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 ●疑史―第43回  高島鞆之助と樺山資紀(3)
 ●高島鞆之助と樺山資紀(3)  落合莞爾  『月刊日本』2008年 4月号     

 本稿の目的は、明治史の裏面に重要な役割を占める高島鞆之助と樺山資紀の解明であるが、その前提として吉井友実の真相追究が必要で、前月以来それを行っている。

 新政府は明治2年5月22日、官吏を監察する機関として弾正台を新設した。長官の尹(一等官)及び次官の弼(二等官)を欠員とし、局長級の大忠(三等官)に軍務官判事・吉井友実と行政官弁事・門脇重綾を充てた。この時も吉井は横滑りで、二等官へ昇進しなかった。6月2日、戊辰戦功を賞して親王以下・公卿・諸侯・藩士に禄を賜い、官位を進めた。藩士級では西郷隆盛が最高で永世禄2千石、大村益次郎が1500石で之に継ぎ、別に復古功臣として1800石を授かった木戸孝允・広沢真臣・大久保利通を加えた5人が藩士組のAAA級である。次いで吉井友実・伊地知正治・板垣退助が戊辰戦功により、薩摩の小松帯刀・岩下方平と土佐の後藤象次郎が復古功臣として、各1000石を授かった。AA級は右の6人の他、薩長土と共に維新に参加しながら倒幕に参加しなかった肥前藩から大隈重信・副島種臣を挙げねばなるまい。つまり5月の人事で弾正台三等官に左遷された吉井は、翌月の戊辰戦功論功ではかくも高く評価されたのである。

 6月21日から催された兵制会議で、旧征討軍の処理と新軍建設の問題が論議され、民兵論を主張する大村益次郎と藩兵論を唱える大久保利通が対立した。大村は軍制改革を担う軍務官の副知事として、海兵に依拠しない政府直属軍の創設を図ろうとしたが、参与職・東京在勤の大久保は薩摩・長州・土佐の藩兵を主体とした新軍編成を主張した。争点の第1は、京に駐留中の薩長土3藩の兵を今後どうするかであった(肥前藩は京に出兵しなかった)。政府軍の主体を農民を含む国民兵とすべし、と唱える大村は木戸の援護を受けたが、結局大久保の主張が通り、3藩の兵が「御召」として東下することに決まった。
次いで政府軍兵卒の供給源について争われ、大村と木戸は一般徴兵を主張したが、ここに軍務官判事として陸軍編制法を提出していた吉井が、弾正大忠の身で論戦に参加し、大久保と共に藩兵論を唱えた。結局、兵制論議はすべて大久保の主張が通る形で25日に決着し、憤激した大村は軍務官副知事の辞表を提出するが木戸に慰留され、官制改定で軍務官が移行する兵部省の大輔(次官・二等官)に横滑りすることになった。軍務官知事の小松宮も兵部卿に横滑りした。
 
明治2年7月8日付の官制改定は2官6省と呼ばれるが、6官を廃して神祇官を太政官の上に班し、太政官に左右大臣・大納言・参議と民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務の6省を置いた。また位階20を設け、以前から位階を有する者はそのままとし、官なき者は今後位階を以て称することとした。8月20日付の改正官制表に定める官位相当は、正一位を虚位とし、左右大臣を従一位ないし正二位、大納言・大将を従二位、参議・卿・尹を正三位、大輔・大弼・中将を従三位、少輔・少弼を正四位に相当するものとした。徴士はほとんどが従四位を賜わる中で、維新三傑には9月26日の復古賞典禄の発表にあたり、西郷に正三位(辞退)、大久保・木戸には従三位が特に授けられた。

