カウンター 読書日記 ● 疑史(第13回) 王希天と上原・甘粕 
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● 疑史(第13回) 王希天と上原・甘粕 
                                 甘粕大尉 角田房子_1



● 疑史(第13回) 王希天と上原・甘粕 
 
  
 南開学校からの留学生三羽鴉、王奇天・呉達閣・周恩来が渡日に際し、ワンワールド勢力から日本偵察などの使命を与えられていたことを前回までに示したが、更に敷衍する。証拠は上原元帥付陸軍特務の吉薗周蔵の手記で、その一部『別紙記載・大正10年条』を前月に紹介したが、続きを以下に要約し、解説していこう。

 渡辺政雄からポンピドー牧師と王希天が同じ「仲間」と聞いて、周蔵が「トスルト、上原閣下トハ ダレナルカ?」との自問を記したのは、希天がポンピドーを介して上原元帥に繋がることを覚ったことに他ならない。希天を「今のところまだ大物ではない」と評した渡辺は、ついでに「ポンピドー神父はアマカツとかいう軍人を達れて帰国したそうや」と言う。そこで周蔵が、アマカツ・アマカスと書き述べたうえ、「アマカツか?」と注記したのは、正確に開き取れなかったのではなく、政雄の言が曖昧だったからで、わざわざ2通り併記したうえ、「アマカツか?」と念を入れた心中は、「まさか、あの甘粕のことではあるまい」と思いたかったからであろう。

 周蔵はさらに「ヲトトシか?」とも付記するが、その理由は推測できる。前年(大正9年)のこと、1月30日に上原邸で知り合った憲兵中尉・甘粕正彦が、3月29日に突然訪ねてきて、「山県元帥の暗殺に失敗した伊達順之助を匿ってくれ」と頼んできた。そこで牛込弁天町のアジトや奥多摩小菅村の小屋に伊達を匿っていたが、10月25日の夜、弁天町で甘粕・伊達と3人で四方山話をした際、甘粕本人から「以前、夫婦連れでフランスに留学した」と聞いたのである。

 ポンピドーに同行した軍人の名はアマカスとも聞こえるうえに、フランス留学が重なれば、甘粕正彦たった可能性がむしろ高い。とすると、昨春から内地にいた甘粕が、最短でも半年はかかる仏留学をしたのは、一昨年以前のこととなる。そこで周蔵は、「ヲトトシか?」と推量したと見てよい。
 
 おととし(大正8年)は甘粕にとって重要な年であった。7年8月に朝鮮京畿道の楊州憲兵分隊長となった甘粕は、8年3月の万歳事件で活躍し、その手柄で朝鮮憲兵司令官・児島中将の副官に抜擢された。一方、甘粕が山県元帥暗殺を企てたのも8年である。つまり甘粕は、朝鮮憲兵司令官副官の身分でありながら、秘かに内地に戻り、伊達順之助を躍らせて暗殺工作(の真似)をしていた。参謀総長・上原勇作の極秘指令とみるしかないが、憲兵司令官が上原の腹心中の腹心たる石光真臣中将であったから、それが出来たのだろう。
 

 角田房子著『甘粕大尉』は、「東京に帰った甘粕は、大正9年、憲兵練習所に入所し、翌10年、8人中の2位で卒業。同時に大尉に昇進して千葉県市川憲兵分隊長となった」とするが、帰京の時期を明記しない。また「東京で司令部副官になった」とも言わない。つまり、周蔵が9年1月30日に上原邸で会った軍人から、「憲兵司令部副官・甘粕ト 名ノラレ」
たのは、朝鮮憲兵司令部副官の意味だったのだ。甘粕は東京転任の内示を受けて内地に戻り、この日は申告のために上原邸に参上していたと解すると、筋が通る。

