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●疑史(第20回) 張作霖殺害の真相(2)
 ●疑史(第20回) 張作霖殺害の真相(2) 落合莞爾   
 

 三民主義を唱えたとされる孫文だが、彼の革命の本来の目的は民族主義、つまり支那本部(プロパー・チャイナ)における漢族自治権の奪回と統一政権の樹立にあった。清朝を倒したことで前者は一応成ったものの、革命政権の支配域は華南の1部に過ぎず、北京を含む支那主要部は反革命の北洋軍閥の支配下に置かれ、地方にも同様な雑軍閥が割拠し、支那本部は政治的に四分五裂した。つまり後者(統一政権樹立)は成らなかった。

 乱立した政権はその性格から3つに分類される。第1は漢族革命勢力で、孫文の衣鉢を継ぎ南方政権と呼ばれたが、汪兆銘の武漢国民政府と蒋介石の南京国民政府に分裂した。第2は反動勢力で、北京の軍権を握り孫文を退けて初代大総統となった袁世凱系の北洋軍閥と、これに類する地方軍閥である。第3は新興の中国共産党で、頭領は毛沢東、政権ナンバー2の周恩来の前歴は、孫文創立、蒋介石校長の黄埔軍官学校の政治郎主任である。

 元来支那本部には含まれない東三省(満洲)を支配した張作霖の奉天政権は、日露間に緩衝地帯を欲する日本陸軍の支援を受けており、反革命的性格は北洋軍閥に類するものであった。張作霖は年来増強した軍事力による北京進出を図り、北洋軍閥との第2次奉直戦争に勝ち、北京軍政府を樹立して大元帥を称した。ここにおいてか支那本部の政治勢力は、北京軍政府と、北伐を唱えてこれに迫る国民党政権が桔抗し、ともに反共を党是としていたが、折から地力を涵養してきた中国共産党は、ソ連の指導の下に国共合作を持ちかけて国民党を篭絡せんとし、国民党は北洋軍閥に対抗するため、時に反共を唱え、時に国共合作に靡く有様であった。周恩来が蒋介石と軍官学校で机を並べたのは、国共合作の所産である。

 先月号に述べたように、昭和2年11月5日の青山会談において、北伐遂行を力説する蒋介石に対し、田中義一首相は、
「現状では北伐より南方の統一を優先すべきではないか」と指摘したが、蒋は「それは正論だが、もし北伐を行わねば南方に帰って禍乱が起こるので・・・」と内部事情を説明した。

つまり、蒋の訪日目的は、北伐完遂のために、日本陸軍の格別の協力を要請しることにあった。北伐の目標は、今や大元帥となった張作霖で、辛亥革命以来、陰陽に日本の支持を受けており、近年やや疎隔を生じたが、年来の関係は直ちに消滅するものでもない。一応、武漢政府と政治統合したものの、南方革命派すら容易に纏めきれぬ蒋にとって、張は勝ち目の見えぬ難敵であった。そこで、青山の田中私邸における密談で蒋が田中に持ちかけたのが、張を殺害してくれれば満洲の占有権を与える交換案であった。これは憶測ではない。以下に、上原勇作付の陸軍特務吉薗周蔵の手記から本件に関する事項を抄出して立証する。

 大正9年5月、陸軍が奉天特務機関を設置し、機関長に貴志彌次郎少将を補した時、参謀総長上原元帥は貴志に次の秘密任務を伝えた。『周蔵手記』別紙記載のうち、昭和30年記述の「奉天秘宝」には次のように記す。
 
閣下ハ貴志サン二 次ノヤフニ 命令サレタヤフダ。「我國日本ニトッテ 支那トウマクヤルハ 最モ重要ナル大事デアリ 張作霖ニ ソノ支那ヲ支配シテ貰ヒ 張作霖ト手ヲ合ハセテヰクハ 何ヨリノ良策」ト。

