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 ●『聞書・庶民烈伝』 竹中労
 ●『聞書・庶民烈伝』が三一書房から復刻されたのを機に読み直してみた。

「今この人あれば」という思いを強くするのは私だけだろうか。
 以下に紹介する章は、三一書房版では未刊(下巻に収録予定)だが、潮書房版・第3巻から紹介します。(雑誌『潮』1984年2月号~1985年3月号) 

 ●第六章 誰そ我に、ピストルにても撃てよかし


 断片的な回想(石井八重子さん・聞書)―房総・大東海岸のお宅にて―

 新聞5つもとってるの、テレビもよく見るんですよ。せんだっても石川啄木、なつかしくて泣いたわ。小奴さん富山の養老院で亡くなったんでしょ。あの方は釧路で、大きな大きな旅館のおかみさんやってたのよ。北海道にゆくと、かならず小奴さんのとこに泊って、オノロケを聞きました。昔は芸者さんだから、長いおべべを着て色っぽい人。弟が株で失敗をして旅館をとられちゃって、晩年は惨めだったの。6畳1間に寝たっきり、五千円札が丁度出たとき、お見舞いにいって1枚だけ、お布団の下に置いてきたんです。私ってケチ、2枚も3枚も持っていたのに全部上げなかった。

 ええ、丈夫なときには啄木とのことをそれは事こまかに、女同士でしょ遠慮がないのよ。旦那に京都見物をねだって、本心は彼に会いたくって、東京に着くとその足で、三越で買いものするからって下宿へまっすぐ・・・

 竹中・註:明治41年5月、函館から上京した啄木は、与謝野鉄幹・晶子夫婦を頼る。『明星』は凋落し、詩壇は新たな星座を軸に回転する。森鴎外の知己を得、北原白秋・木下杢太郎・吉井勇・平野万里とまじわり、『スバル』を創刊したが収入皆無。
 旧友・金田一京助の止宿先、本郷「赤心館」に同居、間代不払い追われて9月、「蓋平舘」に移った。『日記』によれば小奴がたずねてきたのは、12月1日のことである。つかのまの逢瀬、旦那である逸見豊之輔の妾になれとすすめて同月7日夜、啄木は小奴と別れた。〔イキな染分けのお召、悲しき身の上の相談、言いがたき哀愁を抱いて、1人電車で帰る〕

 本郷の下宿で、2人で抱きあっているところへ、金田一さんが障子をガラアとあけちゃったんですって。間が悪いってなかったわ、そんな内証の話をするの。みんな死んじゃったわね、生きてらっしゃるのは佐々木孝丸さんぐらい。小生(こいけ)夢坊先生はお元気? たしか、私とおない齢、かぞえで90だもの。そう、明治30年うまれ。いいあんばいに頭はボケてないの、記憶がしっかりしている間に、話を聞きにいらしてね。

 浅草は、もうお見限りかしら? まあしょっちゅういらっしゃる、感心だこと。毎月8日に出かけていくのよ、仲見世の「今半」。昔のファンの方だちとシャブシャブをいただいてから、漠★の記念碑にお参りをするの。
 ★ 石井漠=八重子さんの夫君、日本現代舞踊の創始者・浅草寺の境内に碑が建っている。

 谷崎潤一郎さんが、「山に登る」って題字を書いてくださったでしょ。谷崎さんは私のごひいきで、たしか大正9年に芥川龍之介さんとご一緒に中国へ旅行して、おみやげに毛皮をいただいたの、それは豪奢な栗色のリス。オーバーに仕立てて、滅多に着ないで頬ずりしてたのよ。それがあなた、漠が洋行するときにお金が足りなくなって、質屋に入れちゃったの(笑)、大震災で店もろとも灰サヨナラ。

 漠って人はお金のこと全然ダメ、私もそう。無一文で、ヨーロッパヘゆこうと思い立ったらもう、矢も楯もないのね。費用を出してくださったのは、「日本館オペラ」の根岸寛一さんです。日活多摩川の撮影所長になって、満映で甘粕大尉の片腕だった人。そうそう「木馬館」、いまの方は甥に当るんでしょ。亡くなったの、まあ! まだお若いのに可哀そう、あなたも気をつけなくちゃダメ、働きすぎがいちばんいけないのよ。

 ごめんなさい、とりとめなくて。頭の中にわっと、いろんな人が出てくるの。明治38年から話さなくっちゃ、私が9つのときね、日比谷で焼打ちがあって大騒ぎ。そのとき、私の家も火をもらっちゃったの。日本堤の警察署が焼かれて、その隣がうちでしょ。忘れもしない9月の6日、<戒厳令>の夜。6つの弟の手をひいて、吉原土手をいったりきたり。ええ、この弟が大場勇。「聞け万国の労働者」ってメーデー歌をつくったの、ご存じなのねうれしい。