 7月8日付で官制改定が行われ、維新功績でAA級以上の13人からは8人が、またA級からも数人が参議や大輔となった。AA級以上で参議・大輔に就かなかったのは、吉井と西郷・小松・伊地知・後藤の5人である。他は副島が参議、広沢が民部大輔兼参議、大隈が大蔵、大村が兵部、寺島が外務、佐々木高行が刑部と、各省の大輔となり、岩下が留守次官、大久保(参議兼務)・木戸(翌年参議)・板垣は待詔院学士に昇進した。吉井のいた弾正台は、欠員の尹(長官)に6月26日九条道孝を任じ、7月8日に改めて尹・大少弼・正権大志以下の職位を定めた。吉井は大忠から少弼に昇るが、少弼は各省の少輔に相当し、軍の階級でいえば中将と少将の中間である。参議と卿の下に大輔、その下が少輔だから吉井は1、2階級も置き去りにされたのである。

 弾正台は官吏不正を糾弾する機関であるが、守旧派が多く幹部を占めて新政府の改革政策に反対し、ために他の行政機関との対立が深まった。前年(慶応4年)6月、軍務官権判事となった薩摩の海江田信義は大村判事と合わず、翌月に伊勢・度会府(わたらいふ)の権判事に転出するが、すぐ旧職に戻り、翌月判事に昇進したのは軍制議定において大村判事に対抗せしめる薩摩人事と思われる。しかし海江田は大村副知事(10月24日昇進)によって2年正月、刑法官判事に転出させられ、さらに7月、新設の弾正台の大忠に転じた。郷里と兵制思想を同じくする弾正少弼・吉井友実の引きであろう。

 軍務官制知事から7月8日に兵部大輔に横滑りした大村は9月4日に京都で賊に襲われ、11月5日に死去する。斬姦状は兵制改革における大村の非を鳴らし、海江田らの主張と軌を一にしていた。しかも、暗殺の黒幕として疑われた海江田の属する京都弾正台が、年末の粟田口刑場における暗殺犯の処刑執行に際して、大村を自業自得呼ばわりして減刑を主張し、処刑を停止したので、「粟田口止刑一件」と呼ばれる事件になった。

  幕末に至り、長州では武士社会が崩壊しかけていたのに対し、藤摩にはなお伝統的な武士社会が堅固に存在した。この社会的風土の違いから、薩摩藩の有司専制・武断主義と長州藩の民意尊重・文治主義の思想的懸隔は著しく、明治2年6月の兵制議定でそれが一層深まり、大久保→吉井→海江田ら薩摩派と、木戸→大村→山田顕義ら長州派との激しい対立となったわけである。2藩の対立は、恰も光学的干渉のごとく日本近代史に陰影を与え、後年の伊藤博文・原敬の暗殺、ひいては浜口雄幸の遭難にも繋がるのであるが、詳細は後稿に述べるしかない。ともかく、明治2年の兵制改革を巡る抗争に一役以上も買った吉井について、史家がこれまで語ることがなかったのは、吉井が弾正台の三等官で目立たなかったからであろう。しかし、これは決して人事の偶然ではなく、薩摩流の奥深い策略によるものと思う。

明治3年3月28日、栗田口ー件の処置が行われた。参議・副島種臣が弾例停止遺忘、弾正尹九条通孝・少弼吉井友実以下が弾例錯誤、大忠門脇重綾と同海江田信義らが京都府知事・長谷信篤らと共に停刑の罪を判じられ、等しく謹慎を命ぜられた。4月には、参議・広沢真臣と弾正大弼・池田茂政が、やはり弾例錯誤により、謹慎を命ぜられる。各官の謹慎は間もなく解けたが、5月19日に謹慎を免ぜられた海江田は、依頼免官、位記も返上した(直後官職に就き、地位も復活)。吉井の謹慎が解けた時期ははっきりしないが、4月に民事少輔兼大蔵少輔に横滑りしている所を見ると、謹慎はいち早く免ぜられたようだ。

