した楊秀峰、温健公は、天津に赴き、授業をもっていた天津の大学の学生に北平に続けと呼び掛けたが、これが天津における12・18のデモの切っ掛けとなった。文化界救国会などに参加した北平、天津の左翼教授たちは、徐冰、楊秀峰など特科のメンバーを通じて王世英、南漢宸に指導され、抗日運動に突き進む急進派の学生を、背後で支えることになる。


 王世英は山西省洪洞県人、★黄埔軍官学校第4期生である。西北軍、山西軍において兵士暴動工作に従軍した後、32年初め以後、中央軍事委員会のもとで南京における情報工作(主に藍衣社に対する)を担当する。33年、王世英は南京より上海にもどりへ中央軍委情報部所属となる。その後王世英は、紅軍の敗退と白区革命運動の挫折という困難な情況のもとで、大陸各地を駆け巡り、縦横に活躍。軍委、特科の情報系統の総力をあげ、敗退局面の挽回に大きな役割を果たしている。南漢宸は王世英と同郷であり、王より10歳年上である。王世英が情報工作者らしく、細長い顔、鋭い目つき、冷たい風貌をもっているのに対し、南漢宸は温厚な雰囲気を特つ苦労人のおもむきがある。西北軍でながく工作した後、34年中央軍委情報部に配属され、王世英とともに活動することになる。彼は抗日戦争期間中、延安で財政工作に力を発揮、その後、新中国成立後に、初代中国人民銀行行長や中国国際貿易促進会主席などを務めている。

 38年、王世英、南漢宸など、主に情報系統の党員たちは連名で、毛沢東に江青と結婚しないように求める手紙を、党中央に提出している。彼らが上海時代の江青を知っていたからであろう。これは、後の成り行きを考えれば余計なことであった。が、彼らは、党が健全であることを信じ、このような行為が後に報復の材料になるなどとは予想できなかったのであろう。

 特科は各軍閥に対する情報網をもち、また各軍閥との間に一定のパイプをもっていた。各軍閥はいずれも国民党中央軍との間に抜き差しならない対立を抱えていた。33年には楊虎城部と紅軍第4方面軍との間に秘密停戦協定が締結されたが、これを指示したのは中央軍委であり、宋綺雲など西北軍内の秘密党員たちが、その下工作をした。宋綺雲は西北軍の機関誌『西北文化日報』の副社長兼編集長であり、41年、国民党の特務に捕らえられ、楊虎城とともに『紅岩』の舞台で有名な重慶の中央合作所に囚われの身となった。解放前夜の1949年9月、宋綺雲夫婦とその幼子は楊虎城親子とともに、国民党の手により惨殺されている。そのほか西北軍との関わりでは、楊虎城の信頼があつかった南漢宸の存在を忘れることができない。 


 山西軍閥・閻錫山、宋哲元軍、広西軍閥、旧19路軍、四川軍閥・劉湘などの各軍閥との間にも、特科は何らかの接触をもっており、1部では積極的に統一戦線結成の働きかけを行っていた。このような軍閥との秘密交渉の最大のものは、実は、35年末から始まった国民党中央との間の秘密停戦交渉であり、中央特科、北方特科ともに、その交渉の最初の段階で重要な働きをしている。

 抗日民族統一戦線結成に向かう転回点であった西安事変(36年12月)に、このような中共と各軍閥の錯綜した関係が一挙に表面化することになった。映画『西安事変』を思い出してほしいのだが、36年4月、張学良と周恩来は延安の教会堂において秘密会談をもち、東北軍と紅軍の停戦協定を結んでいる。この会議の参加者は、張、周の2名のほか、東北軍軍長・王以哲、紅軍代表・李克農である。もう1人主要な参加者が会議に列なっていた。劉鼎である。彼は張学良とともにやってきたが、中共党員であった。劉鼎は20年代初めの 勤工倹学運動に参加、ドイツで学び、その地で中共に入党している。その後、ソ連に行き、モスクワの中山大学で学んだが、東方大学で教えていたこともあるという。そのモスクワで最初に暗号解読を学んだのが劉鼎であるとソールズベリーが『長征』に書いている。彼は 当時モスクワに留学していた呉先清(宣中華・未亡人)と結婚、帰国後、2人は中央特科で働く。 