 憲兵司令部に転じた甘粕は、3月29日に周蔵を訪れて伊達順之肋の隠匿を頼み、周蔵のほうも5月4日に東京憲兵隊に甘粕を訪ねて石光真清の満洲の居所を調べて貰った。その秋には、満洲から帰国した周蔵は10月24・25日と甘粕と逢っている。これを見ると、甘粕は東京憲兵隊に所属し、憲兵練習所に通いながら、裏工作にも携わっていた。むろん上原の密命により、憲兵司令官・石光中将が黙認していたわけである。

 甘粕の秘密裡の仏留学に新妻を装った同行者がいたのは確かだが、牧師の同行は渡辺の言だけで、確かではない。いずれにせよ、その時期は大正8年よりもかなり前のことではないだろうか。明治24年生まれの甘粕は、同45年に陸士を出たが、大正4年9月に入学した陸軍戸山学校で膝関節炎症に罹り、歩兵科から憲兵科に転科した。原因は関係者によって説が異なり、落馬とも鉄棒からの落下ともいうが、その負傷自体が怪しい。その後、7年8月に朝鮮で楊州憲兵分隊長として復職するまでの3年間、軍歴が明白でないのを覆い隠すための工作とおぼしいからである。
 
 
 甘粕が仏留学に伴った愛人は、上原がポンピドー牧師の妹に生ませた娘であった。そのことを周蔵がすっかり知るのは昭和4年で、大震災下の暗殺から逃れて日本人になりすました王奇天が教えてくれた。大正3年に陸軍教育総監に就いた上原は、翌年には参謀総長となり、陸軍人事を壟断することができた。上原の計らいにより、私費留学届はおろか休暇願も出していない甘粕の、この間の軍歴は今日も闇に包まれている。特異な憲兵たる甘粕の軍歴については公的記録など信用する訳にはいかないのである。
 
 日仏混血娘を愛人とし、秘密裡に仏留学をしていた甘粕がフランス語が達者だったのは当然で、そのことは武藤富男が「私の満州国」の中で証言している。ところが角田房子『甘粕大尉』は、保釈後に(表向き)初めて仏留学した甘粕が仏語ができずに辛酸を賞めた、と言う。甘粕の間近に居た武藤の言が正しく、角田著の目的が甘粕の真相隠蔽にあることを示唆するが、ソルボンヌ卒の角田は、甘粕らの「仲間」から依頼されて執筆したものだろう。畢竟、上原元帥を含めて、彼らはすべて「仲間」だったのである。
 

 南開三羽鴉の来日目的を見破った周蔵は、「コノ人物タチハ 慎察カト 判断ス」と書き加えている。それを察した政雄は「ウチは、そこまで深くは付き合っとらんわ」と弁解し、「もし上原閣下などにこの事を報告なさるんなら、ウチを気に掛けんかてよろし。ウチは別に仲間なわけやないから」と申し出る。政雄は「仲間」の本質を正確に知っていた。それは恩来・達閣と親しいからではなく、認識の根源にあったのは祖母の実家の丹波穴太の上田家から得たものだった。

 しかし周蔵は「そげん心配はいりもっさん」と答え、上原から与えられた任務の薬物・薬草研究以外には決して出しゃばるまいと決心した。上原も「仲間」であると感じたからで、ポンピドーや希天の活動を探って得意気に報告すると、却って元帥から疎まれることを警戒したのだ。

 周蔵手記の大正9年条に戻る。

「周先生ガ アヘンノ苗ハ水分ヲ嫌フヨ」と教えてくれたので、土壌の水分を吸い土げる竹林が適地と思い、周蔵は藤根大邸を介して近所の鈴木質店の竹薮を借りた。周居應先生(王希天)は、普段は四谷の城西教会か神田YMCAに居るが、上高田にも時々来る。7月に入り、ケシの収穫の検分のため、周蔵が上高田に行くと、そこに周先生(王希天)が居た。

