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● 『秘境西域8年の潜行 抄』 
● 近刊・『私は外務省の傭われスパイだった』・原博文著 を読みながら、

 思いはしばしば『秘境西域八年の潜行』に記された<苦闘>へ跳んだ。

 日中戦争のさなか、軍の密命をおび、内蒙古、青海、チベットなど西域地区に潜入した

 外務省の1調査官ー西川一美。

 祖国敗戦後も孤立無援のままラマ僧の修業を続け、未踏の秘境を足かけ8年にわたり

 遍歴した想像を絶する体験記である。

 昭和11(1936)年春、修猷館中学(例の『七つの金印』のあの福岡の藩校の後身)を

 卒業し、あこがれの<大満鉄>に入社、日中戦争勃発(1937年)と共に第一線の天津、

 北京、包頭に派遣され、昭和15年には大同(内蒙古)の華北消費生計所長のポストに

 ついた西川氏。

 しかし、「戦場の後方」での安穏な生活と学閥(満鉄内の)にたいする抵抗も手伝って、

 「一大方向転換」をした。

 外務省のシナ西北地域に挺身する若人を養成する興亜義塾(厚和)に応募して合格。

 25人の同期の同志と共にシナ西北地方の研究に没頭する。・・・

 昭和25年(1950)6月13日「私の潜行八年の旅」が終わるまでの克明な記録で、

 興味尽きないものだが、 終章―「踏んだ祖国の大地は」に至って、ここには既に

 60年後の原博文氏が居た。

 以下、引用・紹介していきます。

 ************** 

 『秘境西域8年の潜行 抄』  西川一美  中公文庫ビブリオ 2001・10・15 

 ★インド・ネパール篇

 3、初めて日本人と見破った軍人

 日本軍が前進も後退もできぬ深田のような嶮峻なこの地に足をつっこみ、もがき、足踏みしているうちに、英国はインド、ネパール人を徴発して、しだいにこの国境に軍隊を補充することができた。そのうえ米国からの兵器、物資の補充も空、海から物凄い量が投ぜられて十分防衛を固めることができ、日本軍はインド侵入に失敗したのである。(★あの、「天皇誕生日までに」で知られた牟田口主導のインパール作戦のこと)
 このインド・ビルマ国境の防衛に繰りだされたインド人達は、私にこんなことを話してくれた。

 「ビルマ国境の防衛に駆り出されて行って、これほど贅沢をしたことはなかったよ。家にいるときでさえもだから、君には分るだろう。食物、衣服、靴、なんでも、ないものはなく、まったく至れり尽せり、 「こんな贅沢はもう二度とできないだろうよ」
 

 「どうして、日本軍はビルマに進出して来たとき、嶮岨なビルマ国境の陸路を選び海路から進出して来なかったのだろうかと、私達も不思議に思っていた。もし日本軍が海路からインドに進駐して来たなら、戦わずして、あたかも無人の野を行くように、日本軍はインド平野に進出できたであろう。なにしろ当時インドには、英国兵といったらもぬけの空同様であったし、国内の民衆は独立の意気に燃えて、あらゆる好条件を揃えていたときだったからなあ・・・どうして選りに選って、ビルマから陸路を進出したものだろう?」
 
 日本の敗戦と同時にスバス・チャンドラ・ボース氏とともにインド独立を戦った将兵は故国に引き揚げて来た。当時なおインドを支配していた英国は、このインド独立軍の将兵全員を戦犯として軍事裁判にかけた。このとき終戦と同時に獄舎から釈放されたガンジー、ネール以下の幹部はもちろん、インド国民全員が立って弁護人となり、インド独立軍将兵の無罪を主張し、遂に彼らは勝った。戦犯などとは当然あるべき筈のものでない汚名を、インド人の中にはひとりとしてつくらなかった。私の会った将兵も、それらの一員であったのである。 
 

