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●疑史(第14回)王希天は生きていた  落合莞爾
●疑史(第14回)王希天は生きていた 
 
 
 ここ数か月、南開学校からの日本留学生の三羽鴉たる王希天、周恩来、呉達閣および彼らの校外同志たる張学良にまつわる事実を明らかにしてきた。要するに、彼らはワンワールド中華派の首領たる南開校長・張伯苓の薫陶を受け、日本を偵察・工作するために派遣されていたわけで、後年張学良が西安事変を起こして国共合作を成立させ、日本敗戦の遠因を成したが、これに周恩来と呉達閣が深く関わっていたのは偶然ではなく、1件をワンワールドが計画した証拠である。

 4人の中でも才幹・行動力で断然秀でていた王希天が国共合作に参加していないのは、事変の10数年前に死亡したからである。つまり王希天は、関東大震災直後に起きた亀戸事件といわれる一連の事件の中で、日本軍人に虐殺された(王希天事件)と考えられている。

 大正10年、中華メソヂスト教会を拠点にしていた希天が、城西教会で国内の情報を蒐集していた事。別に周居應の偽名で帝国針灸医学校を開いていたことなどは前月に述べた。

『周蔵手記』に戻ると「(大正10年)11月ニ入ッテ(中略) 親爺殿カラ送ラルル米 他 熊谷サンニ届タルト共二 皆二分ケル。
呉先生ハ暗ヒ。周先生ハ相変ヅ ヲ調子ガ良ヒ。(中略)
3月 針灸ハ 習ッテヰテモ仕方ナク 薬ノ作り方ハ 練習ニテ 覚ユルコトトス。」

 大正10年秋、周蔵は日向の父が送ってきた米や薩摩節を画家・熊谷守一や甘粕憲兵大尉などの知人に配った。松沢病院長・呉秀三が暗い原因は精神障害者救済事業の蹉跌だが、周居應(王奇天)が相変わらず調子が良いのは、支那留学生の扇動と団体結成がうまくいっているからか。翌年3月、周の針灸学校での勉強は製薬の役に立たぬ、と結論した周蔵は、以後は自身の実験により、製薬法を体得することにした。

 前月述べたように陸奥廣吉が援助を約した支那留学生の共済会運動を、奇天は救世軍と協同して進める。すなわち府下大島町(現在の江東区大島)に住む支那人労働者の保護・救済のため、11年9月21日に僑日共済会を設立し、11月27日には会長となり、以後共済会運動に挺身する。この時に中国青年会の活動を止めるが、中華メソヂスト教会と帝国針灸医学校の方も休止したものと思われる。

 大震災直後の12年9月12日、亀戸署を出た奇天は失踪し、行方は杳としてわからない。この事件に関して仁木ふみ子『大震災下の中国人虐殺』、田原洋『関東大震災と王奇天事件』の他数冊が公刊されているが、いずれも希天が日本軍人の手により惨殺されたことを絶対的事実として所論を展開しており、他の類書ならびに近現代史に関する事典・史書の記述も同断である。

要するに、陸軍野重砲兵第三旅団第一連隊六中隊付中尉の垣内八洲夫が9月12日早暁、亀戸署から解放された希天を追跡し、逆井橋上において軍刀で斬殺したと断定され、これに疑問を投げかける人はいない。

 因みに、大震災直後に警視庁亀戸署管内で生じた支那人労働者の虐殺、いわゆる「大島町事件」は紛れもない事実である。詳細は今も明らかでないが、実行者は在郷軍人・警察官・軍隊・自警団らの誰かと見てよい。当時早稲田にいた希天は、大島町事件の噂を聞いたか、それとも予見したのか。同胞の安全を確認するために、単身自転車を駈って亀戸署を訪れたのが9月10日の早朝より前で、同日の夕刻には同署で険束されていた事を支那留学生か確認している。

 自警団の暴走を恐れたのが第三中隊長・遠藤三郎大尉で、戒厳司令部の了解の下に、朝鮮・支那人の保護収容を目的として習志野廠舎を開放する事とした。護送作業は連隊第六中隊長・佐々木兵吉大尉が担当したが、支那労働者の中に護送に反抗する者が多かったため、同胞中の名望家が彼らの説得に当たる事が期待された。そこで希天の来署を奇貨として、亀戸署長がその身柄を検束し、説得を依頼したところ、奇天は進んでこれに協力し、「安心して習志野に行け」との説得ビラを作成したばかりか、口頭説得をも行なったため、習志野護送は軌道に乗る。護送は11日昼頃から始まり、15人が隊伍を組んで警察署を出て駅に向かうが、その途中、なぜか希天は「私は役場に行かねばならず、習志野には行かない」と言い出した。これが認められ、独り自転車で別路を辿った希天の姿を、同日午後に再び亀戸署で見た支那人労働者がいるが、それ以後希天の姿を見た人はいない。希天の遺体はもとより、身の回り品も、中川堤防に放置されていた自転車の他には、まったく発見されていないのである。

 大島町事件は、支那(中華民国)に送還された支那人労働者が流布したが、支那国内の内乱もあって日華政府間で金銭解決がなされ、両政府は今日でも「虐殺」を公式には認めていない。しかし奇天の失踪は直後から国際問題になり、旧友張学良からも日本政府に真相の解明を求めてきたが、結局は曖昧にされてしまった。世論は、どうせ大杉栄(甘粕事件)や河合義虎・平沢計七(亀戸事件)及び支那人労働者(大島町事件)らと同様、王奇天事件も震災直後に多発した「誤殺」の1例と見做し、忘れ去った。大島町事件と王奇天事件は、支那においても震災直後は騒がれたが、その後の国共内戦や日支事変の中で忘却された、と田原・前掲はいう。

