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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(19)
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(19)
 ― 『宇都宮太郎日記』から起高作戦=高島鞆之助再起策を追う   
 


 ★「上原勇作大佐を訪れ起高談をなす」

 以下も『宇都宮日記』を観ていく。

 「2月19日、朝飯が終わったばかりの頃に、伊瀬地が来た。そこで自分は旅館を引き払い、伊瀬地の宿(石井旅館の別館)に行き、前日の談論を反復してその決心を確かめ、午後3時28分発の汽車で帰京した。2月20日役所(参謀本部)にて、高島を起こす必要を上原勇作と語るが、起高の決心はまだ本気では語らなかった。3月3日、高島子爵を訪ね、例の件に関し、大迫・西の両中将が今夜高島子爵を訪う由を聞く。3月6日の東京朝日に『サーベル党が大山もしくは大迫を排除せんとしつつあり』云々の記事あり。無関係のことながら伊瀬地に文書を送る。3月19日、上原大佐を訪れ起高談をなす」(要約)

 翌朝には伊瀬地の方から宇都宮を訪ねてきた。旅館をチェックアウトした宇都宮は、伊瀬地の泊まっている石井旅館に同行し、昨日の議論を反復して伊瀬地の決心を確かめた後、午後の汽車で帰京した。翌日参謀本部に出勤し、早速第三部長・上原勇作大佐(薩摩)と会い、高島を引っ張りだす必要を語るが、起高の決心はまだ明かさなかった。3月3日、高島子爵を訪ね、参謀次長・大迫中将と第二師団長・西中将が今夜、高島を訪れる由を聞く。19日、上原大佐を訪ねて起高論を交わす。

 肥前出身の宇都宮が起高作戦を持ちかけた相手は、薩摩の伊瀬地・上原であった。すでに高島本人と接触し始めたらしい大迫尚敏、浜寛二郎の両中将も薩摩である(「サーベル党」については長州人脈のことと思うが★、ここでは立ち入らない)。前述したように、上原勇作には叔母吉薗ギンヅルが組成した応援団が付いていて、団長格が高島、副団長格が樺山資紀であった。20年前、上原少尉は仏国留学を前にして熊本鎮台に司令官・高島少将を尋ね、また警視総監・樺山少将の代官山の別宅で歓送会を開いて貰ったのは、ワンワールドの本場に赴くに際しガイダンスを受けたのだが、右の関係を知る由もない宇都宮は、上司の上原大佐を起高作戦に巻き込もうとするものの、起高の決心を直ぐには上原に明かさない。素より起高作戦に異存はない上原だが、ワンワールド薩摩派の総長高島の後継第一候補として高島の実状を知っているから、宇都宮ほど単純ではない。

 その後の記載を追うと「4月6日、伊瀬地を訪う。4月8日、橋口勇馬と共に、其の叔父・樺山資紀伯爵の邸に行く」とある。橋口は明石元二郎と同じ士官生徒6期で当時少佐、宇都宮の1期上だが親友である。勇馬の父の薩摩藩土橋口伝蔵は、寺田屋事件で本藩の鎮撫使によって斬殺された。その弟が橋口覚之進すなわち時の文相・海相樺山資紀で、叔父に招かれた橋口は宇都宮を誘い、紀尾井町の樺山邸(現在の自民党本部)で鹿肉の御馳走になった。樺山資紀はワンワールド薩摩派の副長として陰で総長の高島を支えていたのだが、そんな関係を知る由もない宇都宮は、樺山の甥の橋口勇馬を巻き込んで、高島を参謀総長に担ごうとしていたのである。勇馬は明治40年大佐、大正3年に少将・歩兵第十三旅団長、同6年には待命となるが、日露戦争で満洲義軍を率いて後方撹乱に当たった。その時の配下が西南戦争の軍神・逸見十郎太の遺児・勇彦で、後に高島鞆之助と上原勇作の諜者となる。

