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●疑史(第11回) 南開三羽鴉と張学良  落合莞爾   
● 疑史(第11回) 南開三羽鴉と張学良  落合莞爾
 
 
 前回には、周恩来が大正6年、19歳で日本に留学した時、南開学校首脳から何らかの密命を受けていた可能性があることを述べた。また、恩来の日本留学のために同窓生による金銭支援の枠組みを作った呉達閣と恩来の、日本における交流の跡が、当時から意図的に隠蔽されたとおぼしいこと。ゆえに「達閣は、日本における恩来の支援や、南開首脳からの指令を伝えること、などの密命を帯びていた」との推論も掲げた。

 恩来と希天の関係は、仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』にも大書され、世に公然たるものである。日本に留学した南開同窓生の結束は堅く、しかも達閣彼らの棟梁株であったから、希天との間にも恩来相手と同様な交遊があったことは間違いない。この3人は留学当初から志を一にし、目的を共有していたもので、南開間三羽鴉とも呼ぶべき関係にあった。

 その事を証明するのは、たまたま日本で彼らの動向を目の当たりにした吉薗周蔵の手記である。

本稿に取りかかった当初は、周蔵手記によって南開三羽鴉の日本での足跡を具に検証し、それに基づいて彼らと張学良との関係を証明するつもりでいたが、最近のインターネット記事により、実にあっけなく王希天と張学良の関係が割れた。そこで、周蔵手記の紹介を後日に回し、今月はその事を述べる。

 インターネット『人民網』の平成16年11月15日に呉大任が記事を寄せた。発端は平成2年12月6日の新華社電で、「張学良がNHKに対して『私は周恩来らと南開学校で学んだ』と言ったと産経新聞が報じた」との内容だったが、南開学校・大学を出た後、南開大学に45年間も奉職してきた呉大任は、学良が南開学校で学んだとは信じられず、上記記事を、転電における誤伝と判断した。

 学良の言は、正確には「私は南開学校の張伯苓に学んだ」というものだから、産経か新華社が誤伝したことは確かだが、南開と学良との関係に根拠がないわけではない。西安事変前の1936(昭和11)年4月9日、中共中央軍事委員会副主席・周恩来は、張学良の要請に応じ、学良指揮下の東北軍が駐留していた延安に赴き、救国の大計を商議した。その時同席した高崇民は、学良が「我々はみな南開的人だ」と言ったのを聞き、これは「学良が張伯苓に私淑し、自ら弟子を以て任じているとの意味だ」と解釈した、と述べているからだ。

 学良はNHKに、張伯苓の『中国の希望』と題する講演を聴きに行き感銘したと語ったが、今回その時期と場所がはっきりしたわけである。2人の出会いの地は奉天で、時は1916(大正5)年であった。15歳の学良は以後、張伯苓に師事するが、そのことは来月に述べる。

 この年、学良の父・陸軍中将・張作霖は奉天の軍権を完全に掌握し、事実上の奉天プリンスとなった学良は、于鳳至と結婚し、宣教師から英語を学び、白人専用のモクテン倶楽部に特に入会を許可された。当時の奉天は、キリスト教の看板を掲げた国際謀略班が屯するワン・ワールド勢力の一大策源地であった。学良を重要な工作対象として、モクテン倶楽部や奉天YMCAを通じ、ワンワールド思想を注入したのは宣教師姿の謀略要員で、その背後にいたのが張伯苓だったようだ。これは推測というより、張伯苓と学良両人の、その後の行動が証明している。

 そこで、南開三羽鴉の大正5年の動静を見るに、王希天は前年に南開学校を中退して日本に渡り、語学校に通っていたらしい。呉達閣はこの年、<中学四年終了>の形で南開を中退し、日本に渡った。留学資金の目処がたたない周恩来は南開で5学年に進級、翌年に首席で卒業して、渡日した。つまり、3人の渡日の年度は1年ずつずれている。

 南開学校の制度は、1909(明治42)年に来日した張伯苓が、わが学制を真似たものである。旧制中学で首席卒業をとくに囃さないのは飛び級制度のためで、小学5年・中学4年を修了した時点で入試に合格した中退組に比べると、正規卒業組の首席は評価には値しないのだ。南開学校でも同じ伝で、秀才たちは中退して来日したから、首席卒業が必ずしも同期のトップではない。世界の偉人となった周恩来に錦上花を添える南開首席卒業の経歴は、資金事情のために卒業まで在学した結果である。三羽鴉の事跡を見るに、達閣は国民党の1幹部として没したが、生来の力量は恩来に劣らず、王奇天のごときは、才知計り知れぬ上、自ら図って人生を転換した勇気と実行力は、恩来を上回って余りあろう。

 学良は平成13年10月14日、ハワイで死ぬ。インターネット『天健網』平成15年3月11日によれば、吉林省政治協商会議常務委員・王旗は「それまで常に学良の親族と連絡を取ってきた」と言った。希天が吉林に残してきた遺児の娘である王旗は、「当時、王家と張家の交際は、世代を超えた代々のつきあいと言われ、張家には祖父・奇天より5歳下の親友がいた。それが学良であった」と語ったのである。

