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● 疑史(第12回) ワンワールド「仲間」とは  落合莞爾
● 疑史(第12回) ワンワールド「仲間」とは  
 
 
 ミッションスクールの看板を掲げた南開学校はワンワールドと関係深く、理事長・厳範孫と校長・張伯苓こそ中華ワンワールドの中心人物だったようだ。南開学校三羽鴉たる呉達閣・王奇天・周恩来は在校中、ワンワールド思想に染められたが、張伯苓の弟子と称して南開の校外同窓生を気取る張学良も、いわば四羽目の鴉で、その点まったく同じである。

 1927(昭和2)年8月、張伯苓は満洲に赴き、大連などを視察して、日本の満蒙経営の進捗に恐れを抱く。早速、南開大学内に「満蒙研究会」(翌年10月「東北研究会」と改称)を立ち上げ、翌年の頭に同会主任の博恩齢を学良の許に遺わし、同会の名誉薫事に招聘した。これを快諾した学良は500元を基金に寄付する。ここにおいてか南開大学と満蒙研究会は、学良周囲の満人(満洲在住の支那人)を対象とした反日工作を始めるとともに、教授と学生による満洲の実施調査を3回にわたり行った。この活動に対してワンワールドから行われた資金援助は、「太平洋国際学会」からの2度にわたる寄付金4000ドルの形で顕れている。

 昭和3年6月4日、関東軍に爆死させられた張作霖の後継者として東三省保安総司令に就いた学良は、蒋介石の北伐軍と講和し、易幟を断行して国民党の青天白日旗を採用したうえ、11月には国民党政府に合流した。同年12月、張伯苓は欧米の教育事情視察と資金募集の目的で欧米旅行に向かう途中、奉天に立ち寄り、学良と2度会う。学良はこの時、南開大学に20万元を10年年賦にて寄付することを約束した。

 中華民国の陸海空軍副総司令となった学良は、昭和6年、張伯苓に招かれて南開大学で講演し、14年前を追憶して、「自分の今日あるは南開の賜物であり、張伯苓先生の影響だ」と強調し、ワンワールド恩想に傾倒したことを露にした。

 南開大学の出先機開として、学良が満洲に創立したのが東北大学で、畢竟これは、ワンワールド勢力が奉天に蒔いた種が順調に発芽して成長し、実らせた果実なのである。

 昭和11年の西安事変を前世紀最大の事件と謂うのは、国民党軍ナンバー2の張学良がトップの蒋介石を兵諌し、反共から国共合作に転換させたからで、ために日本は国共両党を敵にしたまま米国の介入を待ち、大戦に敗北した。

 事は学良のクーデタに端を発したが、合作当事者として共産党側は中央軍事委員会副主席・周恩来が首班となり、国民党代表国には呉達閣がひっそりと加わっていた。ここに南開四羽鴉が、王希天を除いて、関わっていたわけである。希天はすでに大正12年、関東大震災の直後、逆井橋で垣内中尉の軍刀の錆になったものと信じられていた。

 世界史にその名を留めた恩来・学良と違い、奇天と達閣は裏方に回った。日本留学期間が長引いたために自然そういう役割になったのだろう。上原勇作元帥付陸軍特務だった吉薗周蔵が残した手記の『本紀』は他見に供することを予定したものだが、その大正9年条には、達閣と希天に関する以下の記載がある。

 漢方の秘伝を求めていた周蔵は、帝大教授・呉秀三の勧めにより、大正9年10月1日、四谷の「帝國針灸漢方医學校」に入った。授業は古書を筆写させるだけだが、1尺もある白鬚を靡かせた校長の周居應は大変な物知りで、周蔵は直ぐに親しくなり、入学6日目には一杯やるようになった。

 10月11日、周校長から「額田医師と会うから、ついて来い」と命じられたが、周蔵は上原大将から呉秀三を、呉から額田兄弟をと順次紹介された医者たちに、ウィーン大学で入手してきた血液型分離法を報告したことがあるから、「額田には自分も2度会った」と言うと、周先生は「それなら尚、好都合だから」と周蔵を大森の三業地に連れていく。

 「ココハネ 額田ノ 兄貴ノ方ノ 妾ノ家ダカラ、ウマヒ物ガ出テクルカラ、マヅ 食ッテヰレバ 良ヒカラ」とのことで、以後も大森の料亭に何回か相伴した。周居應と額田兄弟がなぜ親しいのか分からないが、料亭では帝国女子医専(東邦医大)の設立に関する人事を相談していた。周蔵も女子医専の薬学部講師に招かれたが、謝絶する。

 一方、周蔵手記の中の、他見を憚る秘事の真相を詳述した 『別紙記載』によると、大正10年3月、周蔵が上高田に住む渡辺政雄を訪ねたら、客人が2人いた。政雄は、公家の堤哲長を共通の祖父に持つ周蔵の従兄弟で、盛岡医専で外科を学んだが結核を患い、野方村の上高田救命院で、療養を兼ねてケシを栽培していた。参考書を探しに行った政雄は、四谷の城西教会の前で2人に出くわしたという。3年前に京都の政雄の下宿で知り合った呉達閣にはさほど驚かなかった周蔵も、もう1人には驚いた。周居應であったが、直ぐにはそれと気が付かない。

 「吉薗サン 私ノ顔二 髭ヲ ツケテ見テ クレナヒカ」ト云ハル。意味が 呑ミ込メンデ ヲルト、『白髪混ヂリノ髭ヲ ココニ 想像シテ 見テゴランヨ』ト云ハル。驚ク。實二驚ク。」

