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 ●高島鞆之助と樺山資紀(4) 
「疑史」(第44回)

 ●高島鞆之助と樺山資紀(4) 


 明治史の裏面に重要な役割を占める高島鞆之助と樺山資紀を追及していくと、薩摩三傑の1人吉井友実に到達するに至る。因って本稿は暫く吉井の事績を追ってきた。

明治4年11月に宮内大丞から少輔に昇任した吉井が、7年3月に辞職して欧州に外遊したことは、史家にこれを喧伝する人なく、ほとんど知られていない。僅かに金沢藩士・清水誠の履歴から窺えるだけである。清水は明治2年に金沢藩からパリに留学し、6年に文部省留学生となってエコール・サントラル・パリ(工芸大学)に入学したが、マッチ国産の功労者として知られるその経歴には、必ず「明治7年にパリに外遊していた当時の宮内次官・吉井友実とホテルで会った時、マッチ国産化のための研究を勧められた」との条がある。ところが『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』によれば、吉井は7年3月に宮内少輔を辞して渡仏したとあり、清水の履歴に必ず出てくる〔当時の宮内次官〕は誤りと分かる。

だが、そんなことより肝心なのは「パリ滞在中の吉井を、清水が現職宮内次官と認識していた」ことであろう。同年文部省留学生制度が廃止になり、帰国する清水は、フランス政府の要請を受けて、金星の太陽面通過を日本で観測するフランス隊に入り神戸で観測を実施したから、諏訪山公園の金星台に立つ金星観測記念碑には清水の名が刻まれている。帰国後、8年から海軍造兵官として横須賀造船所に勤務した清水は、傍ら三田四国町の吉井別邸にマッチエ場を設け、試売した。これが本邦マッチ生産の始めであるが、海軍と掛け持ちで研究が捗らなかった清水を、内務卿大久保利通が招いてマッチ専念を勧めたので、これを機に海軍を辞めた清水は、以後マッチ製造に集中する。

 吉井はマッチ国産化を図るために清水に肩入れし、三田別邸の1部を供用したが、政府の実力者大久保を動かし、清水を激励させてマッチ専心を勧めさせたのも吉井だろう。帰国後も吉井に親灸した清水が、その後ずっと、パリの吉井を現職の宮内次官と認識していたのは、単純な思い違いではあるまい。

 5年もパリに滞在していた清水は、在仏大使館から通訳を頼まれて吉井のホテルに赴き、眼前の吉井の言動から誤解したものと思われる。在仏公使館は開館以来、薩摩ステューデント(幕末秘密留学生)の鮫島尚信が主だったが、7年4月に一時帰朝、佐賀藩の中野健明が臨時代理公使になった。どちらかが吉井の頼みで、清水を斡旋したのだろう。征韓論をめぐる明治6年の政変以来、わが国の政情は極めて不安定に推移し、7年2月1日に江藤新平らの佐賀の乱が起こるが、5日後に政府は台湾征討を決定する始末であった。そうした慌ただしい中で決まった吉井の渡仏が、のんびりした物見遊山である筈がない。

 パリには当時、吉井の女婿・大山巌が留学していた。薩摩藩士大山巌は維新に功あり、4年2月の御親兵募集に応じて陸軍に入り、7月初任大佐で兵部権大丞に補されたが8月陸軍少将に進級、4年11月には之を辞職してフランスに留学していた。
 大山は7年3月、ジュネーブにおいて吉井から帰国を促す書簡を受け取るが、吉井も3月7日付で宮内少輔を辞して渡仏、5月に大山と会い、三条・岩倉からの手紙を渡した。10月3日に帰国した大山は陸軍少将に復任、陸軍少輔兼第1局長に就く。つまり、大山は留学中は陸軍少将を辞任していたわけで、吉井の宮内少輔辞任も渡仏中を休職としたものと思われる。吉井渡仏の目的は、ひとつには大山巌の召喚で、前年10月に西郷隆盛が参議兼近衛都督を辞任した後、陸軍が山県支配に傾くのを抑制するためと思われるが、その深奥の目的は欧州ワンワールド首脳に謁見することにあったと観るべきである。それを反映して、パリにおける吉井の言動が特色を帯び、通訳の清水をして宮内省公務のために渡仏したとの誤解を生じせしめたのではあるまいか。

『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』の吉井履歴には8年4月元老院議官、10年8月一等侍補、11年5月から14年1月まで元老院議官兼一等侍補と記すが、侍補制は12年10月に廃止されているなら、右は正確を欠く。さらに同書には、その後の吉井履歴を12年3月兼工部少輔兼侍補、13年6月兼工部大輔、15年1月辞職と記しており、12年3月から14年1月までの期間が前掲した履歴とダブっている。之を敢えて解するに、本官がずっと元老院議官であった吉井は、11年5月から侍補を兼務し、12年3月には更に工部少輔をも兼務した。しかし、12年10月の侍補廃止とともに侍補は自然解職となり、もうひとつの兼務の工部少輔の方は13年6月に大輔に昇進して、15年1月までその座にあったと観るのが相当であろう。

工部卿井上馨・大輔山尾庸三の下で少輔となった吉井は、山尾が工部卿に昇ると同時に大輔に昇進したわけだが、これが賞典禄1千石で、西郷・大久保と並ぶ薩摩三傑の1人と仰がれた功臣とは到底思えぬ、低い地位である。西南戦争後、西郷・木戸・大久保の維新三傑が相次いで世を去り、残った大物文官としては、公卿の岩倉の他には、佐賀の大隈と長州の井上・伊藤くらいしかいない状況となった。薩摩三傑の1人の吉井は、力量・実績とも彼らに勝るとも劣らないのに、あたら山尾配下の工部少輔あたりで低迷していたのは、いかにも不可解である。