 吉林一中を学校騒動で中退した奇天が天津に移ったのは18歳の時で、学良は13歳であった。両人を隔てる距離はそれまで参天・吉林間だったが、以後は参天・天津間となる。その長さを思えば、2少年の対面交遊は休暇の期間しか考えられないが、まんざら嘘でもあるまい。

 希天の年譜を考えてみる。1896年8月出生の希天が吉林一中に入学した年を王旗は「15歳で」と言う。一方、仁木ふみ子は「長春県立第一高小を15歳で卒業、1912年に吉林一中に入った」とする。満15歳は1911年で、数え年なら1910年である。つまり中学入学の年度は、王旗説では11年、仁木説では高小を卒業して1年経った12年となる。どちらが正しいか。引き続いて見ていく。

 奇天は「入学2年後に学校騒動で除名された」と王旗は言う。その時期を、吉林一中同学年の孫宗尭の著『私が作った希天病院』は、「1914年秋」とする。王旗は一世代後の父から聞いたものだから、同世代の孫宗尭のいう14年から2年遡った1912年、満16歳で吉林一中に入学した」と訂正すれば辻棲が合う。希天が転入する前年に南開の入試を受けた恩来は、成績優秀を以て2学年に編入せられ、呉達閣と同級になった。両人はこの年3学年だから、希天は南開学校でも吉林と同じ3学年に編入されて、両人と同年生になったのであろう。南開在校1年足らずで渡日した希天と、達閣・恩来との日本に来てからの親密さは、同級生(同年生)のものとしか考えられない。

 その後のことを王旗が「1914年、王希天告別新婚不久的妻子、東渡日本、開始了留学生活」と言うのは、転校時期を13年秋とした結果だろう。さすがに1年は在校したであろうから、転校が14年なら、渡日年度は仁木のいう15年が妥当である。仁木も素より王家の伝承に拠った筈だが、中学入学だけでなく、渡日の年度についても、実際より1年ズレているのに気がつき、自ら修正したものか。修正は妥当と思うが、渡日動機を「21箇条の要求を見た王希天が『虎穴に入らずんば虎児を得ず』として日本に留学した」とするなどは、左傾思想の勝手な思い込みでしかない。ともかくも奇天は3学年で南開を中退し、東渡した。日本留学を志す者にとって、日本で指定学校の入試に合格することが肝要で、中華民国での前学歴など、中退でも何でも、特に問題がなかったのではなかろうか。

その後を王旗が「1915(大正4)年5月、袁世凱が日本政府と『中日軍事秘密条約』を締結したとの報道が日本に届き、王希天と周恩来らは『留日学生救国団』を組織して、条約拒否の運動を始めた」というのは、明白な誤解だ。

 1915年の支那での学生運動は、1月7日に日本が提出した「対支21カ条の要求」に対するもので、日置公使が5月7日要求承認の最後通牒を送り、同9日に外交部長・陸徴祥がこれを受け入れたので、その両日を「中国国恥記念日」とする。しかし、その年には、周恩来は南開学校4年生で天津にいた。同年中に来日した希天も、5月の時点では果たして日本にいたかどうか。

 王旗の言う「中日軍事秘密条約」は、大正7年5月に調印した「日支陸軍共同防敵軍事協定」のことである。付帯して日本軍の駐兵などの秘密協約があり、その代償として日本はいわゆる西原借款を供与した。一高生・王希天は、これに反対する支那留学生の旗頭として留日学生救国団を作るが、これを王旗は大正4年と錯覚した。碌に調べもせずに言挙げするのは固定観念から出た思い込みだろうが、仁木の思い込みの方には、背後に何かの圧力が窺える。『大震災下の中国人虐殺』には特殊な出版事情があると言われる。

 大正7年5月6日夜、神田の支那料理店「維新号」に集まった支那留学生たちは、踏み込んだ警官隊により40数人全員が拘束された。その中には王奇天も居り、京都から来た三高生・呉達閣もいた。留学生たちは徹夜の取調べを受けたが、翌日には全員が釈放され、続々と帰国した。

 この時恩来は、3月初頭の東京高師の入試に落ちた失意の最中で、7月の一高入試を控えていたこともあり、維新号の集会には参加しなかった。恩来の『留日日記』には、「5月6日に本郷に希天を訪ねるが会えず、翌7日の昼に奇天と会い、午後には奇天を横浜港まで送った」と記す。しかしながら、恩来の日記は、奇天と同じく6日に西神田警察署に拘引され、翌日釈放された呉達閣については、一言も触れない。この奇径さについては前回に述べた。

 王旗は「日本潜在期間に、希天は3回日本の当局に捕まり尋問を受けたが、その度に監房を脱出できたのは学良のおかげだった。学良は希天が危機に遭う度に挺身して困難に立ち向かい、父張作霖と日本政府との関係を利用して、希天を救出した」としている。これも家伝だろうが何かの間違いか思い込みで、希天でも他の留学生でも、釈放させるために学良がわざわざ口を利く必要なぞ、毛頭なかったのである。

 歴史問題として、内外で王希天虐殺をあげつらうことも良かろう。希天が斬殺を免れた秘事など、関係者以外には到底知りうる所ではないからである。しかしながら、王奇天の運命を論ずる時、根本にある南開学校と張伯苓の本質に対する洞察を欠くと、歴史的価値の判断を誤まるのではないか。
 来月にその辺を述べたい。
 

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