 これらの事実と敗戦当時の日本人を比較して見ることも、また必要であろう。昭和25年インドから送還された私は、シンガポールからの祖国将兵の戦犯数名の人達と故国に第1歩を踏んだとき「ご苦労さんでした」の言葉のないのはもちろん、「俺達が引き揚げて来たときは、なにしろ石を投げつけられたのだからなあ・・・」と言う言葉を旧友から聞かされた。

 立場や勝敗はどうであろうと、いったん国のため、国民のために戦った人々を国民全員が温かい思いやりで迎え慰め合ったインドの国民と、軍隊はあたかも敵のように恨み迎えた日本の国民。これが私達の同胞日本人だったのだろうか? いったい自分は日本人なのだろうかと、疑わざるを得なかった。

 インドのパール博士が、東京の軍事裁判で、ただひとり戦犯反対論を説かれたことを多くのインド人から聞かされた。彼らはこのパール博士の説を、どれほどインド人の誇りとしていたことであろう。前述のインドの軍事裁判の結果でも分るように、インド人としては、まったくそれは当然過ぎるほど当然のことであった。

 4 昭和23年も暮れてゆく 略

 5 遂に捕われる      略

 6 踏んだ祖国の大地は

 4月の声を聞くと、南国の暑さはひとしお増し、囚棟内はちょうど蒸風呂に入ったように、じっとしていても汗が出てくるといった有様で、連日うだるような日を送り迎えていた。加えて、まさかとは思いながらも、特高課から、なんの連絡もないのは、私達がこのまま獄中で消えて行くのではあるまいか、という不安、あせりにかられていた。今さらのように捕えられたことを後悔せずにはいられなかった。
 しかし、5月に入って間もないある日、突然私達の上にも明るい灯がさしてきた。事務所からふたりに呼び出しがかかったからである。そこには待望の特高課の連中が、笑顔をもって迎えてくれた。それによりほぼ察しられたが、
 「長らく待たしたが、貴国から回答があったので、5月12日カルカッタから日本へ向かって船で帰ってもらうことになったから」
と聞かされ、私達の喜びはどんなものであっただろう。が、なにかしら物悲しさを覚えずにはいられなかった。ほんとうに複雑な感慨であった。

 投獄されて8ヵ月目、昭和25年5月中旬、娑婆の風を満喫したふたりはジープでカルカッタの港へ連ばれ、「サンゴラー」という英国船の船上の人となった。白衣のインド服で身を包んだ私の傍には、長年私と共にあったチベット服、インド服、経典、印、回、英、蔵、支辞典と参考書、ガオー、数珠、ダンバル、骨箱、椀、毛皮の敷物をまとめたウールグが、大陸からの唯一の土産となっていた。しかし懐は1文無しだった。

 長く尾をひく汽笛と共に、船はカルカッタの港を離れた。白く泡立つ水上を呆然と見つめていた。実に感慨無量だった。私はこうして8年さまよい歩いた大陸と、おさらばしたのである。

 船は静かにカモメの飛び交うガンガ河を下って行った。
 そして船内の生活1ヶ月・・・
 昭和25年6月13日の朝、サンゴラー号は神戸の岸壁に横づけになった。

 祖国の土、本当に生きているのだと、その大地をさわってみた。神戸復員局の人々の出迎えを受け、青畳の上に坐り味噌汁をすすったが、風呂のもてなしを受けたときは、思わずうなり、温かい祖国の味を満喫したのである。変わりない祖国の山河が私を抱いてくれたのは蒙古を出て8年、祖国を出て15年目だった。

 しかし迎えてくれた夢に画いていた祖国は、幽霊将軍マッカーサーが天皇に代わってふんぞりかえり、幾億という血税を吸った官吏が娑婆でしゃあしゃあとしているとか、職業的となった大臣、代議士が民主主義をふりまわし、古来から培われた美しいものをすべて古くさいと片付け、奔放な自由を、自由主義だとかわめいたりしていた。雀の巣のような頭をして白人、黒人の手にぶら下がり、あるいはその子供を抱えているのが、最上の文化民だと往来を闊歩して  いる婦女子もいた。溌刺たる意気のやり場に迷っている若人、芋や大根の葉っぱで苦労したとこぼす、本当の苦労を知らない人々、頭だけ大きくなって足が地についていないインテリとジャーナリストの絶叫、精神病院の鉄格子の檻の中にひしめきあっている人、人、人、人の群れ、だった。 

