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●中国共産党外伝(1)
 ●[第六話]赤色情報組織一中央特科小史 〔前編〕 

 『歴史読本』本年(1988)3月増刊号は「中国 謎の秘密結社」と題した特集を組んでいる。さすがに会党についての記述は相変わらずおもしろい。そのほか、現代中国における特務機構について幾つか紹介がなされているが、いずれも中国の特務機構はソ連のKGBばりで、中共独裁の権力基盤であるといった説明がされ、如何にも謎めいて、おどろおどろした組織であるかのような書き方がされている。勿論そう書いた方が、読者の興味をそそるであろうし、著者たちのもっている知識(それが大したものでなくても)に箔がつくというわけである。

 特務組織が外の敵に対する諜報活動や破壊工作に従事するかぎり、その組織に恐怖を抱く必要はない。特務組織の不気味なイメージの大半は、その工作が内に向けられた時、いつ味方(自分)を敵のスパイとしてしょっぴいていくかわからないという点にある。ここでは、このような自己の組織内部を工作の対象とするような陰湿な組織とは違った特務組織、中央特科について述べてみたい。

 特科の前身は2つある。1つは、1927年5月、武漢時代に中共中央軍事委員会(書記:周恩来)の下に設けられた特務工作処である。もう1つは、上海の「打狗隊」であり、労働者たちのストライキを自衛する糾察隊から生まれたものである。労組(工会)のリーダーやスト指導者を襲撃、暗殺する軍閥や資本家の手先、ごろつき、チンピラ、青幇の類から指導者を護り、それら手先たちに反撃を加える武装糾察隊が起源である。「紅隊」、「紅色恐怖隊」とも呼ばれる。

 国共分裂(27年7月)以後、党中央は武漢から上海に戻る。国民党との熾烈な武装闘争や、苛酷な弾圧に対し、組織と運動を護るためには、様々な特殊任務を遂行する必要が生じた。同年11月、中央特科が誕生する。

 特科は4科に分かれていた。1科は総部(総務)とも呼ばれ、党の中央機関が利用する住居、設備品の確保、購入、集会場所、連絡点の設置などを担当した。2科は情報科であり、国民党の特務機関や公安系統に工作員を潜入させ、情報の収集を行なっていた。三科は行動科とも呼ばれ、「紅隊」を率い、裏切り者、敵の特務の殲滅工作を担当した。★顧順章が科長であった。4科は電信科であり、中央とソビエト区(根拠地)の無線通信に当たっていた。

 特科組織を語る場合、特科の設立を指導した周恩来を忘れるわけにはいかない。次に特科で忘れてはならないのは、顧順章である。上海の職工頭出身の顧順章は、「5・30」事件以後、糾察隊の指導者として頭角を現し、26年にソ連に赴き、保衛工作を学んできた。特科成立後、彼は3科の科長として辣腕をふるった。20年代後半、党内で「唯成分論」が台頭し、労働者出身が能力の如何にかかわらず抜擢され、持ち上げられるにつれ、彼も次第に昇進、28年6全大会では中央委員に、30年の第6期3中全会では中央政治局侯補委員にまで出世する。

 〔補注〕○全大会は、第○次全国代表大会の略。第○回大会と訳されるが、本書ではそのまま使用している。また、全国代表大会から次の大会までの期間においては、それに代わる最高決議機関は中央委員会全体会議すなわち中央委員会総会であり、○中全会と略される。

 小柄で太っちょで、鼻が高く、目が鋭く、野心家で、喧嘩好きで、二丁拳銃の名手であった顧順章は、また奇術が得意で、化広奇という芸名で上海大世界の遊芸場に出演したこともあった。特科には、彼の妻、岳父母など、彼の身内の8人が住み込みで働いたり、連絡に従事しており、彼が1時特科のボスとして振る舞っていたことは事実であろう。

 31年4月、那橡院根拠地に張国壽を送りとどけた後、顧順章は武漢に戻り、そこで国民党に捕らえられ、その日の内に転向、党を裏切る。彼の逮捕については幾つかの伝説がある。武漢に戻った後、彼は相変わらず化広奇の名で遊芸場に出ていた時、武漢の国民党の特務で元共産党員の王某に見破られ、捕まったとも言われ、白い服、白い帽子、白いハイヒールを履いた女特務にたぶらかされ、ついにその女の手に落ちたのだとも言われている。

