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●疑史 第17回 牛炭疸菌兵器の起源
 ●疑史(第17回) 牛炭疸菌兵器の起源 

 陸軍から僑日支那労動者の煽動者と目されていた留学生・王希天は、関東大震災直下の亀戸付近で陸軍中尉垣内八洲夫の軍刀により隻脚を失うが、一命を取り留め、憲兵大尉甘粕正彦の手配により、中野の上高田に運ばれて傷を癒した。そこは吉薗周蔵が大正6年9月以来、薬物研究のために借りた土地で、「上高田救命院」と称する小屋を設け、従兄の外科医・渡辺政雄を住まわせてケシ栽培を委託していた。傷ついた希天は、その小屋へ転がり込んだのである。

 政雄は京都の学生下宿で三高生・呉達閣および居候の周恩来と知り合い、大正6年秋、政雄を訪ねた周蔵に両人を紹介した。達閣、恩来に希天を加えた3人は天津の南開学校の同窓で、日本留学生の三羽烏であったが、恩来は東京高師の受験に失敗して帰国し、達閣は京都大学に進学した。一高から八高に転校した希天は秘かに上京し、神田の中華メソヂスト教会と四谷の帝国鍼灸学校を拠点に諜報活動をしていたが、大正10年、参考書を探しに行った政雄と四谷でばったり遭い、同年3月に達閣を伴って上高田救命院に政雄を訪ね、そこで周蔵とも再会した。以来、希天は時々上高田に政雄を訪ねては、ケシ栽培について助言していた。奇天が漢方に詳しかったのは周居應の偽名で学校を開いていたほどであるが、その知識の深さは尋常のものではなかった。

 周蔵手記の別紙記載の一つ「死牛肉毒ガス」と題したメモは、牛炭炭疸菌について記したもので、「大体ニオヒテ 王サンハ 何者デアルノカ。王サンハ、コフイフ事 何故コフモ アレコレト 知ッテヰルノカ」で始まる。希天の生家吉林省の王家は、張作霖家とは代々の交際といわれるが、薬物・毒物に関する秘伝を伝えた家系らしい。周蔵は、漢方知識の源泉を本人に質したが、「王サン日ク。『支那四千年ノ智恵ヲバカニシテ下サルナ』。三千年ト云ハル時モアル」という具合で、はぐらかされた。

 「王サンモ スッカリ渡邉ニナレテ 中野ノ教會ニモ 足ヲ向ケナクナッタ。コレハ 王サン自身デ作ラレタルモ サフナッタ」。薮の中の教命院に隠れ住んだ希天は、西新宿の渡邉産婆の娘のオールドミスに介抱されたのが縁で、親密な仲になり、渡邉姓を称して日本人に成り済ますと、上高田から遠からぬメソヂスト中野教會へも行かなくなった。この教会は希天自身が作ったようなものだが、足を向けなくなったのである。

 「手伝ヒノ女ノ クメナルガ死ンデ コレハ ココデヤルハマヅイ ト考フルニ 藤根サン 中野學校二話ヲツケ 王サンノ云ハレル研究ハ 中野學校デ ヤルコトトナル」。希天が実験を手伝わしていた地元の百姓女クメが死ぬ事故があり、周蔵の補佐役の藤根大庭が、こんな実験を上高田でやっていては拙いと考えた。希天は周蔵の管理下で牛炭疸菌を増殖していたが、誤って菌を吸い込んだクメが発病し、4日掛かって死んだので、今後を考えた藤根が陸軍に話をつけ、研究を“中野學校”内に移すことにしたのである。

 今日一般に知られる中野学校は、諜報戦の重要性に鑑みて陸軍省兵務局の秋草中佐・軍務局の岩畔(いわくろ)中佐を中心に昭和12年12月に立案され、同13年に設置された『後方勤務要員養成所』に始まり、秋草中佐が所長となり、同年7月に第1期学生19名が入所したが、中野学校の名称は秘密とされ表向きには「陸軍省通信研究所」と呼ばれた。これが正式に「陸軍中野学校」として開校するのは昭和14年のことである。つまり、周蔵日記にいう“中野學校”は、下記の記載から見て、それとは違い、昭和初頭には既に存在していた陸軍の極秘機関である。

