カウンター 読書日記 ●『中国の政治経済の虚実』を読む。 (続)
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●『中国の政治経済の虚実』を読む。 (続)
 ●「三文小説」を「歴史書」と誤読した天児慧教授 
 
 早稲田大学大学院・天児慧教授が『現代』(2006年1月号)に書いた「衝撃の書『マオ』の読み方」も、支離滅裂だ。天児教授は「原稿を細かくチェックしていただいたのみならず、本書が中国研究者の目から見てもいかにショッキングな内容であるか、これまでの中国研究の基礎に立って本書をどうとらえるべきであるか、など、広く深いご教示を賜った。最大級のお礼を申し上げたい」と訳者・土屋京子氏から感謝されている人物である(邦訳下巻543ページ)。

「原稿を細かくチェック」したのは、本当か。「本書が中国研究者の目から見てもいかにショッキングな内容であるか、これまでの中国研究の基礎に立って本書をどうとらえるべきであるか、など、広く深いご教示を賜った」というのは、いかなる意味か。かねて疑問を抱いていたが、先の『現代』1月号論文のなかで、その「衝撃」なるものを自ら語っていることが判明した。以下は天児論文の「読み方」である。三文小説は驚くに値しないが、天児論文は「衝撃」的だ。なぜならこれは天児教授の「30年にわたる中国近現代史研究」の結果が結実したものといってよいからだ。

 天児論文冒頭の4行をまず引用する。
「衝撃的な毛沢東伝であると同時に、従来の中国革命史・現代史を根底から覆しかねないあまりにも大胆な現代中国の歴史書である」。

 私見によれば、三文小説程度のシロモノを、天児は「歴史書」と認識していることがわかる。「革命や政治の〔封印された暗部〕、〔裏面史〕を膨大な資料や数々の聞き取りによって明らかにし、それらをつなぎ合わせながら大きな歴史の流れにしていったところに本書の特徴がある」と説明する。

 天児教授はここで「膨大な資料や数々の聞き取り」という張戎夫婦の宣伝文句をそのまま繰り返していて、引用テキスト批判をまったくやらない。

 「本書の描写は30年以上も中国近現代史を研究してきた私自身にとってもショックを隠せないほどである」というが、30年以上も研究して、記述の真贋を見極められないというのは、「まともな研究をしなかったこと」を告白したに等しい。つまりは「書評を書く能力の欠如」を告白したに等しい。

「(本書は)中国近現代史で蓄積されてきた通説をも、正面から否定する内容となっている」。ならば、研究歴30年のベテラン教授の理解する「通説」との異同を説明するだけでなく、通説が正しい
のか、通説を否定する『マオ』が正しいのか。その判定、鑑定が必要だ。それを行うのが識者・書評家に課せられた責務であろう。求められているのは、中学生の読書感想文ではないはずだ。

 「本書では、毛はスターリンとコミンテルンに従順で、スターリンも毛を実質的に中国革命の中でかなり重視し、毛に様々な局面で重大なサポートを与えたことになっている。おそらくロシアにおける新たな膨大な資料の発掘によって確証を得たのであろう」。

 またしても「膨大な資料の発掘」である。資料批判のないままに、「確証を得たのであろう」と書くのが専門家の文章として許されるのか。ただし「疑問が残る」とか、「「保留」が必要なのかもしれない」と逃げを用意して保険をかけるずるさ。ここで天児が引用した命題は中国革命史にとって最も大きな争点の1つである。研究歴30年のベテラン教授は、張戎夫婦の主張を肯定するのか、否定するのか、いずれかの選択を迫られている。「疑問が残る」では済まされない。「保留が必要かもしれない」では済まされない。マルクス風にいえば、「ここがロードス島だ、ここで跳べ」(まさに今ここでこそ根拠を示さねばならない)、なのだ。

 「優秀で圧倒的な蒋介石軍によって繰り返される包囲攻撃を打ち破り、波状的に拡大していった農村根拠地政権の実態は、農民・労働者による新しい統治などではなく、革命の同志、シンパヘの繰り返される徹底した虐待、テロ、殺戮であり、「解放」ではなくひたすら「恐怖」が植えつけられたとされる」「濾定橋での英雄的な渡江作戦などはほとんど作り話であった」。

 前者は亡命した襲楚『我与紅軍』(香港南風出販社、1954年)が典拠である。後者は、1997年に93歳であったとされる「匿名の女性の証言」である。『マオ』の出版後、欧米紙記者がこの女性を追跡したが、発見できなかったこと、逆に発見できた85歳の女性(当時13歳)は、〔戦闘なし〕という『マオ』の記述を否定したことは、既に紹介した。通説が正しいのか、張戎夫婦が正しいのか、その判断を求められているにもかかわらず、「詳細に叙述している」「本当だろうか?」と無責任な第3者気取りである。

