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●疑史(第8回) 周恩来と呉達閣の謎 
                      周恩来東京日記_1


 ●疑史(第8回) 周恩来と呉達閣の謎  落合莞爾   
 

関東大震災の直後に行方不明になった民国留学生・王希天、彼を親友と呼び、その安否を外務省に尋ねてきた張学良。前月号で両者の接点の謎を取り上げたが、この両人を結ぶのはモクテン倶楽部、南開学校、中華YMCAなどメソジスト教会の線であろうと私は推定している。

 今から南開学校の同窓、すなわち王希天・周恩来・呉達閣の三角関係を探っていくつもりだが、今回は恩来と達閣の関係について考察する。恩来の青年時代を語る有力資料は現在3つある。第1はディック・ウイルソン著『周恩来―不倒翁波瀾の生涯』(1984)で、以下Ⅰと謂う。第2は韓素音(ハンスーイン)の著『長兄』(1994)で、これをⅡと謂う。第3の矢吹晋編『周恩来「19歳の東京日記」』(1999)は1998年に公開された『周恩来旅日日記』の完訳で、解説に伝記的性格があるので、以下Ⅲと謂う。この他にも各国で恩来の小伝が幾つか出ているが、内容乏しく且つ偏り、正確さも欠くので、ここでは取らない。

 韓素音はIを、矢吹はIとⅡを参考にしているから、上3著の間の相違点は各著者が前著を見ながら敢えて異を立てたもので、真相の探究において最も注目すべき点と言えよう。ゆえに、以下そこに焦点を当てていくが、著者による誤解や錯覚レヴェルでの差異はこの際問題にしない。

 まず注目したいのは、周恩来が日本留学を決意した事情と周囲の環境である。大正2年、奉天の小学校を卒業した15歳の恩来は、天津の南海学校(旧制中学に相当)の入試を受け、成績優秀のため飛び級で四期生(2学年に相当)に編入された。大正6年に第1期を終了し、首席として卒業式で答辞を述べた6月26日には、恩来の進路はまだ定まっていなかった。原因はただひとつ、経済問題である。

 Ⅰによれば、校長・張伯苓から米国留学を勧められたが資金のメドが立たず、安上がりの日本留学すら無理であった。問題は学費と生活費で、当時の日本では民国留学生の苦学なぞ不可能であった。費用のメドなくして日本留学を企てる者はいないから、9月に渡日した恩来が、渡航前に学費問題を解決していたのは間違いない。そこで、上の3著はこの点をどう考えているか。

Ⅰによると、恩来の学費閣題を解決したのは級友・呉達閣である。すでに日本留学していた達閣は、妻も政府給費生で、3人の給費生仲間と他1人に呼びかけ、給費額の2割に当たる10円ずつを毎月出し合い、恩来に資金援助することを決めた、という。この話をウイルソンは恩来から聞いたのか、それとも1980年6月に台北で会った呉達閣から聞いたのか、どちらが先にせよ、当事者双方に確認した筈である。これが正しいならば「達閣が費用を保証したので、恩来が日本留学を決意した」ことになる。

 Ⅱも、「恩来は金に困っていたので、彼より余裕のあった呉達閣ほか数人の留学生が月10元ずつ出し合った」というのは、Ⅰの事実認識と基本的に同じだが、周夫妻に10回以上会って取材した韓素音は、こんな重大点は恩来自身に確認した筈だから、単なるパクリとは思えない。ただⅡでは支援が自然発生したようにも受け取れるが、これはIのように、「留学前に予め話しが付いていた」と解した方が理に適う。後述のように、実際の恩来支援は達閣を抜きにして行われており、また達閣の話については細部に疑閣点もあるが、「達閣が予め恩来の留学費を保証した」ということ自体は、両当事者が認めたものと思える。つまり、これが正しいのである。

 Ⅲは、「ともに日本に私費留学する南開学校の同窓生たちが少しずつ留学費用をもちよって、周恩来の滞日生活費を捻出することとなった(収支メモ参照)」というが、時制は渡日以前を指している。つまり、政府給費は日本で入試に合格した後に与えられるものだから、それまでは私費留学なのである。また、こととなった、とは「予め定められた」という意味である。つまり、渡日前に同窓生による資金支援が決まったと言うのだが、主唱者の名を挙げず、当然達閣の名前はない。

 月額10元の支援を約した同窓生たちは、留学環境が激動したためか約束通りではなかったが、曲がりなりにもそれに近い金額を恩来に提供した。すなわち「収支メモ」によれば、大正6年9月~同7年12月の16か月間に、合計70元前後を支援した李衝ら3人が筆頭格で、他に10人ほど40前後の支援者がいて、合計して平均すれば、月額50元に近い金額になっている。この支援の枠組みを作ったのは遠閣の筈だが、その達閣は遠く京都にいたにせよ、「収支メモ」に名前すら出てこないのだから、Ⅲの編者が「先著がいう達閣の支援関与については敢えて無視した」と弁明すれば、咎める訳にはいくまい。

 ところでⅢは、恩来の渡航費用について「南開学校理事長・厳範孫が援助を申し出たもので」とし、「厳の子息・厳李衝が東京美術学校に留学しているのを頼って恩来は留学を決意した」と付け加えている。「留学決意の根拠」を、何とこんな所へ持って来たのである。

