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●疑史(第9回)周恩来と呉達閣の謎(続) 落合莞爾 
 ●疑史(第9回)周恩来と呉達閣の謎(続) 落合莞爾  
 
 
 周恩来伝の名に値するのは、まずウイルソンの『周恩来・不倒翁波瀾の生涯』(I)で、公刊されて久しい。次に韓素音の『長兄』(Ⅱ)だが、後で出した割に、正確さや詳しさでIに劣る。近年『周恩来旅日日記』が完全公開され、本邦での翻訳『周恩来「十九歳の東京日記」』(Ⅲ)が出たが、これは恩来が日本留学時代に記した日記に解説を施したものであり、従来の周恩来伝を修正する内容がある。たとえば恩来の来日経路についても、従来説とは違い、大正6年9月に天津を発った後、IとⅡは「天津から第2の故郷・奉天に行き、朝鮮半島を経由して日本に向かった」とするが、Ⅲは「8月に奉天に赴き家族に別れを惜しみ、9月再び天津に戻り船で横浜に着いた」とする。

 後で出てきたⅢが敢えて旧説を覆すのは、新証拠が出たからで、現に、彫刻家・画家として知られる保田竜門(★本名:重右衛門)とも短期間ながら親交があったことが、日記により初めて分かったのである。(★Ⅲ p112に コラム「画学生保田」がある)しかしながら、Ⅲには、恩来に日本留学を決意させた呉達閣の存在と事績を意図的に抹消した疑惑がある。そのことは前月号で述べた。

 尤も、I・Ⅱがあげつらう呉達閣の話にも疑惑がなくはない。南開同級生の達閣の来日が恩来より1年早い不審については前月号に鳴らしたが、同じく政府給費生として来日したという達閣の妻の話にも不審がある。当時、日華間の政府間協定では、民国政府の給費対象は特定校の入試合格者に限られた。すなわち旧帝大・旧制高校(第一~八校)・東京高師・東京高工・千葉医専だが、そのうち女子の入学を許したのは東北帝国大学だけで、むろん京都に住んで通える場所にはない。とすると、京都近辺の女子学校に通った筈の達閣夫人が受けた政府給費は特殊で、それがいかなるものであったか、見当も付かない。要するに、あり得ないと疑うのだが、従来の伝記作者ないし編集者に、この点を糾した様子はない。

 また、留日学生への民国政府の給費額が月額50元(邦貨50円相当)というのは、敢えて疑うわけではないが、その巨額に感心せざるを得ない。女子も同額だとして、呉達閣夫妻は合わせて月額100円になるが、これは帝国海軍大佐の年棒1200円と同額である。大佐ともなれば必ず女中を置き、主人夫妻、子供数人および老父母との生活をすべてそれで賄ったほどで、独身学生に対して月額50円は大佐以上の生活を保証する大金であった。『旅日日記』中の収支メモによれば、周恩来は、呉達閣の作った支援枠組みにより、南開同窓生から実際に月額50円近くの支援を受けている。つまり、恩来は通常の日本人学生よりも、遥かにゆとりのある留学生活を送っていたのである。

 初めて東京の土を踏んだ恩来は、Iによれば、「当時、中国留学生の面倒を良く見ていた親切な日本婦人の世話で、他の留学生と一緒に、牛込の山吹館という映画館の近くの大工の家の2階に下宿した」といいⅡも「南開学校の同窓生の世話で牛込区の大工の2階に下宿した」と言うが、これは同じ下宿とみて間違いない。しかし、Ⅲだけは「牛込区の家具屋の2階に陳某と同室し、以後家賃の安い部屋を求め転々とする」と、敢えて異を唱えている。Ⅲにはそれなりの新証拠があるのだろうが、示されていない。

 新証拠といえば、近年耳にしたのは、「下宿は牛込箪笥町にあり、建物は新宿大久保の全龍寺地内に住んでいた藤根大庭という請負師の持物で、2階建ての三軒長屋に藤根配下の大工の3所帯が住み、女房たちが内職として、それぞれ支那留学生を置いていた」というのである。恩来の大家は八代という叩き大工で、運送屋も兼営していた。この話の証人・池田チヤは明治41年生まれ、今も存命で記憶も鮮明で、恩来のことは姉から聞いたのである。チヤの上京は大正15年だが、姉のツヨミは早くから在京で、大正8年から藤根の家に下宿していたから、藤根夫妻は勿論八代とも面識があり、周恩来のことなどを聞き、妹に伝えたのである。ツヨミの仕事は、中野小淀(現在中野区中央)に吉薗周蔵が聞いていた精神力ウンセラー中野救命院の秘書兼看護師であった。

 後にツヨミの夫となる周蔵は、大正元年、陸相上原中将から「上原勇作付特務(★草)」を命じられ、特殊なケシの栽培に携わっていたが、大正5年に参謀総長上原大将の命を受けて欧州に渡り、ウィーン大学医学部に潜入してラントシユタイナー教授から血液型分離の理論と方法を入手した。大正6年6月に帰国した周蔵は、翌月、同じく上原の下で働く若松安太郎(本名:堺誠太郎)から紹介された藤根に、ケシ栽培のための耕作地の手当てを依頼した。藤根が野方村上高田(現在の中野区)に適地を見つけて周蔵に斡旋したのは9月だったが、その頃に来日し、八代の下宿に入ったのが周恩来だった。因みに、恩来の名が記憶された所以はいかにも尾篭な話で、彼の排泄物がことに大きくて、これは大物の証拠だと大工の女房たちが噂したからという。