 社会主義なんです、下町は。うまれは根岸、父親が神田の郵便局長から仙台に転勤して、みじかいあいだ東京を離れていましたけど、生粋の江戸っ子。その父親が病気で倒れて貧乏のどん底、小学校には4年まで。根岸にいたころは乳母日傘(おんばひがさ)、孫文・タゴール・金玉均、亡命してきた革命家をかくまったりしたんです。国士というのね、祖父はそういう人でした。ものごころついたときは、没落して塾を開いてました。小学校は東盛、貧民街の子供たちを集めて特殊教育。大正になって牧口常三郎という校長先生、『潮』を読んでびっくりしたの、創価学会を始めた人なのね。有名だったんですよ、下町の聖者みたいな人格者で。
 
吉原の手前でしょ、きれいな芸者衆やお女郎が人力車で通るのよね、お女郎になりたくって(笑)。男の子は鼻タレ小僧、貧乏な家が多いから夜間もあって、欠食児童っていうのね、お弁当持ってこられない子たちもずいぶんいたのよ。

 お女郎にはなれなくて印刷局、いまの造幣局ですね。お札をつくる女工さんになったの、神田堤の郵便局の前を通って三菱ヶ原と言いましたけど、てくてくと歩いてくんです。1時間もかかる道を。工場に入るときは真っ裸になって、中で作業服に着かえるの。帰るときにもまたはだか、1尺ぐらいの棒をまたぐのよ。お札を股にはさんでたら落っこちるからなのね。恥ずかしいより口借しくて、火をつけてやりたいくらい。外に出ると、神田堤の下の大根河岸は浮浪者がいっぱい。日露戦争のあとで、世の中はもうひどい不景気、札束を1つ投げてあげたらなあと、こんどは女賊にあこがれたり(爆笑)。

 ほんと、夢多き少女時代。三菱ヶ原で四つ葉のクローバーを摘んだり、日比谷公園を散歩したり。美人だったのよ私、ジョーゼットの白い肩掛けを、春の風になびかせて。そしたら声をかけられて、「貸してくれませんか?」って、それが石井漠だったの。帝劇の洋舞第1期生、古典バレエに疑問をいだいて、山田耕筰さんのところで、創作舞踊詩に熱中していたんです。それで発表会、ええ『牧羊神(パン)と水の精(ニンフ)』。あなたはツーと言えばカーだわね、よくご存じ。北原白秋さんや木下杢大郎さんが、「パンの会」をつくったころです。そう明治42年(41年結成)、ニンフのかぶる被衣(かつぎ)にちようどいいからって。ぶきっちょな感じの人なの、ところが舞台を見て2度びっくり、ああこの人は天才なんだって。運命の糸、がそれでつながったの、50年も一緒に暮すことになろうとは思わなかったけど。

 ・・・ああ、忘れていたわ。『明暗』が朝日新聞に連載されて、私が挿絵のモデルに頼まれたの。画家は橋口五葉さん、そのころ夏目漱石ってそんな偉い人と知らなかったのね。五葉さんのアトリエにいらして、お茶を飲んだあとご自分で茶碗を洗うんです、私のもついでに。へえ! この人が帝大の先生、なんて思っていたらまあ、どんどん文豪になっちゃった。私って幸せ、みんなに可愛がってもらったの。

 ついでにモデルまで有名になって、時事新報の記者が取材にきました。邦枝完二、あなたのお父様(竹中英太郎)が挿絵を描いていらっしゃるでしょ(註・竹中英太郎、昭和初年の流行画家)。そう、『女学生殺し』。まだ小説家になる前のことで月給25円、それで結婚を申しこまれたの。押しの一手、毎日くるんです。漠とは初恋プラトニック・ラブ。邦枝とついに結婚しちゃった。かぞえで17、大正と年号があらたまる直前ね、文金高島田でポー(笑)。

 邦枝のうちは、宮中のお籠やら馬車を造ってるの。朝から晩までお掃除、私はだらしがなくて、ちらかっていないと落ちつかない。社会主義の気もあるし、家事労働を軽蔑してる。最低のお嫁さんね、むこうは出てゆけよがし、こちらも毎日ツマンナイ。とどのつまりは『人形の家』、新聞で漠が帝劇をとび出して、山田耕筰さんと鶴見の花月園で野外舞踊をやっているという記事を見ました。今はこんなおばァちゃんだけど、若いころはむこうみずのお八重ってくらいのものよ(笑)、すぐ見に行っちゃって、あす京都へ発つんだと言われて、私もついていくわ。冗談だと思ったんでしょうね、「ああ構わないよ」。