民部・大蔵の2省は、大隈重信の献策で2年9月以来一体化しており、民部・大蔵の大輔を兼ねて両省を取り仕切る大隈の下に、少輔として吉井は転じたが、3年7月の官制改定で2省は再び分離、大隈は大蔵大輔専任、民部大輔に東京府大参事・大木喬任が就く。吉井は大蔵少輔の兼務が取れ、大木の下で民部少輔になる。ここからが不思議で、11月に民部大丞となった吉井は、その肩書で12月に松代藩の騒乱鎮定に出張した。大丞は弾正大忠と同格の少将相当官だから、露骨な降格で、朋輩のうち或者は参議に列し、後輩の多くも既に大輔に就いているのと比べると数段の格差である。何のせいの降格か未詳だが、翌4年月の官制改定に際し各省で降格が行われる先鞭を、故意に成したものであろうか。  


 明けて4年正月5日、参議・広沢真臣が賊に襲われ死亡。これは維新後最大の事件で、犯人は今以て分からない。しかし広沢は、酔えば「宮中某秘密事」を必ず広言する悪癖が嵩じていたので、口止めのためとする説が出た(加治将一 『幕末維新の暗号』)。これが正しいならば、犯人は木戸一派というより、「新政府そのもの」と見ねばなるまい。


 2月13日、薩長土の藩士を徴して御親兵となし、兵部省の管下におくことが決まり、22日に親兵募集の勅令が出た。三藩の藩士は応募のために続々上京、数え歳28歳の高島鞆之肋と、3歳上の義弟・野津道貫のほか、上原勇作の実兄・龍岡資峻もその1人であった。少年勇作も叔母吉薗ギンヅルに励まされ、勉学のため兄を追って上京する。7月、野津道貫は御親兵に入り少佐に任じたが、初志と異なる宮内省に入った高島が任ぜられた侍従は、各省の権大丞に相当する佐官級の高官で、同時に民部大丞から宮内大丞に転じた吉井の宮廷改革を補佐させるため、大蔵卿・大久保利通および参議・西郷隆盛が吉井と謀った人事であった。


 3年前の慶応4年2月、大久保が岩倉・三条に「宮廷改革に関する意見書」を提出した。要するに、東京城に入られた新帝には京都での伝統的宮廷とは全く異なる生活をして戴く主旨で、抜本的な宮廷改革を図ったものである。この辺りは専門の研究家に詳細を譲るが、宮中改革の実行者が吉井であった。蓋し新政府の最重要事は兵制改革と宮中改革にあり、この2点に対して薩摩三傑は総力を傾注し、後者の実行を吉井に任せたわけである。吉井は維新直後は参与に就くが、以後は自ら昇進を避けながら、秘かに宮中改革案を練り、時至って実行に任じたものと思う。慶応4年2月の徴士参与職・軍防事務局判事に始まり、軍務官判事、弾正大忠から少弼、民部少輔兼大蔵少輔から民部大丞を経た吉井は、この間ずっと西郷・大久保と謀りながら、宮中改革案を練っていたのである。明治2年7月の官制改定で宮内省を設置し、卿に万里小路博房、大輔に烏光徳を充てた。ともに公卿では名家に属するが宮中改革の実行には力量不足で、4年6月烏丸の大輔を罷め、且つ万里小路を大輔に下げ、9月に至り宮内卿に清華家の徳大寺実則を任じた。この異例人事は宮中改革の時期到来を示すもので、7月に宮内大丞に転じた吉井は、11月少輔に昇進し、徳大寺・万里小路の下のナンバー3として以後の宮内省の実務を壟断する。徳大寺は侍従長を兼ねて17年までその職に在ったが、この間、西郷らの宮廷改革の主旨を体し、東京新宮廷を護り通したのである。

 吉井の長男・幸蔵は、明治2年に14歳で英国に私費留学、明治10年に帰国、海兵8期を卒業して海軍少尉に任官、侍従武官を仰せ付かるが少佐で早くも退役、以後は華族政治家として暗躍した。その仔細は史書に顕れないが、これぞ薩摩ワンワールド流の生き方なのであろう。

     高島鞆之助と樺山資紀(三) 了。

 
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