カウンター 読書日記 ●『中国の政治経済の虚実』を読む。
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●『中国の政治経済の虚実』を読む。
 ● 疑史(19回) 張作霖・殺害の真相 で取り上げられた、
 『マオ』(“Mao: The Unknown Story”)とその見解に対して、
 矢吹晋が強く批判した著作・『中国の政治経済の虚実』
 (2007年5月7日 日経BP社)を紹介してきた。

 最後に、<3人の大学教授の『マオ』書評>に対する
 矢吹晋の 「歯に衣着せぬ発言」を紹介しておきます。

 1. 国分良成教授 2. 松原隆一郎教授  3. 天児慧教授 の3名。

 
 ● 国分良成教授の書評「世界中で論争、驚くべき新解釈」

 『日本経済新聞』(2006年1月8日付)は、慶応大学の国分良成教授の書評を掲げた。

 「本書では、毛沢東に関する数々の驚くべき新解釈が登場する。
(1)彼(毛)は一貫して農民や農村に関心はなかった、
(2)毛沢東が指導した農民暴動として有名な秋収蜂起に彼は無縁であった、
(3)政敵・王明の毒殺をはかった、
(4)朝鮮戦争は毛沢東が北朝鮮にけしかけ、中国は米国と戦ってソ連から援助を得ようとした、
(5)大躍進の失敗で大量の死者が出て人が減ったことを毛沢東はむしろ喜んだ、
(6)文化大革命はより残酷非道な指導体制を作るための大粛清であった、等々」。

 いま便宜上6項目に番号を付したが、ここで挙げられた6ヵ条について、国分教授は何もコメントしていない。肯定するのか、否定するのか、部分否定か。これらの重大な判断に対して、何も語らないのはなぜか。理解に苦しむ。評価する能力を欠くのならば、書評能力なし、と断定せざるをえない。

 これが国分教授の判断停止第1である。

 「これまでのところ、本書に対する世界での評価は2分されている。ジャーナリスムではそのタブー破りの斬新さと面白さに賞賛の声が強いが、学界では十分な史実考証よりも大胆な仮説ばかりが目立つ点に批判が多いようだ。たしかに本書は、中国現代史をすべて毛沢東個人の野心と陰謀だけで再構成しており、そこに人生の機微や偶然的要素がないのはやや不自然である」。

 ジャーナリスムにおける「賞賛」と学界の「批判」は、その通りだが、では国分教授はどちらの側なのか。「ようだ」という印象風の書き方で逃げる。「野心と陰謀」だけで再構成していて、「人生の機微や偶然的要素」が欠けているので「不自然」だと評する。欠けているのは、果たして「人生の機微や偶然的要素」なのか。「不自然」なことが問題なのか。これでは中学生の作文なみのボキャ貧ではないか。これが国分教授の判断停止第2である。

 相次ぐ判断停止、曖昧な形容詞に続けて、実に驚くべき結論が導かれる。曰く、「ただこうした論争も含め、停滞気味だった毛沢東論に新風を吹き込んだ意義は大きい」。

 国分教授に問う。毛沢東論は、果たして「停滞気昧なのか」。1例だが、先の中共中央文献研究室編『毛沢東伝一1949~1976』は、教授の目に入らぬのであろうか。この大冊と比べたら、『マオ』は半分のページ数だし、文献調べも分析もお租末きわまる。国分教授は「毛沢東論に新風を吹き込んだ」と書いたが、これは驚くべき評価だ。このような歴史を装う虚構、真贋を混同したデタラメを容認できるのは、けだし中国現代史の史実に疎い、不勉強な者だけであろう。