 で、翌日の列車に小さい風呂敷包みを1つかかえて、乗りこんでしまったの。


 ★甘粕大尉と辻潤のこと


 京都駅に着いたら、竹久夢二さんが迎えに来ていたわ。籍は入ってなかったけど、私は夫を裏切って<不倫>をおかしているご身分(笑)。漠が夢二さんにたのんで、君の女友達ということにして楽屋に一緒に出入りしてくれ。邦枝のとこは、本人はともかく両親はせいせいしたんでしょ、それっきり何も言ってこない。漠と正式に結婚をして、「日本館オペラ」の旗上げ、これはもう大正6年ね。

 宮本三郎さんが看板を描いて、『女軍出征』『カフェーの夜』、大入り満員。島村抱月先生も、お須磨さん(松井須磨子)も来てくださって、ぺんぺん草ぬくのを手伝ったり、ほんと日本館にはぺんぺん草が生えていたのよ。漠の名前をもじって、獏与太平なんて人もいて。そう、古海卓二さん。『トスキアナ』というオペラをつくったの、ひっくりかえすとアナキスト(笑)。♪島へおいでよ、戦争なんかありませんから・・・

 楽屋に文士たちがいつも遊びにきてたわ、徳田秋声さん・有島武郎さん・大杉栄さん。大杉さんはその筋の要注意人物で尾行がついてくるのよ、3人も4人もでしょ。「タバコ買ってきたまえ」なんて、全然へっちゃら。「舞台労働者だよ、つまり諸君は!」と言うのね。漠はとってもその言葉が気に入っちゃって、無政府主義にかぶれたの。そう、高田保っちゃん。今東光さんや東郷青児さんもアナキスト、ペラゴロの親分格で家に居候をしていました。みんな、太杉びいきでした。東海林太郎さんもそうよ、早稲田の学生だったんです。

 そのころうちは松葉町で、梁山泊みたいだったのね。だって月給が千円ですもの、いまだったら何百万円。居候がごろごろ、私はお料理も不得手だから、大きなお鍋持っておでん買いにいくんです。居候がアネサンって私を呼ぶの、もうまるでやくざの1家(笑)。20すぎたばかりでし。こっちも、アイョおでん食いな、片っ端から使っちゃう。それで、洋行のときに1文無し。

 大杉さんを殺したのは、甘柏大尉だと言うけれど、私は信じられない。だって根岸寛一さんは大杉さんのお友だちよ、それもただの関係じゃなくて、足を突っこんでいたの運動にも。その大杉さんを殺した甘粕大尉の満映で一緒にお仕事をするなんて、変だと思わない? 私、霊感があるんですよ。一眼みればこの人は無罪か、有罪かわかるんです。あなたも力を入れてらっしゃる平沢貞通さん、あの人は絶対に無実! 刑務所に何度も面会に行ったけど、ウナ丼を食べたいと言うの。それで蒲焼をビニール袋にかくして持ってっては、食べさせてあげたの。

 それが見つかったのよ、「あなた様が面会の折に、医療上禁じられている鰻の蒲焼を、職員の隙を見て本人に手渡した行為はまことに遣憾であります」。注意書きをいただいちゃって、もう会わせてくれないの(爆笑)。

 ええと何の話だったっけ、そうそう甘粕大尉のこと。震災のあとで私たちは目黒の郊外に引っこして、「自由ヶ丘」と名づけたんです。石川達三さん・小糸源太郎さん・石坂洋次郎さん、根岸寛一さんもいらしたし、漠が初代村長です。三島由紀夫さんもあとからいらしたんだけど、石川さんが仲間に絶対に入れないとおっしゃるの、右翼だから。右翼と言えば、児玉誉士夫さんだって住んでいたのよ自由ヶ丘に。石川さんは硬すぎるわね、ゆうずうのきかない人。

 あれは昭和7年だったかな、パリでルンペンやってた辻潤さん、伊藤野枝さんのもとのご主人が強制送還されて、自由ヶ丘を徘徊してたの(笑)、ボロを着て尺八1本持って、垢だらけで臭いのぷんぷんと。もう、神経が侵されちゃって。ぬっと上りこんで家中さがして、お酒をみんな呑んじゃうのよ。北原白秋さんが亡くなる少し前、もう何を食べても飲んでもよいとお医者さんがおっしゃったので、少し残っていたイチゴ酒をさしあげたんですけれど、これもほとんど辻さんの胃袋に消えちゃったの。小さな行李を一つ、後生大事にあずかってくれって。中身は野枝さんの形見の品々だって言うの、戦災で焼けちゃったけど何が入ってたのかしら。