 33年、劉鼎はソヴィエト区入りし、やはり特殊任務につく。呉先清は、中央特科より、ソ連赤軍情報部に移り、上海に残った。日本にも1年ほど住んでいる。35年、根拠地崩壊の後、劉鼎は江西東北地区を脱出、その年の秋の終りに、辛うじて上海に辿りついた。

 だが、35年春、上海において赤軍情報部の連絡網が摘発され、呉先清など情報員たちはすでにモスクワに逃れていたため、2人は再会することができなかった。
上海に戻った後、行くあてもなかった劉鼎を救ったのは、アグネス・スメドレーと、ルイ・アレイなどコミンテルン中国班のメンバーである〔補注〕。彼らは劉鼎をチャールズと呼び、数カ月間起居をともにして彼を匿う。危急の際には彼を宋慶齢の屋敷にあずけた。

 
 36年初め、中共中央がまだ上海にあると考えていた張学良は元部下の李杜に、上海で中共中央と接触するように依頼する。この話は宋慶齢を経てスメドレーのもとにとどく。だが、この時すでに上海中央局は解散していた。彼らはこの任務を劉鼎に托した。36年3月、西安に着いた劉鼎は張学良に会い、中共中央は現在、陜北にあることを告げ、陜北 との間で交渉することを勧めた。張学良は劉鼎が相当気に入ったらしく、以後10数日間、彼を伴い、連日居食をともにして話しこんでいる。すでに予定されていた、4月の周恩来との会談を前に、張学良としては、中共と紅軍についてできる限りのことを知り、疑念を晴らしておきたかったのであろう。インテリであり、経験豊かな革命家であり、且つ革命の表も裏も知りつくしていた劉鼎はその点において、おそらくうってつけであったろう。

 スメドレーたちから、すでにコミンテルンがその方針を大きく転換させ、反ファッショ統一戦線の樹立こそが今後の各国共産党の最重要の課題になったことを聞かされていた劉鼎は、抗日民族統一戦線へ向け、中共と提携させるために張学良に積極的に働きかけ、彼の決断を促した。延安での秘密会談の後、中共中央は劉鼎を紅軍の駐東北軍連絡代表に任命する。36年6月、スノー、マーハイトは西安を経て陜北の根拠地に入ったが、それをお膳だてしたのは、劉鼎である。陜北から西安に戻ったスノーに対し劉鼎は、「他人を書いてもかまわないが、絶対に私のことは書いてはならない、でなければ我々は友だちではなくなる]と述ベ、厳しく釘を剌した。36年12月、西安事変が起こった時、張学良は飛行機を延安に飛ばし、周恩来など中共の代表団を西安に運んだが、その飛行機に乗り込み代表団を延安まで迎えにいったのも劉鼎であった。

 劉鼎の妻、★呉先清は35年9月、モスクワに逃れ、マルクス・レーニン学院で1年間、学習を続けた。だが、ソ連内部で荒れ狂っていた粛清に彼女も巻き込まれる。37年11月、彼女は日本のスパイとして逮捕され、シベリアに送られ、以後音信が途絶えた。

 ★黄埔軍官学校 中国国民党陸軍軍官学校。国共合作成立後の1924年5月、ソ連の援助により広州近郊の黄埔に設立された革命士官養成学校。校長蒋介石、国民党代表・潔仲位(国民党左派)、政治部主任・周恩来。優れた将校、軍幹部を、国民党のみならず共産党にも、多数送りだしている。

 ★ほかにも多数の中共党員がソ連で粛清されている。35年2月以後、劉仲華とともに上海中央局の責任者であった賀昌熾も犠牲者の1人である。が、なかでも、20年代後半、ミフ庇護のもと、モスクワで羽振りをきかす王明グループに抵抗した兪秀松、董亦湘、周達明らの留学生や古参党員たちの運命は悲惨であった。38年、董、周はハバロフスクで逮捕、処刑され、兪は新疆で逮捕され、ソ連に送られ獄死している。3人は王明にトロツキストとして誣告され、粛清されたのである。

 

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