 「以上のように本書の内容は(略)中国近現代史の定説的な解釈をことごとく覆し、まさに〔衝撃的〕な内容となっている」。ここでもまた「定説を覆す衝撃」と、ひたすら「衝撃」を繰り返す。

 「仮に本書が、毛沢東に特に批判的な立場の人々のみのインタビューや回想録だけで描かれているとするならば、決して〔衝撃的〕なものにはならない」「本書は10数年の歳月をかけ、数百名にのぼる生き証人や関係者へのインタビュー」「コミンテルン、中ソ関係史のアーカイブ」「中国自らが公開するようになった各種の資料などを駆使して叙述されたものであるだけに衝撃なのである」。

 なるほど、ここで「衝撃」に弱い天児の知性は理解できる。「数10年の歳月」「数百名にのぼる生き証人や関係者へのインタビュー」「コミンテルン、中ソ関係史のアーカイブ、中国自らが公開するよ
うになった各種の資料」が天児に衝撃を与えたのは、張戎夫婦の宣伝を鵜呑みにしたからであった。

 研究歴30年のベテラン数授が「10数年の歳月」に驚くのは滑稽きわまる。張戎は文化大革命期に紅衛兵であり、前述の通り脱文革期に四川大学英文科を出てイギリスに留学した。この経歴が物語るのは、彼女が文革世代の被害者であり、中国革命を理解するための十分な教育を受けていないことだ。そこをなぜ見抜けないのか。「新発見の旧ソ連のアーカイブ」なるものに呪縛されてはいけない。

またスターリンの代理人・王明の毒殺説は『王明回想録』(経済往来社、1976年)の引き写しではないかとは先に記した。この程度の情報は、40前、中ソ対立当時のソ連共産党が繰り返し強調したものであり、旧ソ運のアーカイブをハリデイがどこまで解読したかを疑わせるものだ。張戎夫婦の宣伝を何1つ疑うことなく、「衝撃」ばかり受けたと告白する教授とは何か。研究歴30年で何を研究したのかを疑わざるをえない。もしかしたら教科書レベルの通説しか読んだことがないのか。

 天児氏は7ページ、約25枚の論文で「疑問が残る」を3回繰り返し、『マオ』の「通説倒し」への違和感をいくつか指摘しつつ、曖昧な結論を導く。

 「本書の内容が、従来の資料を凌駕するような、しかも信憑性の高い新しい多くの資料を発掘し、それらを丁寧に点検し総合的な判断のもとにつなぎ合わせることによって描き出されたものであるとするならば、私はほとんど脱帽せねばならなくなるだろう」。

 脱帽といった話ではあるまい。繰り返すが天児教授著の『巨龍の胎動毛沢東vs小平』を絶版にしないとつじつまがあわないはずだ。

 『マオ』を読めば、本書の真贋は明らかだ。その真贋を鑑定するのが書評家の責務なのだ。先のイェール大学のスペンス教授やコロンビア大学のネイサン教授は、本書の記述を細かく点検して、その根本的欠陥を剔抉し、本書を否定してみせた。天児は、いくつかの疑問は提示したが、本書の記述を何1つ明確に肯定できず、否定もできない。脱帽するのか、しないのか、曖昧な態度をとり続け、そのことによって三文小説のPRに貢献し、原稿料を稼いでいる。これでは中国研究者失格と見るほかあるまい。このような思考停止、判断停止教授を師に持つ学生には同情を禁じえない。

末尾に天児氏は通俗きわまりない愚論を書く。

 「本書はこれまで堅持してきた中国共産党のレジティマシーそのものを大きく揺さぶりかねない内容だけに、党にとっての「衝撃」は私のそれなどとはくらべものにならないほどの大きなものとなるだろう」。中国を脱出した女流作家と新左翼くずれの、その夫が三文小説を書いたところで、中国共産党のレジティマシー(正統性)が揺さぶられることなどありえまい。このような低俗小説を「衝撃の書」などと受け取るのは、著者と出版社のコケオドシにだまされた者か、あるいはだまされたふりをして原稿料を稼ごうとする品性を欠いた教授だけなのだ。