 ここで「頼る」とは金銭面のことしかない。しかし、恩来のパトロン厳範孫は、渡航費ならばともかく、潜在費用の面倒をみるのは到底ムリで、それがそもそもの問題であったのに、その息子の1留学生に、どうして留学生活の保証を求められようか。しかも、この2人は日本で初めて知り合った仲であった。大正7年2月1日、米国留学の準備のために帰国する李衝の下宿に転入した恩来は、同3日の日記に「自分が南開にいた時、李衝はすでに南開を去っており、2人が知り会ったのは去年の秋で、ひと目会うや旧友のように仲良くなった」と記している。李衝の支援額はたしかに南開同窓生中でも筆頭格であるが、これは達閣による根回しに応じたものであり、金額もダントツというほどでもない。李衝は、父が恩来を最も気に入り、妹の婿に所望したことも知っていただろうが、逆に恩来からすれば、いかに恩師の子息とはいえ、顔を見たこともない李衝を頼って日本留学を決意したなぞあり得まい。こんなマヤカシを、Ⅲの編者が書いたのは何故か。

 いやしくも周恩来の評伝という以上、「日本留学を決意した根拠」の解明は不可欠で、現にIはこの責任を果たしている。Ⅱはその責任を自覚していないが、これは訳者の川口洋が「第三者的な観点からする伝記ではなく、むしろ周恩来への讃歌であり、敢えて言うなら『恩来へのラヴ・レター』になっている」と評するほどのものだから、責めても始まるまい。ⅢはIと同じく、「同窓生の支援の約束」があったことに言及しながら、主唱者としてI・Ⅱが挙げる呉達閣を無視した。その代わりに、厳李衝を担ぎ出してマヤカシを書いたわけである。

 しかしこれは、Ⅲの編者矢吹晋のせいとは思われない。矢吹は、大正7年9月から翌年4月までの7か月間、『旅日日記』には往復書簡の相手を記載するだけで、行動記録が一切ないことを取り上げ、「これはもともと記述がないのか。それとも公表をはばかり編集者が削除したものか。理由は不明である」と述べている。また前述の期間を「空白の7ヵ月」と呼び、「この『東京日記』の最大のテーマは、その空白を読むことかも知れない」としている。つまり、矢吹は、初の完全公開をうたう『旅日日記』が、実は中国の編集者に加工されている、との疑いを強く持っているらしい。

 その7か月こそ恩来が京都で達閣夫妻の下宿に居候していた時期であるが、実はその頃、京都で呉達閣と周恩来に出会った人物がいて、記録を残していた。すなわち吉薗周蔵である。その記録の一節を以下に掲げる。

「呉ナル大男ガ トクニ目立ッテヲルヤフダ(中略)。
 満人ニテ 大道芸人タル様子ノ大男ニテ 武芸ニ長ケテヲルヤフダ(中略)。
 カレヲ書ヒテヲルト 「日記ヲツケルハ 良ヒコトナリ。自分モ サフシヤフカト思フ」ト 他人ノ物 ノゾキコンデ声ヲカケタル 人物ガヲル。
 孫息子(注・渡辺政雄)ト 大分懇意デアルラシヒ 支那人ノ居候ナル人物 周ト言フラシヒ。名ノラル。京都ノ大学二行ク資格アルモ 行カヅ 毎日見物シテ 遊ンデヲル由。
マルデ 石光サント同ヂヤフダ。多分 日本ヲ偵察シテヲルノデアラフカ」

 吉薗手記の内容からして、大正7年秋のようである。吉薗に周と名乗った居候こそまさに恩来であった。Ⅰによると、三高生だった達閣は恩来を何度も京都へ誘い、一緒に住んで京大に進むことを勧めた。そのつど断ってきた恩来が、とうとう京都へ来たわけである。「恩来が、京都大学の聴講生の願書を神田の住所で書くには書いたが、提出したかどうか分からない」と、Iは言う。いずれにせよ、恩来は吉薗に、京大の聴講資格があることを告げた。それなのに大学には行かず、ただ京都市中を徘徊する恩来の姿を、吉薗は知人の軍事探偵・石光真清に重ね合わせたのである。

 Iが達閣のことを詳しく書くのは、ウイルソンが本人から直接聞き、恩来もそれを裏打ちしたからである。達閣は南開同窓生の中でも恩来との関係がことに深かったが、それがⅡでは薄められ、Ⅲにあっては、「収支メモ」が前面に出て、達閣の存在感は消滅し、その事績の一部は厳李衝が吸収してしまった。
これは、南開大学ないし中国共産党に、呉達閣の存在を抹消したい事情があるからと思われる。★その背景には西安事変後の国共合作の際の共産党代表・周恩来と国民党代表・呉達閣との邂逅の1件があると思う。つまり、西安事変の真相に関わっているからではないか。

 詳細は来月号に回すとして、ここでは呉達閣についての疑問を示しておかねばならない。各伝記は、達閣夫妻が給費生となって先に来日していたと言う。日華間の政府間協定で、民国学生が日本で一定の学校に合格すると、民国政府から費用が下りた。よって来日後1年ほど日本語学校に通い、翌年入試を受けるのが普通である。とすると、恩来と同級の達閣は、大正5年に南開を1年早く修了(中学4年修了に相当)して来日し、翌年、三高に合格したことになる。学年首席の恩来を上回る秀才だったことになるが、信じていいのか? 
 

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