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 ●疑史(19回) 張作霖・殺害の真相
 ●疑史(19回) 張作霖・殺害の真相 

 本誌先月号(*『月刊日本』2006年3月号)に旧知の宮崎正弘氏が「ブッシュ大統領の愛読書『マオ』を紹介された。アイリス・チャンの『レイプ・オブ・南京』と同様、反日性を秘めたものだが、大変なベストセラーという。宮崎氏は著者を、日本文化について無知と評されるが、そもそも支那文化人の反日性は中華文明と日本思想の構造的対立を反映したもので、日本に対して意図的に無関心なのであって、理解を進める手だてもない。しかし、このまま放置すると『レイプ・オブ・南京』のように、ベストセラーに乗じて誤った日本像が英語圈に流れてしまい、困ったことになる。有志は各自の分野で直ちに反駁し、以てこのような害書を弾劾すべきであろう。

 同著は、何気なく挿入された逸話の形で「張作霖爆破は日本軍ではなく、ソ連の陰謀であった」との説を出す。根拠は 『遼源日報』2005年1月20日、同2月6日号の「天も驚く大ニュース、ソ連の特務機関が張作霖を爆殺した」という記事で、内容はソ連の歴史学者プロパオロフの「張作霖元帥の死に関する文献」の紹介だが、「暗殺はソ連特務機関がやった」との趣旨にわが愛国者の一部から歓声が聞こえる。

 邦人の対中贖罪感の根拠は大半が誤り、ということは本紙の従来説く処であるが、張作霖事件は正にその典型で、そもそも事件背景の解釈を大きく誤っておるのに、学者、マスコミ等が正そうとせず、誤った評価が内外に定着してしまったのである。故に、有志がその誤謬を訂正し、歴史評価の改定を内外に要求するのは正しい。しかし、その心の猛る余り、このような怪しいネタに飛びついてしまえば、例の永田議員の「堀江メール」と同様にならないか。

 以下に、張作霖暗殺事件の背景に関する私(落合)の説を掲げる。ご高承の通り、日清戦争は朝鮮半島の領有をめぐる両国の戦争であった。朝鮮王国の宗主国・大清帝国では、支配層満洲族の力が阿片戦争後急速に低下し、現実政治は漢族官僚の支配するところとなっていた。清国の隷属下にあった朝鮮王国が、新興日本と南下ロシアの双方から清国圈からの脱出を迫られるも自ら去就を決め得なかったのは、偏に国家指導者が年来の儒教思想から脱し得ず、人民の骨身にも事大主義の観念が滲み通っていたからである。結局、日・清・露の軋轢の中で、まず日清戦争が起こり、これに敗退した清国は世界史のA級リーグから降格されることとなる。ここまでは常識であるから、飛ばし読みなされても当然だが、それでは次の説はどうか。

 まず、日清戦争は誰と誰の戦いであったのか。当方にも勝海舟のごとく「支那を懲らしたのは誤りだった」との少数意見もあるが、まずはオール日本である。しかし、オール日本の相手はオール清国ではない。当時、清国の実権は李鴻章を頭とする漢人官僚に移っていた。満族では支那を統治できない時期が清朝史に到来していたのである。さらに世界史も中華文明では東アジアを統治できない段階に来た。それどころか、支那本土が西洋文明に蹂躙される近未来も見えた。

 八旗経営の力で自ら守るべくもなくば、軍備は所詮無駄である。西太后が北洋水軍の予算を造園に回したことを史筆は非難するが、これも右の心情のしからしむる所であろう。変法自強も洋務運動も、もはや漢人官僚の分野で、満族の出る幕はない。冷俐な西太后はそれを察し、支那本土の支配を投げ、北方民族の故地直隷省を緩衝地帯とし、満族を挙って満洲に引き上げる機会を窺っていたものと思う。日本が対ロシア緩衝地帯を確保するために戦った相手も、満洲皇室ではなく、清政権に寄生した漢人官僚であった。つまり、日清戦争は満洲皇室が日本にアジア統治のバトンを渡すための手段であった、という憶測である。

 西太后内心の満漢分離思想は、革命児孫文の悲願とも合致していた。孫文の目的は、満族を満洲に放逐し支那本土に漢族の自治権を取り戻すことにあり、三民主義の1たる民族主義は当初これを指していた。つまり、満族と孫文は、目的とする処が大筋で一致していた。孫文の首に懸賞を掛けた清朝政府の主体は、私利私欲しかない漢人官僚であった。

 日清戦後5年目の明治33年は北清事変の年だが、大変な節目であった。この年、堀川辰吉郎が孫文に伴われて紫禁城に入ったと聞く。清朝第1のお尋ね者の孫文が、玄洋社の支援を得ていたのは理解しえても、明治天皇の庶皇子・堀川辰吉郎が杉山茂丸とともに孫文を常時補佐していた事は何を意味するか。また、白面の青年孫文の面倒を見て1女まで与えた中山家は皇室を裏で支える中山大納言の系統であった。ここに皇室と愛視覚羅家と孫文の秘めた関係が窺える。

 日清戦後の清国を支配した李鴻章は、実に5百万両(現価8百億円位か)と言われる賄賂で、満洲(東3省)の実質的支配権をロシアに売り渡した。漢人官僚にとって、満洲など北狄盤踞の化外の地であり、台湾を日本に渡した時と同様、何の痛痒もなく、まして露帝は賄賂を呉れた。漢人官僚は満族の故地を勝手に売り飛ばしたのである。

