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●疑史(第7回) 周恩来と王希天の謎
●疑史(第7回) 周恩来と王希天の謎 落合莞爾

 (*言わば、大杉栄 暗殺の真相 追究の旅です。)
 


 近代中国の建国者としてわが国でも信奉者の多い周恩来のことは改めて語る必要もないが、周の天津南開学校の同窓で親友の王希天についても、やや知られてきた。

 王奇天は日本留学中、僑日同胞労働者の支援と保護に力めていたが、関東大震災直後の大正12年9月12日に亀戸警察署の玄関を出て以来、行方は杳として知れない。情況からして陸軍将校あたりに暗殺された疑いが濃厚で、事件直後は国際的にも問題になったが、陸軍と警察当局の方針で、亀戸事件や大島町事件などの震災直下の虐殺事件とひとまとめで曖昧化されてしまった。

 戦後やや経って公的資料の情報公開が進み、関係者の日記や証言も出てきた。これに基づき多くの研究家が王希天失踪事件の解明に取り組んだ結果、情況がしだいに明確になり、暗殺の疑いがいよいよ確実視されるに至った。つまり、帝国陸軍軍人による王希天の虐殺は、今や歴史的事実として確定されたと言ってよい。

 しかし、たまたま王奇天と生涯親交した吉薗周蔵の手記、それも自筆の実物に接した私は、そこに王奇天事件の驚くべき真相を発見した。王希天は暗殺を免れ、日本人に化けおおせて長生きしたのである。研究の結果、手記の内容が真実であることを確信したが、ついでに周恩来について歴史家が触れなかった一面を発見し、ひいては世界を震撼させた西安事件の真因についても窺うことができたので、以下数回にわたり披露することにしたい。

 周恩来と王奇天の親交は確定された歴史事実である。1898年3月5日江蘇省准安県に生まれた恩来は、1910年春に満洲奉天に移り、伯父の厄介になる。同年秋に奉天第六両等小学堂(のち東関模範学校)6年生に編入され、翌年瀋陽模範学堂に入学したが、1913年には伯父の転勤に伴い天津に移り、同年9月に南開学校(中学校相当)に入る。

 一方、王希天の経歴については、日教組婦人部長・仁木ふみ子の著『震災下の中国人虐殺』によると、奇天は1896年8月5日、満洲吉林省長春東の近銭堡に生まれた。父の王立廷は皮革商を営む富豪で、その邸宅の跡は今も「王家皮舗」という地名に残っている。家塾で勉強した希天は12歳で小学校に入り、1年で卒業、さらに長春第一高等小学校を卒業し、1912年に吉林第一中学に入学するが、1914年秋に学校紛争のため退学する。その後は天津の南開中学に転校したと同級生の孫氏は証言する。他には、奉天鉄路学校へ行ったとする謝介眉氏『王希天小史』の説もあるが、伝聞で信用できない。ともかくも王希天は、南開学校には周恩来より1年遅れて転校してきたのである。

 中国側のホームページ「長春の 」に王希天の項があり、奇天は大正3年18歳の時、新婚まだ日が浅い妻子に別れを告げて中華民国留学生として日本に渡るが、大隈内閣と袁世凱政府が21箇条の条約を結ぶという情報に接し、同じく日本に留学していた周恩来と留日学生救国団を作り反対運動を始めた、などとしている。仁木の年譜とはかなり相違するが、この「長春の 」にはデタラメが多く、本当は奇天の来日は大正4年で、留日学生救国団の攻撃対象も、正しくは大正7年5月に段祺瑞が結んだ日中陸軍共同防敵軍事協定と西原約款なのである。こんな具合で、仁木説が類書では最も正確のようだ。

 大正4年に来日した王奇天は、以後東京で日本語を勉強し、大正8年には第一高等学校予科に入学し、東京帝大の採鉱冶金学科を目指していた。周恩来の来日は希天に2年遅れ、大正6年9月である。来日後も2人の交友は続き、近刊の『周恩来十九歳の東京日記』(矢吹晋編、鈴木博訳)には、恩来が奉天から大正6年に5円、また同7年3月に5円を援助されたとの記録があり、また希天から恩来への来信の記録もしばしば見られる(周と王の関係の証拠)。

 また、ハン・スーインの著した周恩来伝記『長兄』によると、恩来は南開学校で満洲出身で長身の逞しい男、呉達閣と親しくなり、後の大正7年秋、京大留学中の達閣の下宿に5カ月間も居候したとある。驚いたことに、吉薗手記には、吉薗の従兄弟の渡辺政雄がたまたま達閣と親しく、同じ下宿に居て、政雄を訪ねた吉薗がそこで居候の恩来に出逢う記録がある。さらに大正10年3月、野方の上高田にいた渡辺政雄を呉達閣と王希天が訪ねてきて、たまたま居合わせた吉薗に逢う記載もあり、南開学校同窓の3人の関係が日本でも続いていたことが判る(周と王と呉の関係の証拠)。