 故郷への切符と1枚の千円紙幣を握らされた我々は、千円紙幣にびっくりし、
 
 「どうか十円紙幣の細かい金にかえて戴けますまいか」
 と係員に願い出たら、笑って相手にされなかったのもその筈。

 神戸駅前の1杯のみ屋で木村君と互いに別れの盃を酌みかわしたら

 <銚子1本百円也!>だった。
 

 10 聖地ラサの裏街道

 黄金の屋根燦然たるチョカン、ラモーチエ仏殿を中心として、白亜の高楼が軒を連ねているラサの市街。これを囲む白楊、楊柳の点在するキチュー盆地、紫煙にけむる峨々たる山嶺の麗には、美しい白亜のラマ廟が、あたかも釈尊を取り巻く高僧のように、東西四方に点在している。沙漠を渡り、大草原を横切り、山また山を越え、千里を遠しとせず集まって来る巡礼者の群れは後を断たず、赤衣のラマ僧は路上にあふれ、寺を訪れれば幾万のラマ僧、尼僧であふれ、読経の声は絶え間なく流れ、宝殿のような絢爛たる堂内は万灯輝き、紫煙たなびいて、人々に敬虔の念を湧かせる香が漂う。

 黄金色に輝く諸仏諸菩薩は数を極めず、灯明鉢を手に仏殿に額ずく着飾った善男善女、門前には米搗きバッタのように幾千、幾万回と三脆三拝の叩頭を繰り返す信者の群れ。堂及び寺院の環状路は、念仏を唱えながらマニ筒をまわし、あるいは経典を背負い、あるいは尺取り虫のように匍匐しながら右曉する信者の波があふれ、路上には家々から流れてくる狂信的な祈祷の調べ。

 夕暮れどきの環状路はラマ、尼の読経の声で湧き立ち、ラサはラマ教徒のメッカ、聖地としての雰囲気を十分に漂わせている。入蔵困難な神秘境として、紀行文などからも、ラサが極楽浄土のような聖地、そこに住んでいる人々も、さぞ仏のような心根を持った人々だろうと、想像することだろう。確かにこの絢爛たる寺、狂信的な人々の姿は、一応外見だけは聖地らしい印象を人々に与えている。

 しかし私はこの外見だけは仏教都らしい信仰に満ちあふれていることを肯定するが、その内容、中身は、悲しいことにそのまま、肯定することはできないのである。ラサほど道徳が乱れ、風紀が紊乱し、ただれきった汚い街は、世界にもないだろう。聖地どころか、泥沼のような街であるといいたい。

 チベット一般の国民は、ラマ教すなわち仏教を信ずることによって生きている。香の匂いは終日部屋に満ち、朝夕諸仏諸菩薩像の前に額ずき、すべて仏教に関係を持たぬ話はひとつもない家庭に育った彼らは幼いときから、なにごとも自業自得、自分のした悪事は、自分で苦しい思いをして償わなくてはならぬ。また自分のなした善事の結果、すなわち快楽幸福も、また自分が受けられ、そしてこの因果応報は未来永劫に続くものであり、仏達の心もまた死んだからといって決して滅するものではない。再びこの世に生まれ変わって来るものであることを、お伽噺として父母から吹き込まれている。

 こうしてラマ教を信仰することによって、自分の犯した罪は償われ、快楽幸福が取得せられ、寺、僧侶に供養すること、着飾って灯明鉢を手にして仏殿に額ずくこと、あるいは米搗きバッタのようにはいつくばって右曉、叩頭を続けることが最高の信仰の表現だと教えられ、信じられている。彼らの仏教の信仰は、ただ形式的信仰にほかならないのである。仏教の根本原理である人としての行ない、進まなければならぬ道への修養、自己を磨こうなどということは微塵もない。だから彼らの間には、道徳などひとかけらもない。

