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 ●高島鞆之助と樺山資紀(5)
「疑史」(第45回)

 ●高島鞆之助と樺山資紀(5) 


 維新後の日本を担う三大権力のうち、太政官を大久保、軍部を西郷、宮中を吉井と、薩摩三傑が要所を押さえた。英国からの工作で幕末に薩摩藩士が結成したワンワールド薩摩分派は、維新直後は西郷・大久保・吉井の薩摩三傑が分掌していたが、明治11年までの西郷・大久保の死によって、吉井友実が総長に就いたと考えられる。吉井は両傑が非業の死を遂げた後を長生きし、明治24年4月22日64歳で没するが、死の前月まで就いていた宮内次官は表看板であったのだ。

 薩摩藩が抱懐した二大理念は、伝統的な士族主権とワンワールドが教えた近代化であったが、両者の矛盾がしだいに高まり、前者の代表たる西郷(代弁者は桐野)と後者の代表大久保の間で雌雄を決するの已むなきに至った。吉井は両雄から等距離にいて1歩引き、肩書も下級に甘んじたが、これは意図的で、薩摩藩には民意におもねることなく隠然裡に事を運ぶ気風があり、それがワンワールドの総長哲学と合致したのであろう。

 吉井は宮内省を場として、薩摩の二大理念を弁証法的に帰結させ、薩摩総長に就いたものと観られる。その後継には大山巌と高島鞆之助が有力となった。勝海舟が大久保を継ぐべき人材と観ていた村田新八は、4年11月に岩倉使節団に入り外遊2年、征韓論に敗れた西郷の帰郷を聞き7年に帰国、直ちに西郷を追って薩摩に戻った。村田は吉井と高島の中間の年齢で、欧州でワンワールド哲学の研修を重ねていて、吉井の後継者として最短距離にいたが、西郷を選んで自らその立場を放擲したので、お鉢が高島と大山巌に回ったのである。

 維新後の日本を担う三大権力のうち、太政官を大久保、軍部を西郷、宮中を吉井と薩摩三傑が要所を押さえた。宮中改革を企てた三傑は、宮内卿に大納言・徳大寺実則を推した。鷹司家の出で維新にも主体的に関わった実則はただの公卿ではなく、三傑とは固より腹を合わせていた。吉井は宮中改革を実行するため、明治4年7月自ら宮内省に入り、大丞となった。大輔・万里小路博房と少輔・阿野公誠は飾り物で、11月に阿野の後に少輔に昇進した吉井は、形式的には宮内ナンバー3だが、事実は徳大寺と共働して宮中を運営し、薩摩藩では西郷の片腕の村田新八が宮内少丞、高島鞆之助が侍従となり、共に吉井を補佐した。官位相当は宮内卿が一等宮、侍従長(東久世通禧)と大輔(万里小路博房)が二等宮で、少輔(阿野公誠から吉井に代わる)が三等官、大丞が四等官、少丞が五等官である。高島ら侍従は六等官で、陸海軍中佐と同格であった。

 侍従は臨幸に際して天皇車駕に供奉した。例えば『明治史要』5年3月29日条に「車駕南校二臨ミ、教頭米人フルベッキ等ノカヲ訓導二致スヲ慰労」とあるが、このような時には高島らが阻従したのである。5年4月30日に侍従番長 (五等官で少丞・大佐と同格)に昇進した高島は、5月23日からの天皇の西国巡幸に供奉する。『巡幸日誌』によれば、日進艦に御した車駕は6月12日六連島燈台を覧るが、予定していた下関の桜山招魂社への還幸は干潮のために中止し、代わりに高島侍従番長を遣わして、戦死及び命を国事に落とした者を弔った、とある。開拓使主席判官として北海道開拓に尽くした佐賀の島義勇は秋田県権令になっていたが、7月侍従番長に転じ、幕臣山岡鉄舟も西郷隆盛の依頼により侍従番長に就く。翌年には薩摩藩士高崎正風も侍従番長に挙げられ、この外米田虎維(土佐)、有地品之允(長州)が侍従になった。明治新宮廷の規則は、午後4時まで天皇と女官の接触を禁じたが、これは天皇の近代的君主としての素養を高めるためとされ、武士出身の侍従が側近に置かれたから、天皇は高島・山岡らを相手に武芸に励むことも多く、高島が天皇の馬術を鍛えたと言われる。しかしながら、この規則には隠れた理由があるようで、京都御所以来の公家と女官から新帝を隔離したフシがある。確かに侍従の面々は、帝徳涵養の師友というより、ボディーガードと呼ぶのが相応しい。