 「藤根サンハ コフイフ時ハ 後藤新平二頼ムラシヒ」。
 本来上原元帥付特務である周蔵だが、東大教授・呉秀三からの依頼で生化学兵器研究の責任者を引き受けた。要するに、呉博士を介して間接的に命じられた任務で、実行班は希天が主で牧野三尹・藤根・布施一らが手伝ったが、実験に危険を感じた藤根は、作業を“中野學校”に移そうと考えた。こういう場合、藤根が後藤新平に頼むのは、
①藤根の郷里水沢の先輩であること、
②医療衛生行政の中心だった後藤が陸軍にもルートを持っていること、が理由と見られる。而して後藤の死去は昭和4年であるから、“中野學校”はそれ以前から存在していた極秘の施設とみるしかない。

 「自分ノ立場ハ 普通デアレバ 賓二難シヒガ 閣下ハ嫌ヒナ後藤デアッテモ 自分ガ 何力安心ヲマトフト 許サル。ソレダケガ(上原)閣下ノ良ヒトコロ カト思ユ」。

 複雑な立場の周蔵は、心境を吐露する。上原と後藤は基本的に対立関係で、特にアヘン事業に関しては、陸軍系と内務省系の両首脳として、敵対していた。今回は、藤根の発案にしても後藤ルートで陸軍と折衝するわけだから、その過程で研究の秘密が後藤側に漏れると、責任が周蔵に掛かって来ることもあり得る。しかし周蔵は上原の性格を見抜いていた。たとい敵対する後藤と接触しても、保全措置があれば諒としてくれる筈で、猪疑心の強い上原閣下もそれだけが美点であろうか、と思う。

 「自分ニハ 恐ロシヒホドデ 何モ分ラヌガ 王サンモ呉サンモ(タツカク) 牧野先生モ 正二真剣デアルニ 自分ハ 責任ヲ考フル」。

 細菌兵器なぞ恐ろしいだけで、究極の意義を解し得ない周蔵だが、王希天も呉達閣も牧野医師も正に真剣に取り組んでいるので、管理者としての自分の責任を痛感せざるを得ない。

 ここに、呉達閣の名が出て来て驚かされる。京大を当時は卒業していた筈の呉達閣は、上高田の救命院で牛炭疸菌の研究に加わっていたのである。片脚を犠牲に横死を偽装して、やっと「仲間」から脱出した筈の希天が、達閣とはその後も通じていたのだ。とすると希天は、達閣ばかりでなく、恩来に通じていたとしても不思議はない。つまり、さらに張学良を加えた南開四羽鳥の間に、希天の“偽死”後にも秘密の関係があったと観ることもできる。

 周蔵は生化学兵器研究の責任者となった経過を記す。
 「何ト云ッテモ 世間的二色々トアッテ 立場ヲ失ッテヲル 呉秀三先生ガ 『吉薗サン コレハ 血液分解ノ時ヨリ ズット貴重ナル 研究デアルシ 藤根サンガ 軍二力ヲ持ッテ居ラルル内ニ ヤッテ下サランカ』ト 丁重二云ハルル」。

 最大の要因は恩師呉秀三からの懇請であった。虎の門事件の★難波大助の精神鑑定に際して、陸軍筋の要求に背いたことで失脚した呉が、末弟子の周蔵に向かい、辞を低くして頼んできたからである。「血液分解の時」とは、周蔵が上原の命を受けて大正5年からウィーン大学のラントシユタィナー教授の研究室に潜入し血液型分離法を採ってきたことで、渡欧に先立ち上原の紹介で医学の特別講義をしてくれた呉が、周蔵には生涯の医学師匠であった。「藤根が陸軍に力を持っている内に」とは、本来上原配下の藤根が、郷党関係で後藤新平とも近く、陸軍にかなり顔が利くことを意味する。