 彼らの性情は、表と裏の両極端を持っている。権力、財力の強い者にはまったく猫のように温和しく服従するが、弱者とみるや、まったく正反対の性質を以て遇する。臆病で羞恥心が強く、控え気味に見えるが、物凄く積極的行動に出ることを辞さない。慈悲同情の念に溢れているようであるが、その裏には、物凄い敵愾心と復讐心が充ちている。頑固で自尊心が強いが、追従と模倣を拒まない。謙譲心に富み儀礼に篤いが、甚だしく卑屈である。悠長のようで短気である。排他的根性と共に独善感が強いが、一面妥協性を失うことなく、開放的で迎合主義である。いわば彼らは、猫の眼のような性質を持っている。この猫の眼が、強者と弱者に対するときは必ず変わるのである。これは荒涼たるチベットの環境と、根強い封建制度のお国柄、「井戸の中の蛙」の環境に置かれた自然と指導者、さらに昔から東にシナ、西に英印にはさまれた国際関係からもきているようである。

ではラサの裏口を案内しよう。まず貴族の家を訪れてみよう。高壁でめぐらされたシナ式の堂々たる門を潜ると、門脇に小さな門番の部屋が見られる。楊柳の繁る庭を進むと、2層3層のアパート式の堂々たる建物の前に出る。広い中庭には、まずそこに、数頭の優秀な青海産の馬やロバのつながれているのが眼につく。井戸があり、南面した正面の最上層の部屋だけはガラスばりの美しい部屋となって、主人の居間であることを知らせている。いく部屋にも分かれ
ている豪華広壮な邸宅は、主人の部屋のほか仏間、客間、そしてネルバーその他使用人の部屋、炊事室、倉庫となり、ラマや、豪商が部屋を借り受けているのも見られる。各部屋の内部は赤や、紅黄色、緑色で塗りつぶされて、その上に種々の色彩が施され、特に居間、仏間、客間に入ると、けばけばしい、絢爛たる御殿風の部屋に驚く。

 金銀7色で華美な絵の画かれた壁、贅を尽くした仏壇、壁に掛けられた華麗な掛軸、まったく豪華なものである。いくつもの倉庫をのぞけば、どの倉庫も常に小作人からの穀類、羊毛、皮革、バター、金力にまかせての、蔵印間の交易品で満たされている。

 この御殿のような中に住んでいる主人は、黄色緞子の美衣を纏い、美食のほかに侍者が30分ごとに、金銀製の茶托と金銀製の蓋の付いた茶呑み茶碗に、うまいバター茶を恭々しく運んで来る。主人が部屋に居ようと、庭に居ようと、侍者達はこの義務に奉仕しなければならない。また彼らが主人の前に出たときの態度たるや、ああまでしなくてもいいだろう、ああまでへつらわなくてもいいだろう、と思うほど、猿のように右手を耳上にあげたり、舌を出しては、「ラララ」と、せわしく息を吸い込み、腰をかがめ、丁重な言葉で接する。主人の命令、言葉は絶対的なものであり、主人が侍者達に対する態度は、牛馬に対するのと同じだ。彼らを虫けら同様としか思っていないのである。少し手を伸ばせば取れるようなものでも、隣室の侍者を呼んで取らせ、靴を脱ぐにも、煙草の火を点けるにも侍者を呼ぶ。椀、箸なども取ってもらうほどの、他のいかなる国の王様でも見られない横暴さである。美衣美食、傍若無人の生活を送っている。

 そして政府の首脳部である彼らは、小作人、民衆の利益のために働くということより、どうして彼らから少しでも多く搾取するか、ということしか考えないのである。また世襲制度で、貴族出身であれば、どんなぼんくらでも高官につける彼らは、一般民衆やラマの中に自分より学問、思想方面に傑物が出れば、不法、不道義でも、理由もなく権力を以て圧迫し、葬ろうと努める。

