カウンター 読書日記 ●疑史(第10回) 周恩来と王希天の謎 
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●疑史(第10回) 周恩来と王希天の謎 
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 ●疑史(第10回) 周恩来と王希天の謎

 南開学校を首席で卒業はしたが、学費のアテがなかった周恩来に、同窓生による金銭支援の枠組みを作って日本留学を決意させた呉達閣。この2人が日本に来てからも濃密な連絡を取り合っていたことは、誰が見ても否定しがたい。

 D・ウイルソンは『不倒翁波瀾の生涯』に、大正6年9月に日本に着いた恩来が
「神戸港で旧友の呉の出迎えを受け、すぐに東京へ向かった」と明記し、また翌年初夏に東京高師・一高の入試に落ちた恩来が日本のシベリア出兵に反対する留学生運動に傾いていく様子を「生活は困窮してきた。京都で勉学している呉からの送金は続いていたが、倹約の必要に迫られ・・・」と言う。さらに、学生夫婦で京都に住んでいた達閣が、恩来に「うちへ来て一緒に暮らさないか。そうすれば、きみの京都帝大進学についてゆっくり話し合える云々」と勧めた、とする(★文中赤字は落合氏、下も同)。数ある恩来の伝記作家でも、ウイルソンが最も正確なのは、恩来・達閣の両人に直接取材して相互検証をしたからである。右の神戸港での達閣もその後の送金や京都への招待も事実と見るべきである。

 とすると、通信や送金はいかなる手段に拠ったのか。当時のことに長距離電話なぞ論外で、通信手段は書簡以外には考えにくいが、完全公開と銘打つ『周恩来旅日日記』の記事にも、書簡往来・金銭収支の記録にも、達閣の名は1度も記載されていない。さらに奇怪なのは、恩来が大正7年の秋を京都の達閣方で過ごしたことは疑えないのに、『旅日日記』はその間、何の記録もせず、書簡の往来を並べるだけで、その相手方にも達閣の名は出て来ない。こんな有様は『旅日日記』の本邦訳『周恩来「十九歳の東京日記」』の編集人・矢吹晋ならずとも不審に思って当然であろう。恩来が再来日した7年9月から離日する翌年4月までの日記の欠落期間を、矢吹は 「空白の7ヵ月」と呼び、「この間に若さ日の周恩来がいかに変貌を遂げたかを解明すべき」と断ずるが、同感である。

 ところで私は偶然にも、当時の恩来・達閣両人の京都における動静を記した資料に接した。すなわち第8回で紹介した陸軍特務吉薗周蔵の手記である。特務とは、平たく占えば軍事探偵で、世間に晴れて名乗れない職業だが、これにも表と裏の区別がある。表スパイは軍組織の末端として内部で認められ、経費も官給されるが、裏スパイは軍高官の私的雇い人扱いで、その存在に軍当局は関知しない。吉薗周蔵はそのような裏スパイであった。

 日露戦争からシベリア出兵にかけて、軍事探偵として知られる石光真清は、陸軍予備少佐の肩書を持つ表スパイでありながら、実は参謀総長・上原勇作付の裏特務であった。スパイ文学として世評が高い『石光真清の手記』も、実は建前部分だけを記し、上司として田中義一ばかり強調しながら、上原との関係を隠したものである。上原の命令で周蔵にスパイ教育を施した時、石光は「必ず日誌をつけて置け」と教えた。上官に裏切られた時、スパイが身を守るには日誌しかないからである。また「必要に迫られて日誌を他見に供する時にも最小限で済ますべく、項目別に細かく分けて、別紙に詳述しておけ」とも教えた。石光白身それを守り、子息・真人をして 『石光真清の手記』の編集を得せしめたのである。上原からも直々に「自身で秘密の暗号を工夫し、日時なぞはわざと違え、関係者に迷惑を及ぼさぬように留意せよ」と細かく指導された周蔵が、生涯にわたり記した手記は編年体の『本紀』と、個別事項を詳述した多数の『別紙記載』で構成される。内容はむろん後者が正確で、その中に恩来・達閣・王希天が登場する。

 周蔵と恩来の出会いは、『別紙記載』「九月ニナルト条」にあり、内容は以下の通り。大正6年9月早々、周蔵の祖母ギンヅルが上京してきた。薩摩藩京都邸からの同志で枢密顧問官の高島鞆栖之助子爵が大正5年1月11日に死に、後始末のためである。ギンヅルは甥の参謀総長・上原勇作との用件をも済ませ、孫の周蔵に京都への同行を命じた。公家・堤哲長の妾となったギンヅルは、同家の女中で嫡子・哲長の元愛人だった渡辺ウメノとは、似た立場で親しかった。ウメノの孫の政雄は東北の盛岡の医専に通っていたが、8月に帰郷した時、結核感染が分かり、その治療をウメノがギンヅルに頼んできたのである。周蔵は大正3年にも、ギンヅルの命で京都の御霊前の渡辺医師宅に行くが、家はすでに無く、綾部の大本数本部に越していたウメノを訪ねて、ケシに関する秘伝書を受け取ってきたことがあった。

 東京発の夜行列車で10月10日の昼過ぎに京都駅に着いた2人は、翌日綾部の大本数本部を訪ねるが、ウメノは居らず、書いて貰った地図を頼りに修学院村に引っ越していたウメノを尋ね当て、その足で政雄の下宿に向かう。

 「孫息子ヲ アヅケタル家ハ 佃煮ヤ干物ナドヲ 扱フ店ヲ 
花街ノ方二出シテ ヲルラシイガ 何ヨリ 変ッテヲルハ 下宿モ
離レノ間借リモ 支那人ガ多イ トノコト。コノ孫息子ハ 支那人以外 見タコトガナイ ト云フ」とある通りで、身寄りが死んだため御霊前の家を整理した政雄は、帰郷時には珍味屋の借間にいた。