教科書史学は、当時の政治勢力を薩長藩閥派と土佐人権派に大別するが、第三勢力として天皇親政派の存在を指摘する説(★インターネットのサイト「坂本竜馬と明治大帝」)がある。甚だ傾聴に値するが、天皇親政派とは薩摩の吉井・高崎正風、土佐の佐々木高行・土方久元・田中光顕、水戸の香川敬三、肥後の元田永孚(もとだ ながざね)らを指しており、「いずれも藩閥から除外され財政や軍事外交などの要職を与えられずに宮中の侍補職に幽閉された形である」という。

 侍補とは、元田永孚の建言により、10年8月に置かれた宮内省の官職で、天皇に近侍して相談等に応じる役目であったが、政府の実力者大久保内務卿がその設置に賛成したのは、明治天皇が近代的君主となられるための君徳培養に益すると考えたからである。しかしながら、元田・高崎・佐々木らの内心は、侍補を通じて天皇親政の実現を目指しており、大久保の期待とは根底が合致しなかった。当初の侍補には、元田のほか宮内卿兼務の徳大寺実則、吉井・高崎正風・土方久元の5人が任じられ、翌年2月には佐々木高行が加わった。侍補の大多数が親政派だが、政府の実力者大久保内務卿と親しい吉井が加わっていたため、大久保と侍補側は協調関係にあった。ところが12年5月、大久保が暗殺されるや、侍補側から天皇親政断行の動きが生じ、12年3月に天皇が侍補だけと相談して「勤倹の聖旨」を公布したことで、政府に衝撃を与えた。しかしながらこの時、徳大寺宮内卿は、天皇と側近が政治に関与すべきでないと考えて自ら侍補を辞任、岩倉と伊藤も同じ考えに立って、12年10月に侍補制度を廃止したものとされる。尤も、侍補各員の履歴を前掲『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』で見るに、各員とも侍補の退任期間について明確な記述がなく、侍補制の廃止時期もここからは窺えない。したがって、上の特殊事情により、侍補制度は何となく終焉したものか、との疑いも残る。

 上に観たように、いかにも不可解な吉井の官位低迷であるが、これが基本的に天皇親政運動とは関係なく、維新政府の出発時点から始まることを、本稿はこれまでに重ね重ね指摘してきた。元老院議官兼工部大輔の吉井は、15年1月に之を辞職し、岩倉らが創立した日本鉄道会社の社長に就く。西南戦争後の財政悪化で鉄道国有が困難となった国家危機を、民営会社の社長として乗りきるためには、吉井ほどの重量級が必要だったからである。その期待を果たした吉井は、17年7月に宮内省に戻り、宮内大輔に就く。宮内卿は4年9月から17年3月まで侍従長徳大寺実則が兼務していたが、華族令施行のため3月に伊藤博文に代わっていた。7月施行の華族令で吉井は伯爵に叙せられるが、公卿・大名以外の勲功者は侯爵が最高で、維新三傑のうち大久保・木戸がこの時叙せられた(西郷は後年)。

 伯爵は、この時には、薩摩から大山・川村・黒田・寺島・松方・吉井の6人、長州から伊藤・井上・広沢・山県・山田の5人、佐賀は大木・副島の2人、土佐は佐々木1人で、合計14人が授かるが、吉井を除く全員が参議で、各省の卿を歴任していた(黒田の開拓使長官・広沢の民部御用掛も卿クラスである)。後日、宮内卿伊藤博文が内閣顧問黒田清隆に宛てた書簡には、吉井・副島・伊地知(追加叙爵)の伯爵叙爵は明治天皇の聖旨と告げたが、そうでもなければ、参議にもならず工部大輔でしかない吉井への叙爵は説明が付かなかったのだろう。

因みに、以前に紹介した維新功臣の叙爵は、トリプルA級では、維新三傑が侯爵(木戸と西郷は遺児に)で、広沢(遺児に)と大村(孫に)が子爵、賞典禄1千石組のダブルA級は吉井、伊地知、板垣、後藤、小松が伯爵、岩下が子爵に挙げられた。他にもダブルA級と観てよい肥前の大隈と副島も伯爵に叙された(大隈は後に侯爵に爵する)。

 吉井は24年4月22日に他界するが、前月まで宮内次官で枢密顧問官をも兼ね、宮内次官を退くも直ちに宮内省御用係を拝し、生涯現役であった。吉井は維新後、参議にも何の大臣にも就かなかったが、官途を退くことなく、宮内庁の万年次官として皇居を押さえ、侍従長兼官内大臣の徳大寺実則と呼吸を合わせて東京明治王朝を護っていたのである。
 宮内庁の実質トップでありながら一見不可解なその履歴には、中華人民共和国の万年ナンバー2で不倒翁と呼ばれた周恩来を思わせるものがあるが、これこそ吉井が薩摩ワンワールド総長たりしことを暗示するものであろう。蓋し、ナンバー2は、政局に左右されずにその行うべきことを行える地位だからである。

 吉井の没後、薩摩ワンワールドの総長を引き継いだのは高島鞆之助と観てよい。明治21年から第四師団長として大阪に駐在していた陸軍中将・高島鞆之助は、吉井の死から1ケ月後の24年5月17日、第1次松方内閣の陸軍大臣に挙げられる。前任者は陸軍中将伯爵・大山巌で、13年以来その職に在ったが、この日陸軍大臣の座を高島に譲り、自らは陸軍大将に進級した。吉井の長女武子が大山に嫁し(15年死没)、吉井の次男友武が高島の長女タカの女婿で養子となった。姻戚関係もワンワールドの特徴で、吉井の地位を高島が継ぐことを暗示していた。
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