 私の在蔵中、一番怖れたのはこの不法を不法としない、不道義を不道義としない、封建的なチベット政府の政治であった。最初、シナ官憲に捕われるよりは、チベット官憲に捕われた方が安全だという気やすい考えを持っていた。それもしだいに、いくらこちらが道理を通しても受け容れられず、またこちらが正しいことでも、それを受け容れようとしない無法者のようなチベット官憲は、シナ官憲に捕われる以上に危険であることを、感ぜずにはいられなくなってきたのだ。これは政府だけでなく、民間でも徳より金で、シナの社会の方が、よほど住みよい、ということに気付かされた。また、どこの国でも同じであるが政府内の貴族、高僧の指導者間にも派閥があり、相互に時の権力によって相手方を、闇から闇へ葬る、醜い闘争も常に繰り返されていたのである。

この政府の高官達と共に、民衆を護ってくれるべき兵隊も、民衆にとっては怖ろしい存在であった。一度チベットに暴動が起これば、民衆は暴動より、これを鎮圧に出動した国の兵隊から受ける被害が大であることを昔から知っている。兵隊達は、暴動の鎮圧はどうでもよく、どうにかしてこの際自分の私腹を肥やそうということに汲々としているからで、民衆は、養っている兵隊が味方であるのか、敵であるのか、分からない有様なのである。

チベット人の性関係は一婦多夫、一夫多婦、婿ひとりが姉妹を共有したりしている。ひとりの男が後妻はもちろんのことであるが、後妻の連れ子に、あの方が使用可能の娘がいれば、その娘まで独占したりして、私達のとうてい想像のできないことである。ラサの裏の裏では、いったいどのような無茶苦茶な性関係が展開しているのであろうか、紹介してみよう。

 チベットには蒙古、タングートと同様、日本、シナのような公娼私娼というものはみられない。これは、主に遊牧社会のため、人家が点在して街というものが、構成されないからであろう。しかし例外ではあるが、人口5万のラサの街には、わずかではあるが4、5戸の私娼が、街の副産物的な微業となっていた。この私娼も日本の私娼窟を想像されては間違いである。女に抱え主という者があるではなく、借金で身を縛られているのでもない。もちろん、やり手婆さんもいない。ただ部屋を借りていて、そこで客を取る。いわゆる戦後日本で流行したパンパンの類である。しかしラサの市民は、この私娼を利用する必要はないのである。女であれば、それが貴族の奥さんであろうと、人妻であろうと、処女であろうと、彼女らは男達の求めに応じてくれるからである。この場合、男達は幾ばくかの金は、用意していなければならない。またこの金を必要とせず、サービスしてくれる女も中にはいる。

夕暮れどきのラサの街は男女の歌声で溢れる。ひとりの男が、

杏を口にすれば美味である
花を見れば美しいものである
花を見れば美しいものである

 と、美声をはりあげながら大道を行けば、その歌に笞えるように、家の中庭から

用事で家を訪れるときは
ドンドンと力強く表門を叩いて来なさい
あのことで訪れるときは
コツコツと力弱く裏門を叩いて来なさい

 と、女の美声が流れてくる。

初めての者にはなんでもない男女の歌のやりとりのようであるが、ふたりには「いつものところで・・・」とか、「万事OK・・・」という、密会の約束が、この歌によって交されているのである。

また、ときには4、5人、組をくんだ女達が、

急に口(下の口)に入れて下さるな□(上の□)から心臓が飛び出そうだ
□から心臓が飛び出そうだ・・・

急に口(下の□)から抜いて下さるなお母さんが死んだよりまだつらい
お母さんが死んだよりまだつらい

 と、笑いながら、男に誘いをかけながら歌い過ぎて行くのを見かけるであろう。男達はこれに対し、粋な歌をもって応酬して、ちゃんと約束をつくっている。このように歌と歌での、あの道の交渉などとは、チベット人もなかなか風流なものである。