 しかし満洲がロシアの手に渡ると日本は困る。日本は、南下するロシアに対し、満洲・蒙古・朝鮮を緩衝地帯にしたかった。朝鮮半島を確保するために日清戦争となったが、結果、却って満洲のロシア化が進んだ。次は満洲の緩衝地帯化のために日露戦争が避けられなかった所以である。

 右の状況を完全に理解した孫文は、革命に日本の協力を得る事が出来る、と踏んだ。満洲という極上の餌に日本が食いつくのは当然である。孫文は日本の革命支援に対し、満洲の譲与を秘かに交換条件にした。これは疑う必要のない黙契だったから、以後、わが玄洋社は孫文を支援すると同時に、積極的に満蒙に進出して行った。

 辛亥革命は明治44年に起こる。奉天では、緑林あがりの張作霖が東3省総督の親衛隊となって革命派を一掃して奉天省の軍権を掌握し、北京政権を握った袁世凱に対しても1歩も引かず、奉天軍閥を樹立した。大正に入って長州藩閥に代わり、陸軍の指導者となった上原勇作は、満洲を張作霖に間接支配せしめて、日露の緩衝地帯とするのが何よりの良策と考え、応援を惜しまなかった。そのため満洲では日本陸軍と張作霖の蜜月時代が続くが、折しも支那本土では軍閥の勢力均衡が崩れ始めた。北京では李鴻章に由来する北洋軍閥が袁世凱以来、トップを交替しながら北京政権を維持していたが、孫文系の南方革命派がしだいに勢いを増し、やがて蒋介石が国民党軍を率いて北伐を開始する。国民党の悲願は孫文革命の完遂つまり支那本土の統一で、そのために北洋軍閥の打倒が必要なのだが、当時の北京は奉天軍閥の張作霖が入って大元帥となり軍政を敷いていたから、北伐とは張作霖打倒と同義である。一方、国民党は当時、支那南部の統一さえ達成できていなかった。

 張作霖暗殺は、右の状況で生じたものである。昭和2(1927)年9月22日、南京と武漢(汪兆銘)の両政権が和睦し、国民革命軍総司令を下野した蒋介石は腹心の張群に世界旅行の計画と、最初に渡日することを告げたので、張群は一足先に日本へ行って根回しをした。まず10月3日、蒋が宋子文と同行して有馬温泉ホテルに行ったのは、宋美鈴との結婚を湯治中の彼女の母に認めてもらうためであった。宋家は孫文の興中会を資金援助してきたワンワールドの有力者である。要するに、この縁組を以て、蒋介石はワンワールドに正式に連なったのであった。

 張群に対し「今度の訪問で最も重要なのは田中との会談」と言っていた蒋は、11月5日午後1時半、東京青山の田中義一私邸を訪問し、会談2時間に及ぶ。日本側の通訳は佐藤安之助少将で、支那側は張群であった。田中は蒋に来日の抱負を聞く。

 国民党の公文書館には、蒋は「第1、日本は腐敗した軍閥を相手とせず国民党を相手とすべきである。第2、北伐に干渉するな。第3、日本は対中政策として武力を放棄し経済協力で行くべきだ」と主張した、とある。しかし、日本側も記録を残していた。田中が「支那の分裂状態からみて革命の実行は困難である。閣下は北伐を急がず南方の統一に専念したらどうか」と提案すると、蒋は「それはそうだが、北伐をしないと却って南方に過乱が起こる」として内部事情による北伐の緊急性を唱えた。さらに蒋は、張作霖の名を挙げ「中国で排日運動が起こっているのは、日本が張作霖を助けていると中国国民が思っているからだ」と主張した。

 日本側の記録も国民党の公文書もここで終わる。蒋は後に「日清戦争以来、日本と交渉したのは腐敗した軍閥官僚ばかりであった。田中も軍閥官僚に接する姿勢で私に接した」とし、「中国革命の目指す処、中国の統一」と言うと、田中の顔色が変わった、などとしている。

 しかし、これには飛んでもない裏面があり、恐ろしい秘密協定が秘められていたが、今月号では結論だけ述べる。

 要するに、田中義一・蒋介石は蒋側が望んだもので、目的は「満洲と北伐の交換」の申し出にあった。噛み砕いて言えば「張作霖を関東軍が始末してくれれば、当分は満洲の占領を日本に認めてもよい」とのオファーである。しかし、この事は到底公にするわけにはいかぬから、極秘協定となった。

 そもそも孫文の唱えた民族主義では、漢族は支那本土の統治権を確保すれば十分であった。民族主義というからにはそれが正しいのだが、いつの間にか「大中華民族」なる妖怪が登場してきた。漢・満・蔵・回・蒙の5大民族はみな同胞だとする発想で、馬と驢馬とラクダが同種類とするごとき非科学的発想である。しかし、孫文も「大中華民族」思想には対抗しえなかった。当時の世界政治は「民族自治」の流れのもとに、中世以来の大帝国が分割されて多数の民族国家が誕生したのに、支那だけは全く別で、歴史を逆流させたのだが、なぜこんなことになったのか、検証した者をまだ見ない。

 田中は日露戦争時、処刑寸前の張作霖の一命を救い、張の命の恩人とされてきた。張が満洲間接統治案のキイとして働いたことが、田中の出世を支えたとも言える。張作霖の暗殺は必ずしも愉快な選択ではなかったが、満蒙問題に肝胆を砕いていた田中は、当然これに飛びついた。

 張作霖暗殺の実行計画が練られ、実行指導者はカハモトという軍人と決まった。その詳細は次号に。

 

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