 維新直後、宮廷改革を重視した薩摩の動きを長州が黙過する筈はなく、太政官に木戸、軍部に山県(広沢の代役)、宮内省に杉孫七郎と有地品之允を入れて対抗しようとした。長州藩士の上士に生まれた杉は天保6年生まれ、吉井より7歳の年下で、幕末の藩命留学生として井上馨・伊藤博文ら長州ファイブの師匠格に当たり、当然ワンワールドの洗礼を受けていた。4年10月に村田新八の後を受けて宮内少丞となった杉は、5年7月秋田県令に転じるが、6年5月には宮内大丞として再び吉井の下に入り、7年3月に吉井が宮内省を辞めるや後任の少輔に昇格、10年には大輔に昇格して15年まで勤めた。翌16年には特命全権公使としてハワイ皇帝カラカワの即位に参列し、その後も皇居御造営事務局長や皇太后宮太夫など宮中の要職を兼ねた。杉の経歴は。<長州の吉井>と称しても差し支えなく、常に吉井の1歩後を歩んでいた。今は学校歴史に無視された杉だが、20年に子爵を授かり、最後は人臣の極みたる従一位に叙せられている。ここまで吉井と似ているところから、どうやら杉こそワンワールド長州派の棟梁と推量されるが、薩摩派と比較すると線が細いのは両藩の歴史的・地域的性格の差異と思われるが、加えて薩摩と比べると長州はワンワールド世界中枢との距離がかなり遠いのであろう。

 吉井の死後、薩摩総長を高島鞆之助が継いだのは既定路線で、高島が長女の婿養子に吉井の次男・友武を入れたのがその証左である。吉井と高島の年齢差は16年で、組織の長を継承する場合の理想的な年齢間隔たる半世代に等しい。吉井の女婿大山巌もかつては吉井の後継候補であった。大山は西郷の従兄弟で腹心でもあり、吉井より14歳若く高島より2歳年上である。戊辰で戦功を挙げて明治3年8月から4年3月にかけて欧州に差遣され、帰国後の7月に初任大佐で兵部権大丞を兼ね、8月に陸軍少将に進級したが、その栄職を擲ち11月3日に再び渡仏した。目的は語学の研修で、フランスでも陸軍大学に入らず、わざとウィーンに住んだ。留学に当たって陸軍少将も辞しているから、私的留学と解する外はないが、欧州でワンワールドの総長哲学を研修する目的ではなかったか。ともかく、莫大な留学費用をどう支弁したか不審である。

 吉井の次の薩摩総長候補は高島・大山だが、予備に控えていたのが樺山資紀であった。天保8(1837)年、薩摩藩士橋口与三次の三男に生まれ、樺山四郎左衛門の養子となった。吉井より9歳年下、高島より7年の年長で、戊辰の戦功で賞典禄8石を受けたが、西郷隆盛が行った薩摩藩の改革に従い加世田地頭(後の郡長)に挙げられたが、このために上京した7歳年下の高島や4歳年下の野津道貫に比べて、樺山の官位昇進はかなり遅れた。薩摩藩では、4年2月の御親兵募集に応じて歩兵四大隊・砲兵四隊が上京した。野津兄弟や高島はこの時の上京組で、野津鎮雄は大佐、野津道貫は少佐に任じ、高島は吉井の特命で宮中に入り、中佐格の侍従になった。西郷の命で、国許に残す常備兵の大隊長として残された樺山は、8月に熊本鎮西鎮台に常備兵一大隊が吸収されて鹿児島第二分営に改編されると、分営大隊長に横滑りして初任少佐、翌5年には大貳心得を拝した。大貳は分営司令官で中佐担当官だが、樺山は少佐なので「心得」が付いた。