 以上、ハン・スーインの『長兄』を突き合わせることで、吉薗手記の信憑性が裏打ちされたが、ハン・スーインは、王希天については何も触れていない。ハンは、伝記の参考資料として『周恩来日記』を活用しているが、そこから容易に知りうる王について全く注目しなかったのは、この世界史的人物の評伝において、王の虐殺なぞごく卑小な事柄と観たからであろう。

 しかしながら実は、王は西安事件の真相を解く鍵として、極めて重要な存在なのである。それは、西安事件には南開学校同窓生の友人関係が潜み、周恩来と張学良が以前から繋がっていた証拠が王希天の存在だからである。1901一年生まれの張学良は、周より3歳、王より5歳の年下になる。学良は1928年に爆死した父の権力と地位を継いで、国民党副総司令に就いていたが、1936年12月に西安事件を起こし、国民党総司令・蒋介石を拉致監禁して容共抗日を迫り、共産党の周恩来が両者を仲介して国共合作を成立せしめた。

 古野直也『張家三代の興亡』によれば、学良はこの計画を前年から立てていたと推定される。学良は、4月9日に空路延安に飛び、第一次張学良・周恩来会談を行うが、この時に中国共産党への入党手続きをしている。蒋との交渉を周恩来に仲介させることも当初からの計画であった・・・。

 そこまで推定した古野も、周と学良との古くからの友人関係には、さすがに考え及んでいない。しかしながら、空路敵地に降り立ち、相手に直に会い腹を割って話す、という発想自体一種の「暴挙」である。事実、ナチス副総統ルドルフ・ヘスもチャーチル相手に同様の企てをして失敗し、長い後半生を囮圖で暮らした。周恩来が学良にとって全く未知の相手だったなら、こんな発想は浮かばなかったに違いない。

 仁木前掲(『震災下の中国人虐殺』)は、次のように記す。「王奇天事件に関する日本側資料は参謀本部の『密大日記』に2件見えるが、何れも外務省外交史料館(麻布)にあるもので、その1件は11月27日、奉天・船津総領事の手紙で、張学良からの親友・王希天の捜査依頼を報じるものである・・・」。早速、外交史料館で船津書簡を探してみたがまだ見つからない。しかし船津辰一郎は大正12年8月15日から翌年2月2日まで確かに奉天総領事の職に就いており、上記の仁木説を信じてよいと思う(王と張の関係の証拠)。

 仁木の虐殺弾劾家としての思い込みと偏った修飾語を止むなしと見れば、調査そのものは良心的である。仁来の間違いはただ一つ「王奇天が虐殺された」とする結論の部分だけなのである。虐殺追究にとらわれ過ぎたため、世界史的に見て王希天の失踪なぞより遥かに重要な史実「張学良が王希天の親友だった」ことを発見しながら、その意義を考察する余裕を持ちえなかったことは、仁木のため大いに惜しまれる。

 以上から、いやでも周と王、そして王と張の深い関係を無視するわけにはいかぬ。つまり、恩来と学良は、王を介して間接的にせよ辱知の仲であった。とすれば、学良が蒋介石を兵諌し、恩来の仲介によって国共合作を実現した西安事件の真相は、歴史の定説とはかなり違うことになる。国共合作の鍵が張学良と周恩来との信頼関係にあることは、深く考察したなら誰しも思いつくだろう。だが両者の関係を遡って調査した史家は見当たらず、両者の関係が少年時代に淵源することを指摘した者もいない。無能揃いではあるまいから、気付いた者もいて当然だろうに、知らぬフリをしているのなら、それこそ史家が本当はバカでない証拠であろう。

 王希天と周恩来の関係は南開学校の同窓で明白だが、問題は王希天と張学良の親友関係にある。ともに満洲生まれで少年時を満洲で過ごしたとはいえ、満洲は広い。いつ何処で知り合ったのか。とにかく2人の少年時代の年譜を見てみる。学良は奇天の渡日時には13歳で、以後も少年期には奉天を離れなかったと思われ、奉天に2人の接点はなさそうだ。学良は1955年にクリスチャンになったが、16歳で白人宣教師の本拠・モクテン倶楽部に入会を許されており、入信の素地は少年時代と思われる。結局2人の接点は奇天の日本留学時代に南開学校を介したものと推定される。 
   続く。 
 
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