 周蔵は事の重大さに、迷った。「コンナ怖ヒコトガ 貴重力否力 自分ニハ判ラヌガ 『敵國ガ コレヲ作リタレバ自國ニヲヒテハ ユユシキ事デアリ、毒ヲ制スルニハ マヅ毒ヲ作リ ソレヲ制スル薬ヲ 研究セネバ 事ハ前進セヌモノ』ト 呉先生ハ力説サル。ヨッテ 自分ガ腹ヲククレバ良シト判断ス。自分ニハ薬事モ医學モ 何ラ判ラヌガ コノ研究ノ責任者ニハ 成り得ル。何カノ時ハ 自分ガ全責任ヲトッテ 腹ヲ切レバ良シ、ト云フ意味ナノダ」。

 ★難波大助の「虎ノ門事件」を単なる精神異常者の行為(=天皇制打倒との思想とは無関係のもの)として処理しようとした軍部ほかの思惑に呉博士は従わず・・・。

 こんな恐ろしい研究が貴重と言えるかどうか、判断がつかない。しかし「敵国が炭疸菌兵器を作った場合には、やはり日本にとっては由々しきことであり、毒を制するにはまず毒を作り、それから毒を制する薬を研究するという手順でなければ、事は前進しない。まず毒を作るのが第一歩だ」と呉先生が力説されたので、要するに、自分が腹を括れば良かろうと周蔵は決心した。事が表面化して問題となった時は、自分一人の責任にして服罪すれば良い、という意味である。

 「藤根サンカラ 閣下二 イチイチ 報告二行ッテホシカ、ト云ハルカラ 逐一 報告ニ行ッテヲルガ ダフヤラ コレハ閣下ガ裏デ 軍ノ協カヲ 導ヒテヲルヤフダ」。

 藤根から「上原閣下には一々報告しておいてくれ」と頼まれた周蔵は、逐一報告に行く内に、これは上原が裏で陸軍側を協力するよう動かしている、と覚った。
 「ソノコト コノ年ハ ヨク考フルコト デキタル。昭和四年末」とは意味深長な末文である。上原と後藤は、互いに相手が大嫌いなように世間的に振る舞うが、奥底では協力関係にあった。その事をこの年(昭和4年)になってようやく覚った、という意味であろう。日本陸軍の牛炭疸菌研究は、呉秀三が発案し周蔵に推進を委任し、実行には王奇天と渡辺政雄が当たり、大正12年から上高田の薮の中で始まった。

 菌の培養過程で死人が出たため、藤根が反上原の後藤新平を通じて陸軍の協力を取り付けるが、陸軍側でも上原元帥が秘かに研究協力の後押しをしていたのである。

 呉秀三が首謀者のようだが、実際の中心人物は王希天で、そもそも奇天の知識により牛炭疸菌に着目したのである。大正9年、漢方知識を求めていた周蔵に、呉秀三が紹介した帝国漢方針灸医学校の校長周居應こそ希天の変名で、奇天は呉秀三の弟子・額田兄弟の女子医専設立計画にも深く関与していた。日本医学会の最高峰・呉秀三は一介の留学生の漢方知識にことほど敬服していたのである。

 以上からして、上原勇作-呉秀三-王希天の間に密接な関係が窺われる。希天が関東大震災を利用して横死を演出した目的は「仲間」からの足抜けとされるが、その後も呉秀三に繋がっていたのは明らかである。ということは、呉の背後の上原にも(当然甘粕にも)繋がっていたことになる。しかし、周蔵に「(上原)閣下と甘粕さんはユダヤに加わっている」と指摘した口吻からすると、希天当人はワンワールド仲間から脱退した心境らしい。

 恩来、希天の南開学校以来の親友・呉達閣が上高田の実験に参加、陸軍の極秘研究に支那留学生、しかも後の国民党幹部が参加していたとは驚きである。日本陸軍の生化学兵器の研究は、間接的にせよ、ワンワールドの命令ではなかったか?

 疑史 第17回 牛炭疸菌兵器の起源  <了>

 

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