 また、歌のわからない者でも、決して心配のいらないようにできている。それは「タクパー・テンヤ」、直訳すれば「紐ひき」即ち「ポン引き」という稼業の、重宝な男女が住んでいるからである。もし彼らを必要とするなら、酒屋に行って飲んでいれば姿を見せるであろう。どのアパートにも、それを副業とする男女がひとりやふたりは住んでいるものである。

 街で人妻であろうと、娘であろうと自分の意にかなった素晴らしい美人に会うと、その女の後をつけて、その女がどこに入ったかを確かめ、そしてタクパーテンヤに「あの通りに、このような顔をした、少し背の高い・・・」と話せば、たいてい彼は、その女を知っていて、さっそくその家を訪れ、あるいは時機を窺って交渉してくれる。チベットの女達は、この交渉をほとんど拒むようなことはない。夫や家のつごうのよいのを見計らって、タクパー・テンヤと現われる。場所は自分の部屋であり、女の家でもあり、また酒屋でも部屋を貸してくれる。そしてタクパー・テンヤに若干の酒代と、女に若干の金を握らせればよいのである。女の金額は、たいてい2ルピーが相場のようである。しかし貞操観念のないチベットでも、処女は高価なものであることには変わりなく、タクパーテンヤにクリーニング処女で騙されることもあるそうである。

 「安物の石鹸ひとつで結構だよ」
 「いくら美しく着飾った貴族の婦人であろうと、娘であろうと、虚栄心の強い彼女達は、白粉や紅ひとつでも躊躇なく体を提供してくれるよ」
 と、タングート人の行商人や、シナ、ネパール、回教徒の商人達が語るのを聞くのである。

 このように、まったく無茶苦茶な腐りきった、動物的な性関係がくりひろげられていることは、いかにチベットの女が男の力より強いか、奔放か、貞操などは問題としていないかを示している。それもチベット人の間だけでなく、在ラサのシナ、ネパール、回教徒、蒙古人などの他民族の妻になっている者も多く、混血児はざらで、ラサ在住のチベット人の血には、これらの血が多量に混血しているのである。但し回教徒はチベット人をもらう場合も、女が回教徒に改宗しない限り、妻としないコーランの定めを固く守っていることを記しておこう。アジア人同士の混血児は、ほとんど見分けはつかないけれど、彼らは一般に国家観念がうすく、金のことでは道義もなにもない。そのような人種が多くなることは、ラサの街を、ますます人間らしい道義の社会から、金銭本位の社会に変え、殺風景な街にしているのである。

 混血児は頭が優秀だとか、人類平和のためとか、外貨獲得のためとか、混血児の増えるのにただ呆然としている日本。果たして民族の混血は、その国に平和をもたらしてくれるものであろうか。混血児の問題が国の難点となっていることはチベットでも、またインドでも私に深い感慨を与えたことである。一家の平和があって、国家の平和があり、国家の平和があって民族の平和がある。混血児の増大は、民族、人種の平和をもたらすものではないような気がするのである。

 奔放なチベットの女達は一家の長男の嫁としての子供、シナ人や回教徒との間にできた子供、夫の弟との間にできた子供と、多種多様な子供を生んでいる。そして夫もそれらの子供を自分の子供として、同じ屋根の下でなんの争いもなく住んでいる。私達には彼らの心理がどんなものであるか、理解することはできないが、夫がどきどき腹の虫の収りの悪いときに、頭髪のちぢれたり、容貌が自分と異なって、自分の種による子でないことを知っているのであろう、
 「お前はあの回教徒の子だ、俺の子ではない。出て行け」などと怒鳴り散らしているのを聞くことがある。しかし怒鳴り散らしただけで、そのまま簡単に片づくのだから天下泰平である。夫のこの寛大さと忍従に対し、ひどい女になると、夫のいないときには、自分の生んだ男の子供をその相手として使用している女もあるのだからまったく話にならないのである。

 今は世界のどこの都会も街も同じかも知れないが、聖地ラサも、その裏の裏は、以上のような、金銭に血眼になり性道徳などひとかけらも見られない、ただれ切った街なのである。
 
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