 右の続きは5月号に掲げたが、要約して再掲する。
 「下宿人の中では呉達閣という大男が目立つ。支那人に間借りされると、嫁を取ったかと思うと、支那から来た友人を引っ張りこんで下宿代は1人分しか払わないが、呉の居候はそう厚顔でもなく礼儀正しい。人品卑しからず、と云った風情とのことで、政雄は大分その居候と親しいようである・・・この文章を書いていると〔日記をつけるのは良いことだ。自分もそうしようと思う〕、他人の物を覗き込んで声を掛けてきた人物がいた。政雄とはかなり懇意であるという支那人の居候で、周と云うらしく、自分で名乗った・・・」

 スパイ日誌の大原則として『別紙記載』に真相を記しておくから、右の通り「大正6年10月12日に周蔵は政雄・達閣らが住む京都の下宿を訪ね、恩来に出会った」と素直に受け取るべきなのだが、従来の周恩来伝は「6年9月に東京に着いた恩来は牛込の下宿に住み、神田猿楽町の東亜予備校に通って日本語を学んだ」とし、6年秋の京都行など論じる者はない。さらに、『本紀』にも「6年10月10日から小菅村に開墾に行った」と『別紙記載』とは異なる内容を記しておることを一概に無視できない。しかし、7年9月4日に一時的な帰国から戻った恩来が、達閣に招かれて京都に行き数カ月間滞在したことは確実だから、『別紙掲載』の京都行が文字通り6年のことなのか、それとも7年の事跡を後から挿入したものか。その検証を済ましていなかった本稿5月号では、とりあえず「大正7年のこと」とした。しかし
今これを修正し断定する。これは正しく大正6年のことだ、と。
 理由は、6年秋の恩来の動静については従来大した資料もなく、伝記は本人らの回想を基に推測したものに過ぎないからである。新規公開の『旅日日記』も、7年元旦に始まるものだから参考にならない。故に、誰も論及していないが、6年9月の来日早々、恩来が京都に来たと推定しても何の矛盾もなく、因って10月12日、恩来が達閣の下宿に居候していた記事は、真相を残すための『別紙記載』でもあり、ことさら疑う必要はないと見るべきだからである。

 とすれば、『本紀』がギンヅルのことも毛頭も記さず、
「10月10日カラ 親爺殿ノ助ケヲ借リテ 小菅村二開墾二行ク。
幸イ 空家ヲ借リルコトガデキ 助カル」とする記載こそ、京都行を隠すために小菅村行きを装ったものと見るべきである。『本紀』にその後の記事なく、いきなり「10月26日夜 帰宅。27日ノ薩摩人集リノ為。西郷邸ニテ。留守ノ間二 誰力来タラシイ。薩摩(治郎八)デアラフ」とするのがその証拠である。

 『別紙記載』の文末は「京都デハ 何度力 松タケヲ食ッタルガ 唯一ノ モフケトナル」とあるが、これで周蔵の帰京が京都で松茸の出盛る10月下旬だったことが分かる。つまり、『本紀』の「26日夜 帰宅」以後は実日付で、『本紀』の記載内容と日付を、ここから実際のものに戻したものと見てよい。

 政雄を連れて東京へ戻った周蔵は、たまたま前月に契約した野方村上高田の借間に政雄を住まわせた。借間と農地を周蔵に周旋したのは、大久保の全龍寺境内に住む請負師の藤根大庭である。折から来日した恩来は、ウイルソンによれば、
 「神戸港で連閣の出迎えを受けそのまま東京へ向った」と言うが、10月末まで京都で居候し、その後上京したという可能性もあろう。東京で恩来は、親切な日本婦人の世話で牛込区の支那下宿に入るが、前回述べた通り、そこは藤根所有の2階建て長屋で、藤根配下の叩き大工の八代一家が下宿屋を経営していた。これは正に因縁かと嘆ずる他はない。

 周蔵が京都の下宿で政雄の机を借りて『別紙記載』を書いていると、呉達閣の居候が来て、日誌を覗きこみ、「自分もこれから日記をつけようか」と言う場面は、『旅日日記』の由来をしのばせて余りある。恩来と親しくなった政雄は、恩来のことを「京都ノ大学二行ク資格アルモ 行カヅ 毎日 見物シテ遊ンデヲル」と評したが、当時の恩来に京大の聴講資格があったのか、それともハッタリか。いずれにせよ、周蔵は恩来の印象を「マルデ 石光サント 同ヂヤフダ。多分日本ヲ偵察シテヲル ノデアラカ」と、感じたままに書き留めた。これは謀者特有の直感で、軽視できぬ。


 周恩来がやがて政治に傾斜していく契機が、日本での受験失敗にあると、伝記家は説く。だが真相は、恩来が南開首席の優秀さを買われ、日本留学に際して早くも南開学校首脳から、秘密指令を受けていたのではないか。恩来のための支援枠組みを作った呉達閣は、南開の秘密連絡員であろう。かく解してこそ、これまで述べてきた数々の謎が解ける。両人間の連絡や送金は、当初から秘密の方法を考えてあった筈である。或いは、恩来が日と場所を決めて達閣と直接会い、南開首脳からの指示や金銭を受け取っていた可能性がある。


 大正7年5月6日、神田の維新号で民国留学生が秘密会議中を警官隊が襲い、逮捕者多数。周恩来伝には、恩来が逮捕を免れたことと王希天の拘束は記すが、同時に逮捕された達閣に触れたものはない。今後掲げる『別紙記載』には、呉達閣と王希天に関して、さらに詳細な事跡が記録されている。 
 

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