 ★「政界同様陸軍でも薩人はまた長州人に圧倒された」

 『宇都宮曰記』は続けて言う。

「4月24曰、大迫中将(参謀次長)を訪ねる。陸軍部内に異動あり大迫中将も転出するので、自分がどうなるか聞いたら、米国大使館の件は取りやめとなり、英国大使館付に内定の旨、内命があった。4月25曰、予報  の通り更迭あり、大迫は第七師団長に転出し、寺内中将が交代に入り、
川上系軍人は敬遠・左遷されて、長州人が要部を独占するところとなった。政界と同様、陸軍でも薩摩人はまた長州人に圧倒された。薩長の消長は強いて問う所ではないが、陸軍の部に非戦主義者が跋扈するのは実に嘆ずべきである。軍備拡張の大精神を誰か支持できるだろうか・・・伊瀬地は中将になった」

 陸軍も政界と同様で、薩摩が凋落して長州が跋扈すると宇都宮は嘆く。すべては前年5月11曰に参謀総長・川上操六が53歳で急死したことから始まった。川上は弘化4年(1847)生まれで、戊辰戦争に従軍したが、明治4年の御親兵募集に応じ初任中尉、西南戦争の戦功で11年中佐、15年大佐に進級、18年少将、23年中将、26年参謀次長に就き、征清総督府参謀長として曰清戦争を指揮した。桂太郎は川上の誕生の17曰後に、萩藩の馬回り役120石の家に生まれ、戊辰の戦功で賞典禄250石を受けた。ドイツに留学し、6年に帰国して陸軍に入った際、賞典禄では佐官級だが、陸軍人事の新規則に従い初任大尉に甘んじた。川上と桂は典型的な好敵手で、佐官時代からまったく同曰に昇進し、31年1月の伊藤内閣で川上が参謀総長、桂が陸軍大臣に就いた。一致協力して対露戦に当たることになった2人は9月に揃って大将に進級したが、川上が急死したので陸軍内のバランスが崩れた。長州派が優勢となった以上、陸軍内部が非戦主義に傾くのは必至と観られていたが、早くも4月25曰付の人事異動でその答えが出た。この人事を予想した宇都宮が、此れに先立ち起高作戦を開始したのは、軍拡派が失った均衡を回復するには、大西郷の後継と目された高島中将を担ぐしかないと考えたからである。この感覚は、高島に軍歴以上の隠然たる権威を感じ取っている点で半ば当たっているが、反面、高島が参謀総長に専念するのを許されぬ政治性本位の<薩摩総長>に就いたことに気付かぬ点で、半ば失しているとも言える。

 さらに『宇都宮曰記』を読み、起高作戦に関する事項を拾うと、
 「5月6曰、上原大佐が来り、去る25曰の人事異動を評して、将来の方針を協議した。5月15曰、伊瀬地に電話で呼ばれ、上原大佐も同席にて将来を談じた。自分の意見としては、同志の勢力集中を必要とし、そのためには同志を東京に招致することを述べた。5月16曰、伊瀬地の赴任(熊本第六師団長)を新橋駅に見送り、橋口勇馬の来宅を待つ。5月17曰、橋口が清国公使館付武官として出立するのを新橋駅に見送る。5月19日、高島子爵を訪い将来を談じ、大迫前参謀次長が札幌第七師団長に赴任するのを上野停車場に見送る。5月25日、高島子爵を訪う」

 ここまでの記事は起高作戦が主だが、5月28日条に<清国暴徒義和団なるもの>が暴動を起こしたと記した以後、義和団関係の記事が増える。起高関連の記事は「6月13日、予倉と共に高島子爵を訪うも不在」と記すのみで、以後は伊瀬地中将との書信往復を記載する以外は「7月3日、夜に入り上原勇作を往訪す」とあるだけである。宇都宮が立案した北清事変の作戦計画を携えた参謀次長・寺内正毅が、列国の先任指揮官と協議のため清国に出張することとなり、宇都宮は鋳方と共に随行を命じられた。
ここで『宇都宮日記』明治33年の条は途絶え、起高作戦の顛末は結局判らないまま、宇都宮が34年1月15日付を以て駐英公使館附に補されて英国に赴任することを記す。起高作戦に奔走した者で、大迫・伊瀬地の中将クラスは師団長として遠方へ移され、橋口勇馬と宇都宮は外国へ飛ばされ、参謀本部に残ったのはただ1人上原勇作大佐だけとなった。