 党を裏切った顧順章は、南京に送られ、蒋介石に対し、上海の中共中央の各機関の所在地や周恩来ら指導者の住居など重要機密の一切を洩らした。直ちに上海に多数の特務が送り込まれ、一斉捜査が始まった。だが彼らが辿り着いたアジトや住居は、すでにもぬけの殻であった。彼らが行く直前にみな引っ越ししてしまっていた。

 実は、国民党の特務機構の1つ、中央組織部党務調査科(C・C)の中に、中央特科は数人の工作員を潜りこまぜていた。その中の1人銭壮飛は、陳立夫の従兄弟であった調査科主任・徐恩曽(姚文元の仮親)の厚い信頼を得ていた。武漢から南京へ発信された顧順章の逮捕を知らせる電文は銭壮飛によって探知された。彼はすぐさま人を上海に派遣、その知らせは李克農、陳〇を経て周恩来のもとに届けられる。その日の内に党中央、江蘇省委、コミンテルン機関の総てが移動し、顧順章が顔を知っている指導者
たちは、次々と上海を離れた。銭壮飛、李克農など国民党の特務機構に潜入していた工作員も革命根拠地に逃れる。さらに、特科機関に巣喰っていた顧順章の家族たちは、いずれも特科の手で抹殺されている。彼らの特科入りが、思想的なものではなく、顧順章との私的な関わりを通してであった以上、党は彼らの忠誠を信じるわけにはいかなかった。

 次に語らなければならないのは、陳〇である。国共合作時期の1925年、広東での陳煩明討伐の折り、危機一髪のところで蒋介石を救けたという彼のエピソードはよく知られている。26年9月、彼は顧順章とともにウラジオストツクに行き、特務工作の訓練を受けている。27年8月、中共最初の武装蜂起であった南昌蜂起に参加、広東への南下の途中負傷し、辛うじて生き残り上海に戻っている。中央特科に転属後は、情報科長として国民党内部に工作員を送り込む諜報工作の指導に当たっている。中国の革命家にしては珍しく、内気ではにかみ屋であった彼が、その才能の片鱗をかいま見せたのは、裏切り者に対する報復(赤色テロル)においてであった。

 27年から29年にかけ、中共は地下工作に対する不慣れから、陳延年(陳独秀・長子)、陳喬年(同次子)、趙世炎、羅亦農、彭湃など、多くの若き俊英を失っている。なかでも、羅亦農、彭湃は裏切り者の手で、敵に売られ、殺害されたものであった。中央特科は裏切り者の末路がどのようなものであるかを示すため、俄然反撃に出る。

 28年4月、当時政治局員であった羅亦農は彼の秘書何家興夫婦に売られ逮捕され、数日後処刑されている。内通者の情報により、何家興夫婦の裏切りが判明した後、陳は紅隊を率い、未明、彼ら夫婦が隠れ住んでいる旅館を襲い、何家興を銃殺、べッドの下に逃げ込んだその妻に重傷を負わせている。旅館のなかで銃声が起こると同時に、外では爆竹が鳴り響き、陳たちの行動をカモフラージュした。

 29年8月、政治局員彭湃、同候補委員楊殷など5名の幹部が軍事工作について会議を開いていたところ、工部局(租界当局)の摘発を受け逮捕される。国民党に引き渡された後、いずれも龍華の刑場において殺害されている。彭湃は、広東の海・陸豊一帯の農民運動の指導者であり、当時最も声望のある革命家の1人であった。彼らの逮捕もやはり裏切り者の密告によるものであり、裏切り者白〇は当時中央委の秘書をしていた。

 彭、楊5名の救出が失敗に終わった後、周恩来、陳らは白への報復に出る。紅隊の報復を恐れ、国民党の特務の家に匿われた白であったが、特科は内通者の情報によりその動きを手に取るように把握していた。白が上海を離れるため隠れ家を出たその時、陳が指揮する紅隊が襲いかかり、白とその護衛数人を始末した。これらの赤色テロルの貫徹は、当然にも上海の新聞界に強烈なセンセーションを引き起こす。

 32年11月、負傷治療のため、那橡院根拠地から1年ぶりに上海に戻った陳は、国民党の特務に見破られ、逮捕される(33年3月)。南京に送られた後、黄埔軍官学校時代の同学や学生たちが次々に訪れ、彼に転向を迫ったが、無駄であった。ついに、蒋介石のいる南昌の行営に送られ、蒋介石自ら出馬し、説得を試みたが、陳は相手にしなかった。投降を拒絶したにも拘らず、陳は殺されなかった。反対に監視の目が弛んだ隙をつき、彼は逃亡、上海を経て根拠地の首都、瑞全に赴く。だが、この脱走劇は、命の恩人の脱走に対する領袖(*蒋介石)の黙許なしには不可能であったはずである。