 Ⅰについては、「他の留学生2人と一緒に」というのがチヤの話の「三軒長屋」とよく符合し、また「当時、中国留学生の面倒を良く見ていた親切な日本婦人の世話で・・・下宿した」という内容も、Ⅱ・Ⅲより詳しい。チヤによれば、八代はクリスチャンというから、民国留学生たちに下宿を斡旋していた例の婦人は、キリスト教の信徒仲間ではなかろうかと思う。つまり、その婦人が、教会の線から南開学校出身者の世話に当たっていたと考えれば、これも符合する。

 ところで、八代は思わぬことでその風貌を今日に留めている。周蔵と藤根が物心両面で支援していた美校生徒・佐伯祐三が、八代の肖像画を残したからである。大正9年秋、佐伯は池田米子との結婚のため、アトリエ付きの家(現在は新宿区立佐伯記念館)を下落合六六一番地(現在:新宿区中落合)に建てるが、庭地は金貸しを兼ねていた藤根が妻の親類に当たる酒井億尋(後に荏原製作所会長)の名義で所有していた土地の半分を貸してやったのである。アトリエの建築には、伝記では佐伯自身と美校の同級生たちが手伝ったとされているが、素人だけで建てられるものではない。佐伯が文案して周蔵に筆記せしめた「救命院日誌」に「大工ハ 八代サン 経師ヤ(屋)ハ 幡谷ノ小川サンニシタ」と明記してある通り、アトリエを建てたのは八代であった。今日、角刈りの職人の顔の絵が、『運送屋』とか 『Y氏の肖像』という題を与えられて、幾つか佐伯祐三画集に出ているが、これこそ八代の肖像である。

 以上で、恩来の下宿の大家が運送屋兼大工の八代であったことは疑いない。大工の傍ら家具も作っていたこともあろうから、Ⅲも全く誤りとはいえないが、総じて、正確さでは、旧説たるI・Ⅱの方がⅢよりも勝り、さらに詳しさの点では1番早く出たIが断然である。著者年代の新しさに比例して内容が粗雑・不正確になっているのはおよそ伝記の常識に反する傾向であるが、これは、周恩来だけではなく呉達閣にも直接会って取材したウイルソンの作業が1番正確であったと理解しても、問題は後発の2者、ことにⅢが、ウイルソンに敢えて異を立てる点にある。

 日本留学時代の周恩来を調べたならば、謎を感じるのが正常の史家精神であろう。最大の謎は呉達閣との関係である。恩来をして日本留学を決意せしめた者が達閣であることは前月号で立証した。ところがⅢは、呉達閣についての論述をI・Ⅱよりもはるかに後退させており、編集上で何かの細工が感じられる。尤も、問題の根本はⅢの根幹たる『周恩来旅日日記』の原文(完全公開とされている)にある。そこには南開同窓や恩師との間の夥しい書簡の往来や金銭貸借が記されており、これを見るに、恩来も南開同窓の友人たちも実に筆マメで、毎日のように書簡をやり取りしていて、その中にはむろん王奇天もいるのだが、不思議なことに、呉達閣との通信記録や金銭のやり取りは1回も見られない。それどころか日記の文中に呉達閣の名さえ出てこないのである。

 だいたい、もともと恩来支援の枠組みを作った達閣が、たとい留学地が京都であったために金銭の直接やり取りが疎遠になったとしても、行きがかり上送金くらいはすべき関係であり、金銭事情が変わったとしてもせめて書簡くらいはやり取りした筈なのに、その記録がまったくない。何かの理由で2人が絶交したのかと思うと事実はその反対で、Iは、大正7年(来日の翌年)東京で一高・高師の受験に失敗した恩来に対し、「京都に来て自分らと同房し、京大の聴講生になるようにと達閣が勧めた」と明記している。夏休みの一時帰国から再来日した恩来が、その後京都に行って達閣夫妻の下宿に滞在したことは、「雨中嵐山」の詩があるから誰も否定できないのだ。

 ところが、『留日日記』には、この期間の記載がまったくない。Ⅲの編集者・矢吹晋はさすがに無視しえず、「『東京日記』が大正7年12月23日に途絶えてから、翌年4月5日、帰国の途上、京都・嵐山で『雨中嵐山』を詠むまで、この間の周恩来を物語る資料は実に少ない。そして、この空白期の周恩来を伝記作家たちはさまざまに書いている。代表的な説を二つ紹介しておこう」とし、金冲及主著『周恩来伝』では、再来日後の恩来は神田三崎町にあった王樸山の家の二階に寄宿していたが(浪人ながら模範生)、8年3月に三高生呉達閣の所に潜在して、4月に天津に向けて帰国した、とすること。一方、ウイルソンのIはこれと対照的で、7年秋には恩来は京都の呉達閣夫妻の家に身を寄せていたが、酒びたりであったことを示唆している、と紹介したうえ、「しかし、実像は知れぬ・・・日本で受験に失敗して以来、ほぼ空白の7ヵ月・・・この間、はたして若き周恩来は、いかに変貌を遂げえたのか。この『東京日記』の最大のテーマは、その空白を読むことかもしれない」とする。

 さらに「空白の7ヵ月」と題したコラムに「東京に戻った9月以降、周恩来日記の記述は極端に少なくなる。ほとんど手紙の発信と受信のみした記述がない。これは、もともと記述がないのか。
 それとも公表をはばかり編集者が削除したものか、 理由は不明である」とする。
 傍線(★ここでは赤色文字にした)は私(落合)が引いたが、ここに力点がある。完全公開と銘打たれた『留日日記』を、そのままは信じないという矢吹氏を、正常な感覚と評すべきである。

 事実はどうだったか、それは来月を待たれたい。

 

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