カウンター 読書日記 ●「惨事」の周辺ー(1)
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●「惨事」の周辺ー(1)
             週刊読書人 日本の貧困を考える_1


                 国家論 佐藤優_1

 
 1.『柳美里不幸全記録』より。

 ************* 

 2003年4月11日 金曜 くもり

 今日から毎日幼稚園。朝7時に起床して、いつもより早く朝ごはんを食べさせる。

 ・・・略・・・

 (園の中では、「男の子はほぼ全員教室のなかで泣いていて、女の子はほぼ全員砂場遊びをして いました。 去年読んだ『男の子って、どうしてこうなの?』に<男の子は女の子よりも早く丈夫に育つが、母親から引き離されると、女の子よりも苦し>み、男の子は精神的に女の子より6ヶ月から12ヶ月ぐらい発育が遅れ、同じ歳の女の子達といっしょに学ぶと、<女の子より劣っていると感じ、早々と学ぶことをあきらめてしまう>ので、<5歳頃から幼稚園に行くべきなのはあきらか>で、<長く(場合によっては1年ほど長く)幼稚園にとどまっているべきだろう>と書いてあったことを思い出した。

 一方で、一昨年の読売新聞で、バルセロナ五輪の平泳ぎ200Mのゴールドメダリスト岩崎恭子さん(24)の「児童水泳選手における両親の養育態度」という日大文理学部の卒業論文が紹介されていて
 
 
 父親ー娘、母親ー娘、父親ー息子よりも、母親ー息子の過保護が目立つと書いてあったことを思い出した。

 柵越しに並んでいるのは(わたしを含めて)男の子の母親が多かった。
    ・・・略・・・

 **************

 2.『国家論』 佐藤優 より。

 第二章 社会への介入 (p133~134)

 ★「恐慌→不況」という地獄絵 

 ・・・要するに、技術革新が起きると、利潤率がどんどん下がってくる。資本をたくさん投入しないと利潤が得られないとなると、資本の過剰が生じてくる。そこのところから、恐慌が起きてしまう。恐慌が起きて、このままではシステムが回らないというところで、初めて技術革新が起きる。そうすると、労働者の数が少なくてもすむようになります。そこで、恐慌のあとに不況が来るわけです。

 そこでは地獄絵が出現しますが、その期間が過ぎると、また資本主義は元気になって、うまくいっているというように勘違いされる。しばらくするとまた恐慌が来て、同じプロセスが繰り返される。このような、人間をまったく無視したかたちで、資本主義はシステムとして自律して回っていく。宇野はこのことを証明しているわけです。資本主義は永続するということです。

 では、なぜ死者が発生しないのか。恐慌期から不況期にかけては、死者が発生してもおかしくはないはずです。ところが、何となく発生していない。これはなぜかというと、ギリギリのところで、救貧施設というものが出てくるからです。救貧施設というのは、刑務所よりも恐ろしいところとして、『資本論』に何度も出てきます。栄養の状態も刑務所の囚人のほうがずっといい。救貧院に入ると何かいいことがあるのではないか、働かなくとも食べさせてくれるのではないかというイメージがありますが、そんなところではありません。とんでもない強制労働とパッケージになっています。働かずに食べるのは犯罪だということで、国が人間狩りをして飯場みたいなところに連れてくる。それで監視を付けて強制労働のように働かせるというのが、『資本論』の時代の救貧施設なのです。


 日本でも不況がもう少し深刻になって、ニートが生きていけないような状況になると、ネットカフェ難民などという贅沢な存在はいなくなって、「国がちゃんと面倒をみます、仕事も斡旋します」といったかたちで、救貧院ができるかもしれません。事実、世論は今、だんだんそちらの方向に行っているように思われます。仕事に就いていない人間は不道徳、その次の段階では、貧困は犯罪だということになる。あたかも犯罪者のように、彼らを隔離して矯正しないといけないわけです。そこで、誰もやりたがらないような労働を強制的にやらせる。こういうサイクルになってくる。・・・
 