 政雄は周蔵を指して「この人はね、これでも薩摩隼人やからね。日本人の中では1番のコスモポリタンやから、心配はいらんよ」と弁明すると、周は「よく分かってるよ」と答えていた。そんな彼らの会話を周蔵は理解できない。

 コスモポリタンとは国際人の謂である。周蔵の母系の隼人族はインドネシア系海民で、幕府の禁制を破って海外に雄飛していた。そのために仲間待遇を受けたわけだが、政雄から「コスモポリタンとは、別名ユダヤとも言い、国家を持たぬ民族である」と説明されて、周蔵は混乱した。蓋し「君はユダヤだ」と説明されては、混乱するのも当然である。私(落合)のように、「ワンワールド」と呼ぶならば、ある程度は理解もできようかと思う。別紙記載は続く。

 マヅ 辺(ナベ)サン 云ハルニ、周先生ハ 本名ヲ 王キテン(希天ト書ク)トノコト。去年4月カラ 名古屋ノ八高二 入ッタ由。
何デモ オトトシノ前力二 神田デ 演説ヲヤッテ ツカマリ 呉達閣モ ツカマリ、サノ後 支那料理屋ノ2階デ ゴロゴロシテヲッタガ 周先生ハ 四谷二シンキユー帝国医専ヲ 作ラレタ由。

 周居應は偽名で本名は王奇天であった。周蔵より2歳下で25歳の若さなのに、付け髭で老人に変装して帝國針灸専門学校を開き、周蔵どころか周囲を悉く欺いていた。大正4年に来日した奇天は、6年に一高予科に入るが、翌7年に留学生組織「大中華民族救国団」を結成し、5月6日、神田の維新号で秘密会議中を警官隊に急襲された。維新号事件では奇天だけではなく達閣も捕まっていたらしい。40数人の留学生が全員逮捕されたこの事件は、中国近代史の重大事と見えて、奇天伝にも恩来伝にも必ず出てくるのに、達閣に論及した者はいないようだ。

 ともあれ希天は、逮捕の翌8年に八高に入学したものの、病気を理由に休学し、周居應に変装して神田に針灸学校を開いていたのである。翌9年の10月1日、そこへ周蔵が入学したわけだ。

 誰一人トシテ 王ト周ヲ 同一人トハ 思ッテヲラン由。
 「呉(秀三)先生ヤ テンキャフ院(松沢病院)デハ、ダフカ」トキクト、「呉先生モ 知ラヌハヅ」トノコト。仲間ノポール某カ ポンピダフ ナル人物シカ 知ラナイダラフ」ト云フ。

誰一人として、王奇天と周居應を同一人物と気付いておらぬと聞き、周蔵が「私を周居應に紹介した呉秀三教授や、呉先生が院長の松沢病院の関係者はどうか」と尋ねると、「さあ、御存知ありませんやろ。お仲間のポールはんか、ポンピドーはんしか知りませんやろな」と政雄は答える。呆れた周蔵が「王希天とは一体どういう人物か?」と問うと、「今のところ大した者やおまへんわ」といなされた。「ポンビドーの名前なら、さるところで耳にしたが・・・」と突っ込みかけたら、「もうフランスに帰らはったわ。青山学院の宗教指導者や」とのことであった。

 ボール・ラッシュは聖公会牧師で、希天より1歳若く、当時24歳である。公表経歴では、大正14年に初来日して震災後の横浜YMCAを復興し、聖路加国際病院の再建に尽力した後、立教大学の教授として残留した。日本留学中の外人学生のために「東京学生アメリカン・フットボール連盟」を設立し、「日本アメフトの父」と呼ばれる。昭和17年に強制送還されたが、米国では陸軍日本語学校に配属され、戦後GHQ軍人として再来日した。八ケ岳山麓を関発し、清里を開いたことでも知られている。

 この経歴に嘘がなければ。ラッシュは当時まだ日本の土を踏んでいない。そのラッシュを政雄が「王奇天の仲間」と呼んだのは興味深い。佐野真一の『巨怪伝』を見ても、ラッシュの行動は実に妖しい。公称経歴にも裏がある筈で、学生時代の大正8年頃、日本に派遣されたことがあるのだろう。

 ポンピドーについて、警視庁特高は「支那人牧師彭波得」と報告しており、仏人とは知らなかったようだ。報告には、

 「神田三崎町に中華美似美教会を開いていた彭波得が大正9年8月帰国すると同時に、事務所は北神保町の中国YMCA内に移り、代理牧師として王奇天なる者が赴任するも、活動実態なし」とある。特高の認識はそのレベルであった。

 周蔵はしかし、上原元帥の友人でアルザス系フランス人のポンピドー<牧師>なる人物を知っていた。ポンピドーが中華メソヂスト教会を希天に引き継いだのは、「仲間」としての関係だろう。

 漢名の彭波得は、来日前に南開学校辺りで用いていたものを日本官憲が支那人と誤解したものか。どうやら仏人ポンピドーと支那人・彭波得を使い分けていたようだ。

 秘密結社ワンワールドは世界各地で思想・文化・政治・外交工作を行ってきたが、拠点はキリスト教会である。ゆえにエホバを表面に掲げる教会を別として。各派の教義的対立は表面に過ぎず、裏はすべてワンワールドの統帥下で、聖公会のラッシュもメソヂスト教会のポンピドーも、王希天も同じ「仲間」という所以である。張伯苓・張学良も周恩来・呉達閣も勿論その仲間、即ちワンワールド中華支部であった。

 ワンワールドは日本にもいた。慶応2年、鍋島藩校の玄関で宣教師フルベッキを取り囲む志士たちの写真を見よ。 
 

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