 7月 竹林ノ罌粟カラ 収穫ス。良質。大層二 周先生 喜バル。
「周先生ト云ハヅ 王サント 云フヤフニ」ト 本人カラ タノマルル。「タノンマス」ト云ハル。
「四谷ノ 帝国シンキユー医學校ニ ヲイテハ 周先生ト呼ブヤフニ」
トノコト。都合ガアルノデアラフ ト思ユ。

 鈴木質店の竹林で採れたケシの作柄を、希天はわが事のように喜んだ。中学時代に吉林から天津に移り、直後に渡日した希天がケシの栽培法を知悉していたのは興味深い。つまり幼時に吉林で覚えたので、そういう家筋なのだ。正体を知った周蔵に希天は「以後は王さんと呼んで欲しい。頼んます」と、こなれた日本語で頼んできた。「しかし、針灸学校ではこれまで通り、周先生と呼んでくれ」との事である。つまり 「二体分け」をする上での都合があるらしい。

 その希天が出入りする城西教会に、周蔵は疑問を持つ。
 四谷ノ 城西教会ナル所ハ 日本人デモ 名ダタル人物 多ク 
通フラシヒ。日本人ハ 何ノ目的ナノカ。
辺(ナベ)サンハ「意外ト 日本ノ 内部事情ヲ 売ッテヲルノデハ
ナヒカ」ト云ハル。

 四谷教会は、日本美似(メソヂスト)監督教会が明治17年、四谷区端伝馬町に設立したのに発し、翌年に牛込区東大久保に大久保分教会を設立、明治21年には四谷坂町に会堂を献堂した。明治34年、四谷教会が大久保教会と合同して城西教会となり、昭和9年に渋谷区西原に移転した。現在もその地にあり、日本基督教団に所属している。

 希天は神田で中華メソヂスト教会を主宰するが、情報蒐集の目的で城西教会に通う。そこへ邦人有力者が続々と通うというので、何の為かと聞くと、日本の内部情報を売っているらしいと政雄は言う。例えば誰か、と周蔵は尋ねた。
 「聞クニ 陸奥ヒロキチ ナル人物、コレハ 外務大臣ヲシタル 
陸奥宗光ノ子 トノ事。 コノ人物が 支那カラノ學生二 援助ヲシテヲル由。何デモ 共済会ヲ作ル運動ニモ援助ヲスルコト 約シテヲル由」
 陸奥廣吉がその例で、支那留学生を支援し、共済会運動にも援助を約束した、とのことである。彼ら「仲間」を政雄は「ユダヤ」と呼び、「国を持たぬ1つの種族」と説明するが、周蔵には納得がいかない。
「自分カラ思フニ コノ人物達ハロ本ヲサグッテヲルヤフニ 思フシ マタ 啓蒙活動ヲシテヲル風デ ツマリ 無知ナル日本人ヲ 自分流二染メタ上デ、 勝手二 支配シテヲルヤフニ 思ヘルニモカカハラヅサノ陸奥ナル人物ハ 何故二 国家ノ力ヲ カフ云フモノニ貸スノデアラフカ。何力 考へ違ヒヲ シテヲルノデハト疑問二思フ」

 日本を偵察し、無知な日本人を啓蒙活動によって洗脳し、勝手に操ろうとする「ユダヤ」達に、特命全権公使まで務めた陸奥廣吉が、なぜ日本国家の力を貸そうとするのか。何か考え違いではないか、と思う。また、王希天らとユダヤの関係も理解し難く、そのユダヤ仲間に日本人も多いと聞いて、ひたすら困惑するのが当時の周蔵であった。
  
 
 外相陸奥宗光の子息陸奥廣吉は52歳。夫人エセルは英国留学の下宿先トレメンヒア・パッシンガムの長女で、外務翻訳官として功あり、外交官として各国に駐在し、大正3年には特命全権公使としてベルギーに駐在した。そんな廣吉がワンワールドに加わる事への疑問は周蔵ならずとも当然だが、答えは父・宗光にまで遡るのか。つまり、明治の和魂洋才とは 「大和魂とワンワールド思想の調和」の謂であったのか?

 

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