 日本政府は北京政権を支那の正式政府と見なし、民間の玄洋社は孫文政権を支援していたが、上原元帥は奉天派張作霖による支那支配を画策していたことが判る。現に張作霖は、貴志の赴任直後の6月9日に北京に入り、周樹模を首班とする内閣を作った(時未だ至らず、撤退するが)。

 「ヨッテ 張作霖ノ希望ヲ 叶ヘナケレバナラナヒ。ソノ1ツニハコノ二年バカリ 上田恭輔氏ガ苦労サレテ、進メラレテヰルコトヲ 貴志サンガ 手伝ッテホシヒ。ソレノ目的ノタメニモ 貴志サンヲ 奉天特務機関長トスル」トヰッタコトラシカツタ。

 張作霖に協力させるには、彼の希望を叶えてやる必要がある。それには、大正6年から上田恭輔が苦労して進めてきた清朝皇室の秘宝の極秘換金を貴志に手伝って貰いたい。上原が貴志を奉天特務機関長としたのは、その目的もあった。

 続きを抄訳する。張作霖は愛親覚羅の家宝を盗み出した。張は次のように考えたとの事。皇帝は気力が衰え、誰にでも強い所に靡くような状況になった。故に英国から派遣されたる人物など、皇帝の宝物を狙って、「欲しい」と抜け目なく要求する由。支那の国民気質は皇帝でも小金持も一様に、表面に見せる何倍もの財貨を別の所に隠している。愛親覚羅家も同じことで、表用として紫禁城に飾って目に触れるようにし、ごく大事なものは発祥の地の奉天に隠してあった由。

 皇帝が弱くなって、どうせ英国人の餌食になると考えた張は「それなら、自分が国策のために必要であるから」と決め込み、皇帝の財宝を盗んだそうである。上田恭輔さんは、美術品に興味があったゆえ、それを、つまり盗みを手伝ったとのことである。

 『周蔵手記・本紀』大正9年6月条によれば、奉天に赴任した貴志を追って渡満した周蔵は、上田恭輔を紹介される。

 「コノ人物ハ 奉天カラ満洲一帯ノ主領デアル 張作霖ナル人物ノ部下トナッテ 貴志サンヲ助ケテヰルヤフニ見ユル。
 (略)貴志サンハ 機関長ニナラレタバカリニテ 忙シク、ソノ多忙ノ大半ガ 張作霖トノ交歓ニアルラシヒ」

 上田恭輔は日露戦時は児玉大将の奏任通訳として働き、戦後は東インド会社に倣う満洲鉄道の青写真を描いた言語学者であるが、当時は満鉄総裁の特別秘書として天津・奉天で活動しながら、“奉天王”に成長しつつある張作霖に取り入っていた。

 大正2年、大総統・袁世凱が重要文物の北京回送令を各地に発し、奉天からも奉天故宮所蔵品を送るが、郊外の北陵に秘蔵されていた愛親覚羅家の秘宝〔奉天秘宝〕は対象とならなかった。清朝宝物に関する所有権の議論は、溥儀が紫禁城を追われた後の大正13年に始まるもので、この当時は所有権の所在が明白でなかったこともある。張作霖はしかし、大正3年から6年にかけ、自らの軍権拡張に合わせ、徐々に奉天秘宝を盗み出し、それを上田が手伝ったのであった。奉天秘宝の精髄は、明朝皇室が蒐集し清室が引き継いだ支那歴代の古陶磁で、「それを列強に知れぬよう、極秘裏に紀州徳川家に買わせて張作霖の軍資金にせよ」との上原の秘密指令を受けた貴志と上田の苦心により、大正13年に至って750万円で納品することが出来たが、これは余談。

 大正15年、帝国議会がシベリア砂金問題を論じた時、田中義一を激しく責めた中野正剛の背後には上原がいた。軍人政治家上原は、自身が政府に入らずとも、秘密配下の中野正剛1人を使い、議会を通じて政府を牽制していた。周蔵は、中野が病気のために棄てたタキという女を私娼窟から救い、奥多摩の寺で療養させた。病気が回復して容色がさらに増した女を、再び中野に会わせると、中野はまた手を出した。今度はタキの生活費は周蔵が負担してやった。