 ★台湾政策に陰で辣腕を振るった高島鞆之助

 高島も青年将校に担がれて満更でなく、「自分に於ては何時にても出づるの意なきにあらざる旨」を宇都宮に語ったが、真意は「国家の危急は砂糖・樟脳・アヘンに優先するから、参謀総長を受ける気はある」というだけのことで、結局は参謀総長にならなかった。私見であるが、25年8月の陸相辞任後の3年間、高島は枢密顧問官の閑職にいながら、秘かに吉井友実が育てたワンワールド薩摩派の事業を引継いでいた。それは台湾産業に関わる事業であった。28年8月、樺山から台湾副総督を嘱されると之れを快諾したのは、薩摩派の事業よりも日本の台湾領有を優先したのである。高島は進んで拓殖務相に就き、台湾総督府を督励して台湾基本政策を確立したが、その後陸相に再任した時は、もはや陸軍よりも台湾政策に軸足を置いていた。桂の策謀で陸軍を追われた31年1月からの2年間は、雌伏を装いながら、日高尚剛・吉薗ギンヅルと組んで砂糖・樟脳など台湾に関するる事業を掌握したのである。樺山が台湾総督を辞めた29年6月以後、2代総督・桂太郎(10月まで)から、3代・乃木(31年2月まで)、4代・児玉源太郎(39年4月まで)と、10年にわたり長州軍人が総督の座を占めたが、玄洋社を看板にした杉山茂丸は彼らを積極的に操作し、また伊藤博文・井上馨にも接近して、歴代総督に高島の建てた台湾産業基本政策を踏襲せしめた。なかでも乃木希典は第四師団以来高島の隠れた腹心となり、結婚の仲人も高島夫妻に頼んだほどで、その台湾政策は高島の意向を完全に反映していた。高島はまた、日高が糸を引く鈴木商店の金子直吉に命じて、長州派の領袖・曽根荒助と近かった藤田謙一を引き抜き、意のままに働かせた。藤田ほどの大物を易々と取り込んだ薩摩の潜在的勢力は、桂太郎やその周辺の長州人の比ではなかったと思える。

 軍人と言えば俸給を目的とする職業人の意味だが、武人とは天職の謂である。蓋し「武」の本義は避戦を意味し、一命を捨てても平和をもたらすのが武人の本懐である。宇都宮や橋口有馬は、世界情勢を分析した結果、もはやロシア帝国との大決戦を避け得ないと考え、軍拡の実行を高島の政治力に期したのである。その使命感を、「現世的利欲に狂った軍人的思考」と戦後文化人が罵るのは間違いである。当時の日本を帝国主義段階と規定した以上、国家指導者をすべて侵略主義者と見做さざるを得ないマルクス史観に従うだけの浅薄な臆断に過ぎない。因みに、宇都宮太郎はその後、陸軍長州閥を掣肘するために上原陸軍大臣の実現に奔走し、陸軍上原閥の大番頭になり、陸軍大将に昇った。その子・宇都宮徳馬は、戦後参院議員となり、日中友好を唱える平和主義的政治家として鳴らしたが、その政治資金はすべて、上原の草だった吉薗周蔵が創業した阿久津製薬(後にミノファーゲン製薬)の利益が充てられたのである。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(19)  <了>

 ★「サーベル党については長州人脈のことと思うが・・・」とあるが、3月6日の東京朝日の
  記事↓からする限り、対露強硬派のことで、長州人脈とはいえない。
 

  参考までに『陸軍大将・宇都宮太郎日記』よりの重引で(P、9)、
  『東京朝日新聞』の記事を紹介しておきます。   
 

 ★『東京朝日新聞』 1900年3月6日

 「サーベル党の厄鬼」。

 日清戦役を距ること既に五年、戦争熱の冷却するに従ふて世間漸く軍備過大の拡張を悔い、甚だしきは藩閥の元老にして今日の経済上の惨状は所謂戦後経営の結果なる如く論議する者あるに至りたれば、参謀本部のサーベル党は大に驚き、此気運を挽回し再び我々の世の中と為すには某強国との間に遠からず妖雲の靉靉くことあるが如き形勢を示すの外なしと案出し、既に一旦馬山浦問題に付て故らに強行の手段を執りたれど、何分にも現任大山総長にてはテキパキしたる仕事も出来ず、叉大迫次長も珍らしき結構人なれば、熟れも故川上総長の昔を思ひ、昨今総長次長の中責めて一人を更迭せしめんとの運動を始めたりと云ふ。

 『陸軍大将・宇都宮太郎日記』 (岩波書店 2007・4・5) 
 

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