 末尾に曰く、「中国の中からこのような毛沢東論が登場するようなことがあれば、中国の変化は本物である」。これは文意不明である。

 『マオ』はイギリスで、アメリカで、そして日本で出版されたが、類似の毛沢東論が中国で登場することは、まずありえないであろう。このようなデタラメがまかり通るほどに中国が狂っているとは思えないからだ。となると、「中国の変化は本物にならない」というのが国分教授のご託宣である。この教授はいったい何を言いたいのか、まるでわからない。小泉首相の下で【日中友好21世紀委員会】の委員を務める看板教授の発言にしてはあまりにも、ずさん、無内容、お粗末ではないか。これでは日中間でほとんど対話が成立しないのも当然であろう。あきれた話である。
 
 ************

 ●松原隆一郎教授の書評「抗日戦の神話も嘘?議論呼ぶ新説が続々」

 東京大学の松原隆一郎教授の『朝日新聞』の書評(2006年1月15日付)に曰く、

「著者が10年の歳月をかけ送り出した毛沢東伝とはいえ、なお破壊できる偶像などあるものかとまず思ったのだが、そんな先入観は、上巻で吹き飛んだ。建国以前の「功績」をすべて爆破し去ろうとするかのように、挑戦的な新説が、ページを繰るごとに現れるのだ」。

 では「挑戦的な新説」とは、どんな説か。

「(1)英雄的な長征の果てにたどり着いた延安を拠点に、愛する農民とともに抗日戦争を闘ったという神話は真っ赤な嘘だ。
(2)毛は自己愛に取りつかれたサディストで、
(3)共産主義にさして共感せず、
(4)党の創立時のメンバーでもなく」
「(5)蒋介石打倒の目標に向けては日ソと結んで、
(6)中国の分割をも模索し、
(7)自軍である紅軍も野心の生け賛として、
(8)党員や支配地の農民は残虐な拷問と掠奪・処刑によって恐怖で縛り上げた」
「(9)スターリンは毛の野心と残虐性に共感し、対日戦争回避のために利用した」(番号は便宜上、矢吹が付したもの)。

 続けて曰く、「毛と張学良、スターリン、蒋介石のやりとりが本当なら、20世紀の国際関係史は根本的に見直しを迫られる」「問題作であることはまちがいない」。

 松原教授に言う。「やりとりが本当なら」、と仮定法で逃げるのは、卑劣である。これらのやりとりについての「真偽の判断をすること」が書評の書務である。もしその知識と能力を欠いているのならば、「書評能力なし」と辞退するのが良識というものだ。

 松原教授は一方で「やりとりが本当なら」、と逃げを打っておきながら、他方で「問題作」だと持ち上げる。実はここでも逃げているのだ。

「問題作」とは「評価が様々に分かれたり、また、既成の価値観でははかれない作品。また、注目や話題を集めた作品」をいう。松原教授は評価するのか、評価しないのか。その評価を避けて、逃げながら、大新聞のこれだけの紙幅を費やして、書実上、この悪書の宣伝に努めている。「本当なら」で逃げ、「問題作」で重ねて逃げをうち、言葉コロガシで原稿料を稼ぐのは、文筆ゴロの常套手段である。この手合いを重用するのが日本の大新聞書評欄のいやらしさなのだ。

 「本書の生命線は、数百人におよぶ関係者へのインタビューと中国・旧ソ連の初出アーカイブ文書」であると書くのは、コマーシャルそのものだ。「数百人へのインタビュー」から何か、確かな新しい証言を引き出しているのか否かについてまったく言及できない。
 
「初出アーカイブ文書」がもし「中国」にもかかるならば、「初出」は事実に反する。ほとんどすべてが旧聞である。

 旧ソ連についてもかなり疑わしいところが多いことは、既にいくつか例示した。逃げ打ち専門家、松原教授はさらに逃げ続ける。

「どれほど多くの1次データを掘り起こしても、解釈は他にも可能である」「決め打ち風の新説には疑問も多い」。松原教授に問う。もし「解釈は他にも可能である」ならば、それを示すべきである。「疑問も多い」ならば、その疑問を提起すべきではないか。それが書評というものだ。【書評もどき】は、著者と出版社の提灯持ちにすぎないことを銘記すべきである。

 **************
    
    続く。
 

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