 明治4年、台風によって台湾に漂着した琉球御用船の乗組員が現地民に虐殺される事件が生じた(牡丹社事件)。政府は清国に補償を要求したが、琉球国は薩摩藩に属しながら一方で清国にも朝貢していたので、清国は琉球人を日本国民と認めず、補償を否認した。そこで琉球国の宗主国たる薩摩藩は政府に台湾征討を提議、鹿児島県参事大山綱良も5年9月に台湾への軍隊派遣を提言した。鹿児島分営大貳心得の樺山は、少佐の身分にも関わらず積極的に暗躍策謀、薩摩出身の政府高官に建議した結果、11月に樺山自身の清国・台湾視察命令を取り付けた。この時の視察により、樺山は台湾問題に精通することとなる。6年2月、政府は外務卿・副島種臣を清国に派遣するが談判は要領を得ず、7月に空しく帰ってきた。福建省附属の行政機関として台湾府を置く清国は、台湾島を<化外の地>と主張した。台湾を清国の実効支配が及ばない無主の地と弁明したわけで、日本政府は出兵により自力救済するしかなくなった。

 明治6年、折から朝鮮問題を抱えていた政府は、8月17日の閣議で参議西郷隆盛の朝鮮国派遣を決定した。すでに勅裁を得て、後は岩倉使節団の帰国を待ち、岩倉らに通告した上で実行する予定であったが、帰国した岩倉の奏議により、10月24日無期延期にすることとなった。西郷は憤激して即日参議を辞任、翌日には副島・後藤・板垣・江藤も参議を辞任した。いわゆる<明治6年の政変>で、学校歴史はこれを、欧米を巡察して世界の大勢を知った岩倉・大久保・木戸が内治改良を優先するために西郷の朝鮮派遣を禁じたと説明するが、いかにも納得しにくい。
 
 真相はワンワールドの意向に因るものと観るべきフシがある。そもそも、フルベッキが企画周旋した岩倉使節団の目的は、維新政府のトップたる岩倉・大久保・木戸らが在欧のワンワールド首脳にお目見えすることにあった。ところが使節団の旅行中に、日本で朝鮮に対する軍事制裁の動きが生じ、これを知ったワンワールド首脳が岩倉らに対して何らかの示唆をなし、このため朝鮮征討を禁止せざるを得ない立場になった岩倉・大久保が、国民に対してはその理由を「内治改良を優先するため」と謳うことにしたものと疑われるのである。

 7年2月1日、遂に佐賀の乱が生じるが、その5日後に政府は台湾征討を閣議決定した。内憂外患の中で、ウィーンに留学中の大山の帰国を要望する声が薩摩陣営内で強まる。帰国を促す吉井からの手紙を大山がウィーンで受け取ったのは3月だが、同時に吉井は自ら宮内大輔を辞して渡欧する。吉井はパリで、大山に帰国を求める岩倉・三条の手紙を渡したので、大山の召喚が渡仏の目的と解する向きもあろうが、それなら敢えて辞職する必要もなく、渡仏の必要すらない。渡仏には公表できない深い理由があったわけで、前述した大山の私的留学と同様、ワンワールドからの招請であろう。吉井の長女・洋子は万延元年生まれでこの時14歳、32歳の大山との縁談は、既に決まっていたものと思われる。
 ************
  (続く)
   
 

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