   ●翻訳の問題をめぐって

 ★張戎の著者名表記について

 張戎の著者名を誤訳あるいは誤記していることは、既に書いているが、そのサワリを改めて記しておく。訳者・土屋京子氏は「訳者あとがき」でこう書いている。「中国語の読みは原則として標準語の発音に従ったが、一部はそれぞれの地方の発音に従ったものもある(a)。ちなみに、著者ユン・チアン(張戎)の「ユン」という発音も、本人に確かめたところ、「戎」を出身地四川省の読み方で発音しているのだという(b)」(邦訳下巻542ページ)。

どうやら土屋は、私や高島俊男の12年前の批判を気にはしているが、何を批判されたのかをまだ理解していない。理由にならぬ理由で言い逃れできると錯覚しているらしい。実に往生際が悪い。私はこの本の営業を妨害するつもりはさらさらないが、土屋のような強弁、誤解がベストセラーの力を借りて一般に広く行われるのは、日本の中国理解にとって由々しいことだと思うので、あえてもう1度、問題の所在を説明しておきたい。
 話は実に単純なことだ。「張戎」という2文字は、現行のピンイン方式では、Zhang Rong と表記されるが、イギリスで依然広く行われているウェード・ジャイル方式では、Chang Jung と表記される。

 訳者はこのChang Jung が
(1)ウェード方式表記であることを知らずに、
(2)著者の四川方言と錯覚した。
(3)こうして Jung を「ユン」とカナ書きした。

 私は『東京新聞』に書いた書評(略)で、この間違いを指摘した。著者張戎は四川大学英文科卒業の才媛だけあって、実に標準的な普通話を話す。四川省出身ではあるが、彼女の普通話は少しもなまっていない。この事実を私は後日ホテルオークラにおける対談で確認している(『週刊現代』 1994年4月16日号掲載の矢吹による張戎インタビューを参照)。上に引用した土屋の弁解は、どこがどのようにおかしいのか。

 「中国語の読みは原則として標準語の発音に従ったが、1部はそれぞれの地方の発音に従ったものもある(a)」。このやり方は、それでよい。一般に広く行われているものだ。しかし、「ちなみに」以下には、2重、3重の問題がある。

(1)「本人に確かめたところ」と、典拠を示すが、これは土屋の確かめ方が的確でないので、的確な答えが届かなかったのであろう。張戎が原書に書いた説明を誤読している可能性が強い。
 (2)「「戎」を出身地四川省の読み方で発音している(b)」というのは間違いだ。彼女の家系は『ワイルド・スワン』から明らかなように「東北出身」である。東北人の母親が四川人の父親と結婚して生まれた彼女は四川省で育ったが、母語は「東北」であり、標準語に近い。
 (3)Rong と表記してあれば標準語であるが、Jung と表記してあるのは、「四川省の読み方」に基づくと解釈するのは、間違いである。
 (4)Rong とJung とは、「まったく同一の音」に対する「異なる発音表記システムに基づく表記」であるにすぎない。ここでは「四川省方言の問題」はそもそも存在しない。
 (5)蛇足だが、フランスで行われているヴィシェール方式では、Jong と表記され、ドイツで行われているレッシング・オットマー方式では、Jung と表記される。

 ●「注釈」や「典拠文献」の書き方はきわめて不親切

 頻出する奇怪な記述にぶつかると、読者はインターネットのファイルをいちいち調べなければならない。これはきわめて不便だ。その上、そこに示された中国語の書名、論文名はピンイン表記であり、中国語原文に戻されていない。これでは中国語のできない読者には大変困るであろう。この不親切さは、ほとんど欠陥商品のレベルである。大新聞の書評がこういった品質問題に苦情を書かない。これも欠陥書評の1つの証拠である。既に触れたが、注釈は豊富なように見せてあるが、これはゴマカシが多い。 肝心の箇所の記述については、検証ができない書き方になっている これはスペンス教授やネイサン教授が、当然ながら鋭く指摘した点である。

 また、「イェール・イン・チャイナ大学の学長がまとめた報告書」なる記述が上巻77ページにある。これは在中国のイェール同窓会であろう。「イェール・イン・チャイナ大学」などという大学は聞いたことがない。
 私は翻訳を細かくチェックしたわけではない。友人知人からの問い合わせに応じて、該当箇所をチェックしたにすぎないことを付け加えておく。

 ● 東北部分の記述の誤りについて

 私の書評の草稿を読まれた武吉次朗氏から、資料が届いたので、その1部を紹介したい。武吉氏は知人から問い合わせを受け、解放戦争期に東北民主聯軍軍工部で働いた体験に基づいて、次のように答えたとのことである。以下に張戎の間違いを列挙する。