 ・・・根岸さんの紹介で、甘粕大尉がうちに見えたんです。満映の大スター李香蘭(リシャンラン、りこうらん)、山口淑子さんねいまの、舞踊を教授してもらえないかって。そこへ辻さんが例によって、お酒をさがしに入ってきたの。バッタリ顔をあわせちゃって、冷やッとしたわ。だって、野枝さんを殺したのも甘粕大尉ということになってる、困ったどうしよう! さいわい気づかないで、「や」とか何とか言って、辻さんは出ていったの。そのとき甘粕大尉の方は、わかっていたんじゃないかしら、なんとも言えず淋しい眼をして見送ってたわ。

 あれは、大杉さんや野枝さんを殺した人の眼じゃない。あなた、どうお思いになる?
何もかもきのうのことのよう、うんとおしゃべりしたい、明治のことも大正のことも、昭和だって戦前は誤ってつたえられているでしょ。石井漠は戦争に協力したとか、戦犯の慰問に行って批判されたり。そうよ戦後だって、書かれたことは間ちがいだらけなんですよ。木村梢ちゃん、邦枝の私のあとの奥さんの娘ね、<伝記>を書いてくれるって。いいの遠慮しなくっても、あなたはあなたで、私のことよく知っているんだから。
 左翼なんでしょあなたまだ(笑)、アラブに行ってきたんですって? 重信房子さんと会ってきたのね。私、あの人好きよ。可愛いひと、そうお思いにならない? あらノー・コメント、女は苦手なの? ごめんなさい、話があっちこっちになって・・・

 漠さんが亡くなられて23年(昭和37年1月7日昇天)、週刊誌『女性自身』に追悼の小文を載せてからのおつきあい。童女のごときこの人に、私は憧憬に似た感情をいだく。さかのぼれば江戸川乱歩原作&石井漠主演『一寸法師』、直木三十五プロデュースによる連合映画芸術家協会制作の美術を、わが父・英太郎が手がけている。さて、明治も終りに近づいた。歴史を検証する旅の進路を変え、<植民地>について考えてみよう。

 たとえば、「日帝36年間」。朝鮮半島を侵掠し国家を奪い、暴政をほしいままにした。

 それが、原罪である。倭奴(ウエノム、日本人を蔑んでいう言葉)、反省せよ。あおいのご紋が眼に入らぬかー!ヘヘヘーッと、知識人はおそれいっちまう。水戸黄門の印籠じゃあるまいし、何で頭をさげにゃいかんの!? 一般大衆、すくなくとも戦後世代には理解のそとである。玄海灘には、どんな風が吹いているのか? 2つの民族を、加害と被害・隔意の対岸に立たせるバカヤロー(大島渚を私は断乎支持する)。差別再生産の構造は、両国人民のさらなる不幸を招き寄せる。

 外国人登録法指紋押捺の拒否を、<正当>であると私は思う。ただし、「日帝36年間」エキストラ・イニングスではなく、<管理されざる>個人の基本的な権利として。国家権力に収斂され外交手段にすりかえられる危惧を、指紋押捺拒否の民族的渦流に私はいだく。

 誤解のなきよう、戦前・戦中の<鮮人虐待>、現在も根深い差別を踏まえて、「日帝36年間」のこだわりを棄てようと言うのである。しばらく感情を排して、歴史を1局の棋のごとく見よう。

 台湾  35、904平方キロ/M28・日清戦争
 樺太  36、090平方キロ/M38・日露戦争
 朝鮮 220、788平方キロ/M43・日韓併合
  計  292、782平方キロ
 ・・・日清戦争時、大日本帝国の本土は約38万平方キロ。以降15年間に、その8割近い新領土を獲得した。さらに第一次世界大戦後(T9年)、南洋諸島をくわえる。満州&中国大陸と、版図を拡げていく布石は明治の中葉より置かれて半世紀、「大東亜共栄圈」=汎アジア制覇の最終局面で崩れ去った。

 日本及び日本人は、軍国主義・侵掠のけものみちを、単にゴリ押しに無反省に歩んできたのではない。だが1945・8・15、敗戦の時を境に歴史は書きかえられ、なべて戦前の体制は悪とされた。いわゆる「1億総ざんげ」、上つ方も下々も均しく共犯であるというロジック。裏がえせば、国民全体に失政のツケをまわすからくり。どこかで聞いたようなだって、寝ぼけちゃいけません。買弁(コンプラド-ル)・中曽根康弘、「経済摩擦の解消は国民のみなさん1人ひとりの責任で、百ドルずつのお恵みを」

  続く。
 

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この記事に対するコメント
竹中労の不在。
 FBI(笑)さん。
 いま竹中労健在ならば・・・どこにいるか?どこで発信しているか?
 何人の被害者がでているか?
 東電の大株主どもは、それに対してどう動くか?
 

【2011/04/19 06:01】 URL | ひろもと。 #- [ 編集]

「今この人あれば」

まったく同感です。
【2011/04/12 10:48】 URL | FBI(笑)Oh my Buddha! #e18eO3FY [ 編集]


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