 31年4月の顧順章の逮捕と裏切りは、特科の諜報網を瞬時にして破壊してしまった。国民党の南京、上海の各特務機関や公安系統に潜んでいた工作員、同調者、情報提供者たちは逃げるか、捕まるかしかなかった。また彼に顔を知られている陳以下の工作員たちも、次々と上海を離れ別の任務についている。特科工作は大きな痛手を受け、体制の立て直しを迫られる。続いて31年6月には、自堕落な生活に溺れていた総書記向忠発が逮捕され、即日党を裏切る。

 同月、特科の指導機関、中央特別工作委員会が新たに発足する。おそらく特科工作の立て直しをはかるために設立されたのであろう。メンバーは周恩来(同年秋、上海を離れ端金に赴く)、康生、陳雲、潘漢年などである。興味深い組み合わせである。

 潘漢年は、それまで左翼作家連盟(左連)、社会科学家連盟(社連)など左翼文化団体を指導する党中央機関、文化工作委員会の指導者であった。1925年以来、創造社の一員であった潘漢年は、党の意向に沿い、嗎雪峰などとともに、魯迅グループ、太陽社、創造社といった互いに激しく論争しあっている左翼作家たちを、ともかく団結させ、左連に結集させることに成功する。左連内に設けられた党フラクションの初代書記に就任したのも潘漢年であった。

 31年夏、中央特科に転じた後、潘漢年は従来の党内関係を断つ。その上、国民党左派を讃えるような文章を発表し、文芸界からも足を洗っている。33年夏にソビエト区入りするまで、彼は特科2科長として、情報工作、上層工作に従事している。袁世凱の皇帝即位を演出した「チュウ安会六君子」の1人、楊度が思想的変転の末、入党を希望した時、周恩来に紹介したのも彼である。楊度からは、国民党各派や政客集団、各軍閥、或いは青幇の親玉・杜月笙らの動向に関する数多くの情報がもたらされた。

 33年末、抗日部隊として名をはせた19路軍の首領たちは、反蒋抗日(蒋=蒋介石)を掲げ福建人民政府を樹立する。潘漢年は中央ソビエト政府と紅軍を代表し、端金から福州へ赴き、19路軍と談判、停戦協定を結んでいる。また、広東軍閥・陳済棠との間の秘密停戦交渉にも代表として出席、協定を結ぶことに成功する。

 34年10月、長征が開始され、彼も従軍する。35年1月、遵義会議の後、党中央は会議の結果をコミンテルンに報告するため、潘漢年をモスクワヘ派遣する。言葉が違い、しかも不慣れな土地を貴州から上海まで戻るのは大変な努力を必要とした。潘漢年はわざと、紅軍に捕らえられていたアヘン商人の逃亡を援け、今度はその商人の助けを借り、首尾良く国民党軍の包囲を潜り抜け、ようやく上海に辿りつくことができた。

 同年5月、長征途上の党中央は、第2の使者として陳雲を派遣する。商人に身をやつした陳雲は、大渡河を渡った後、部隊に別れを告げ、上海に向かう。党中央がコミンテルンヘの使者として潘漢年、陳雲を選んだのは偶然ではない。彼らが特科工作に加わっていたことが決め手になったのだと思われる。特務工作に通じ、特科のネットワークを利用できる彼らの方が、他の指導者たちより、封鎖検問を突破し、任務を達成する可能性が高いと判断したのだろう。上海で落ち合った2人は渡航手続きなどで、宋慶齢(孫文夫人)の援助を得、楊之華(嬰秋白夫人)などとともに、ウラジオストックを経てモスクワに向かう。

 36年初め、潘漢年はモスクワで国民政府駐ソ大使館の武官・文儀と国典合作について最初の話し合いを行なっている。35年末から幾つかのチャンネルを通して秘密裏に始まった国共停戦交渉の1つであり、第2次国共合作へ向けての、国共両者のしたたかな交渉の幕開けであった。

 ★顧順章(?~1937-銃殺)‐上海人。上海南洋煙草公司の工員であったが、5・30運動においてストライキを指導した後、上海市総工会幹部となる。五全大会、六全大会において党中央委員、第六期三中全会において政治局委員候補。党を裏切った後、藍衣社に加わる。37年、分派を企てたとの理由で、陳立夫(CC)の命令により銃殺。
 
 

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