 しかし支那では奇天の事跡を忘却したわけではなく、昭和37年、周恩来が吉林省を視察した時、奇天が来日前に残した遺児・王振折を接見した。最近、張学良の遺品をハワイから回収した王旗はその娘である。奇天は同49年に革命烈士に追認されたが、同胞救済の義挙に鑑みると顕彰が遅きに失したと言えよう。まして恩来の親友というのだ。

 希天の出身地、吉林省長春市の三街道に設けられた「王奇天烈士陸園」は平成8年の奇天生誕百年を期して正式に開放された。以後、日帝との戦いに殉じた留学生義士の慰霊と日中友好を題目として、日本左翼や日教組が毎年墓参ツアーを催し、広く参加を呼びかけてきた。わが左翼人士は、王奇天事件を「震災下の中国人虐殺」の好例とみて、日帝の悪業を立証するために調査を続けてきた。彼らの思想偏向はともかくも、歴史真実を追究する姿勢と、資料を探究して関係者に迫るその熱意には、見習うべきものがあろう。

 田原・前掲によると、「王奇天事件発掘史」の先駆者は関西大学講師・松岡文平で、昭和47年に『関東大震災と在日中国人』を著し、震災直後の新聞に奇天の行方不明が大きく報じられていることに疑問を発し、王奇天事件の存在を指摘して「当時亀戸に駐屯していたのは例の習志野騎兵第十三連隊である。これらの事実から考えて王奇天が殺されたことはほぼ確実」と述べた。横浜市立大学教授・今井清一は松岡の後を受け、米国国会図書館作成の里帰りマイクロフィルム「大島町事件其ノ他支那人殺傷事件」から、虐殺犯人を「野重砲兵第一連隊所属の将校」と特定した(マイクロフィルムの原資料は、外交官・守島伍郎の個人メモらしい)。今井はさらに、昭和50年8月28日付毎日新聞が発見を報道した、久保野某なる1兵卒の日記にも、垣内中尉を犯人と指摘していることを併記した。

 東京タイムス労組書記長から日刊現代に転じた田原洋は、昭和56年春、事件関係者の1人の遠藤三郎中将(当時大尉)に面会する機会があった。話題がたまたま関東大震災に触れたとき、大杉栄事件を持ち出したら、遠藤は「もっと大変な事件があり、オーキテンという支那人労働者の親玉を、
私の部隊のヤツが殺ってしまった」と語り出し、さらに「この話は、中央公論社刊『甘粕大尉』を書いた角田房子さんにも話した」と付け加えた。王奇天事件をまだ知らなかった田原は、早速角田の『甘粕大尉』を読み、関係記事中に多くの誤りがあるのを発見したが、それとともに、この事件には謎が多く、一般の歴史常識となっていないことを感じ、遠藤を再び訪れて、殺害実行犯の名を垣内中尉と教わった。遠藤は・歴史上の真実を明らかにしておきたいとの義務感により、以上を語ったと主張しているが、その通りであろう。

 その年の初夏、田原は垣内八洲夫中尉(のち大佐)の自宅を訪ね、「あのね、私は後ろから一刀浴びせただけです。そのまま(隊に)帰りましたから、王希天が死んだかどうか確認はしとらんです」との貴重な証言を引き出した。襲撃命令は中隊長・佐々木大尉から受けたもので、佐々木はその上から命令されていたらしい。軍刀による襲撃を認めた垣内も、殺害を確信しておらず、希天が本当に死んだのか、事実は確認されていない。ゆえに殺人の疑いは濃厚としても、刑事学上、いわゆる「死体なき殺人」であって、性急安直な公判請求は許されないのだが、希天の跡形が知れず、垣内が斬り付けたことを自認する以上、左翼研究家は生死の確認を省き、日本軍人が支那留学生を法的根拠も正当性もなく虐殺したことは明白な歴史的事実と判断したが、右翼側にも異論がないこととて、王希天事件はこれを以て一件落着した形である。しかし、王奇天は死なず、その後も『周蔵手記』に出てくる。

(大正)15年正月ハ 周先生二誘ハレ 額田サンヲ含メテ 祝ヒトナル。女子医専ハ ヤット 幕ヲ上ゲタラシク 帝国女子医専 トナッタ由。マサカ 周先生ノ帝国ニ チナンダトヰフコトハナヒ ト思フガ。

 大正15年正月、周蔵は周居應(王奇天)に誘われ、額田医師の兄弟と合同で新春の祝賀会を開いた。4年越しの女子医専設立計画が立ち上がったからである。校名も帝国女子医専となったらしいが、まさか周先生の帝国針灸医学校に因んだのではあるまい、と周蔵は思う。

 希天を襲撃した垣内八洲夫は、紀州人で根来者の末裔である。連隊有数の剣道の達人で、必殺の命令ならば絶対に討ち果たした筈である。言い逃れなどする人物でもない。つまり田原洋に語った「王奇天が死んだかどうか確認はしとらんです」との言は、その通りで、垣内は奇天に一撃を加えたものの、生死には関心がなかった。片脚を切られた奇天を、甘粕大尉が救出して上高田救命院に運び込み、外科医・渡辺政雄が治療して命を取りとめた。

 死んだ筈の奇天の名が『周蔵手記・別紙記載』の昭和4年条に出てくる。

「王サンモ スッカリ渡辺ニナレテ」とあるように、日本人渡辺氏に成りすましていた希天が、あれから何をしていたのか。それは次回に。
 

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