 昭和2年10月6日条に「張作霖ヲ弾カフ トヰフ話ガ 田中ノ方ニハアル トヰフコトヲ 自分ハ耳二 入レテヰル。タダシ、アテニナラナヒ」と記した周蔵は、その時は本気にしていなかった。ところが昭和3年6月、張作霖死亡を聞き、

 「自分ハ去年ノ内二 張作霖始末ノコト 中野ノ女カラ拾ツタ。一應ハ 種元ヲアカサヅ、張作霖始末ノ噂アリト 閣下ニハ出シタ・・・ソノ女ノ情報ダカラ、自分モ信用デキナカツタ。私娼窟クヅレノ女ダシ 所詮ハ 自分コトハ裏切ルダラフ ト思ツテヰタ。然シ 女ノ云フ通リデアツタ」と、情報源がタキであったことを記した。記載は続く。
 「関東軍ガヤル。関東軍ノ中ニ ヤル人間ガ誰カ トナルト カハモトダ ト云ツタ。何故、中野ガ女ニ ソレヲ云ツタカ。デアル。中野ハ ソレヲ知ツテヰル。ソレハ 閣下モ知ツテヰルトヰフコトダ」と断定する。
 

 この次が重要である。

 「女ノ云フニハ 田中義一ハ 蒋介石ト 交換条件ニテ決メタ ト云フ。張作霖ガ ヲラナクナレバ、満洲ヲ 思ヒノママニサセル ト云フコトダラフ」
 
 
 青山会談は11月5日だが、『周蔵手記』の日付は10月6日である。この前後矛盾は、2通りの解釈ができる。1つは、周蔵自身が何度も言うように、スパイの日誌は日付をわざと変えるのが常道だから、真正日付は11月6日つまり青山会談の翌日と解すること。第2は、青山会談に先立って、張群あたりが前月から根回しをし、田中の内諾を得ていたもので、会談は最終的確認の場面であったと解すること、である。

 いずれにせよ、上原と中野は、田中が蒋介石の提案を受けて張殺害計画を決めたことを会談直後から知っていた。実行役が河本大佐ということまで、早くも決まっていた。通訳の佐藤少将が会談の真相を上原に報告し、上原が腹心の中野正剛に伝え、中野が愛人に洩らしたものだろうか。

 明治末期、陸軍の長州閥支配を打破すべく、田中義一と宇垣一成が上原を担ぎ出し、それが成功して大正陸軍は上原が支配する所となるが、やがて上原九州閥と田中-宇垣との間に対立が生まれ、上原はホルワット政権から引き継いだシベリア砂金を利用して田中を陥れる。中野正剛が議会で田中を攻撃した陸軍機密費事件である。張作霖暗殺も、田中の知らぬ高所で上原が糸を引き、田中を陥れたとみるべきで、ソ連関与はあり得ない。

 だが、すべてワンワールドの企画であった可能性はある。大正14年、張作霖に反乱し日本軍に鎮定された郭松齢の背後には作霖の長男学良がいた。ワンワールドのプリンス張学良は、父殺しさえ辞さなかったのだが、上原配下の伊達順之助により郭が早々に口封じされ、学良の秘密は守られた。その学良と親しく、献金を受けていたのが中野正剛である。

 上原の命を受けて張作霖と友誼を深め、奉天秘宝の換金に成功した貴志が大正13年田中-宇垣に疎まれて予備役に編入された後、黒竜江省に隠匿されたシベリア金塊を張作霖の軍資金にすべく回収に努めていたその矢先の暗殺であった。張作霖を一方で懇親させながら、他方で殺させる上原に絶望した貴志中将は、以後乃木大将のことしか語らなくなった、と周蔵は記している。
 
 

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