(1)「ソ連軍はただちに日本軍の兵器庫を近くにいた共産党軍に開放した(a)。その中には東北最大の瀋陽兵器庫があり、中国共産党の極秘文書によれば、ここだけでおよそ〔10万挺の銃、何千基もの大砲類、大量の弾薬、布地、糧食〕が手にはいった」(上巻478ページ)。「モスクワによる共産党軍の再武装は急速に進められた。ソ連は日本製の航空機900機(b)、戦車700輌、3700基以上の大砲や迫撃砲や擲弾発射筒、1万2000挺近い機関銃、さらに松花江に浮かぶ相当規模の小型艦艇部隊、おびただしい数の装甲車や高射砲、何10万挺ものライフルを共産党軍に引き渡した」(上巻500ページ)。

 武吉証言は以下の通り。(a)について。「ソ連は満洲にあった日本の兵器をくず鉄として運んだほか、工場設備、鉄道レール(チチハルから黒河まで等)から、高級官僚社宅の家財まで、根こそぎ自国へ運んでいった」。(b)について。「関東軍は精鋭を南方に引き抜かれたため、敗戦直前に召集された兵隊には銃さえ行き渡らない有り様だった。航空機900機とあるが、民主聯軍唯一の航空学校創設に関わった友人によると、わずかに保有していた隼などの戦闘機は、敗戦直後に自分たちの手で爆破したので、残っていたのはソ連軍や国民党軍が見向きもしないオンボロ練習機だけ。航空学校創設のためそれをかき集め、数機の部品で1機を組み立てるはなれわざで、ようやく16機が飛べるようになった」「ちなみに、ソ連が大量の近代兵器を中国に譲渡ではなく、売却し始めたのは、朝鮮戦争が勃発し、中国の参戦が不可避になってからである」。

(2)「ソ連は日本人の戦争捕虜を何万人も中国共産党に引き渡した」(上巻501ページ)。
 武吉証言は以下の通り。「60万人の戦争捕虜は、すべてソ連がシベリアヘ連行した。留用された日本人は、民主聯軍あるいは共産党政府機関が、病院や工場を職場ぐるみで残留させたか、個別に指名したものである。なお、『人民中国』2006年1月号に掲載された、武吉次朗『友人として扱われた「留用」日本人』を参照のこと」。

(3)「日本軍やソ連軍の下で訓練された20万の強者ぞろいの朝鮮人正規兵部隊も派遣した」(上巻501ページ)
 武吉証言。「これは話が逆である。日中戦争期に八路軍に参加した朝鮮人部隊が、故郷でもある満洲に進駐し、そこで在住朝鮮人を募集したものだ。ちなみに彼らは1950年に朝鮮戦争が勃発するや、武器を携行したまま朝鮮戦線に赴いた。鴨線江南岸が民主聯軍の傷病兵と物資の1時避難場所として使われたのは事実である」。
(4)衛立煌(上巻516ページ)、胡宗南(上巻506ページ)のスパイ説について。
 武吉証言。「衛立惶は、日中戦争期に勇猛に戦い、毛沢東から称賛されたのは事実だが、彼が意図的に毛沢東に協力した形跡はないし、それが「決定的役割を果たした」と書くに至っては、歴史の冒涜というほかない。なお、衛立煌は1955年に北京へ行ってから60年に死去するまで、国防委員会副主席の地位を保持した」。
「胡宗南がスパイではない証拠に、蒋介石に従って台湾へ移ってからも、澎湖列島防衛司令官など要職を歴任した。胡宗南の側近だった熊向暉が実は周恩来によって派遣された秘密共産党員であり、共産党本拠地の延安が危機一髪のころ、熊ルートで蒋介右側の軍事情報が毛沢東側に流れ続けた。これは熊向暉著『我的情報輿外交生涯』(中共党史出版社、1999年)に詳しい」。
(5)民主聯軍について。
1948年11月に満洲を制圧した時点での林彪軍は13万ではなく、100余万であり、うち80万が華北へ進軍し、各地で寝返る国民党軍を編入しつつ、海南島まで進撃した時には140万に膨れ上がった」。
(6)「東北に派遣された兵士の中にはマラリアにかかっている者が多く、熱で弱った兵隊をむりやり何百キロも行軍させるために、1人の病人を健康な兵士が前と後からサンドイッチのようにはさみ、
腰にロープをつないでひっぱって歩いた」(上巻486ページ)。

 武吉氏曰く、「これは張戎の無知丸出し。東北に進駐した八路軍は山東・河北や峡西など北方出身者ばかりであった。彼らがマラリアと日本住血吸虫に悩まされるのは、1949年に南方へ進軍してからのことだ」。
  原載:『中国情報源』21世紀中国総研編、蒼蒼社、
   2006年4月15日刊

 ************** <了>
 

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