 
 ***************

 佐藤優はその前に、こうも書いている。(p123~125)
 
 
 第二章 社会への介入

 ★思想の暴力性、再考
 
  
 国家というのは、端的に言うと暴力です。私が今、強い関心をもっているのは、思想の再生です。われわれはもう一度、思想を再生しないといけない。政治的実践について考える場合、一種の暴力の存在論が必要なのです。

 人間はその本性において、暴力的な存在です。自分の意志に反することをやらされることもあれば、人の意志に反することを、力によって強要することもある。そのような暴力を、いかに剥き出しにならないようにするか。暴力をいかに制御するかということが、国家倫理においても社会倫理においても重要です。「まえがき」でも述べたように、思想というのは、暴力に作用することができる、人間の特殊な能力です。最大の暴力を発揮する思想というのは、自己犠牲の思想だと言えるでしょう。人間は個体として生き残ることを望んでいるはずなのに、その個体をより高度な理念のために、より高度な目標のために、あるいは、他者のために捨て去ることができる。自分の命を捨ててもいいという気構えができた瞬間に、他者の命を奪うことに対する抵抗感というのは、ほぼなくなるのです。

 ですから、大量殺人が行われるとき、それを行う側は、自らの命を失うことに対して比較的覚悟ができている可能性が高い。その覚悟はどこから出てくるかというと、思想からです。人間の表象能力から生じるのです。つまり、究極的に人殺しをもたらさないような思想というのは、ただの思想の抜け殻です。戦争の中には一種の思想があり、そこに文化や創造があるというのは、当時の陸軍省が作ったスローガンということを超えて、ある意味、きわめて普遍的な問題なのです。

 われわれは戦後、暴力性を極力排除していった。国家の中の暴力性を排除したら、それは左翼運動の中に出てきました。暴力性があるから、思想の問題はまだ正面からとらえられていたわけです。

 ・・・略・・・

 思想本来の暴力性が廃れると、どういうことになるのでしょうか。知的には乱暴でほとんど整理されておらず、およそ実証科学では相手にされないような、きわめて稚拙な自己啓発セミナーの「思想」であるとか、新宗教の「思想」であるとか、あるいは、一部の右派、保守陣営が唱道する「真実の日本魂」であるとか、知的な世界とは本来まったく関係のないところで、人間の生き死にの原理が構成されてしまう。それが物理的な暴力性を帯びるのです。

 人間とは物語を作る動物です。そして、物語を作るのは知識人の役割です。どんなにバカバカしくでたらめに見える運動でも、どんなに粗雑な知性のかけらもないように見える排外主義的な運動でも、その背後には必ず物語=思想の組み立てというのがあります。思想の組み立てを知識人が怠ると、その空白のところに、本来知識人の世界には入らないような人たちがもぐり込んでくる。その結果、ものすごく乱暴な思想が生まれる。ひとたびそうしたものが生まれて暴力性を孕むようになると、これを脱構築、破壊することは至難の業になるでしょう。この傾向が、過去7、8年に集積し、日本の思想を閉塞状況に追い込んだわけです,だからこそ今、復権しないといけないのが、大きな物語であり、神話なのです。それを意図的にやらないといけない。・・・

 **************
 
  
 3.藤原新也オフィシャルサイト より。 
 http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php

 2008/06/11(Wed)
 ★秋葉原事件と現政権の演繹的な関係
  
 
 四国から帰ってきて忙殺されていた7月に出る単行本がやっと手を離れつつある。
 現在は2年前に出版された「渋谷」(東京書籍)の映画がちょうど撮影されている最中だが、低予算、短期間の製作とは言え、よくこんなテーマのものに予算が下りたものだと思う。

 それにしても「渋谷」のテーマは親の過干渉によって自己を失った少女の物語だが、今回の秋葉原通り魔殺人を犯した加藤智大容疑者もまた中学生になるまで親の考えられないほどの過干渉の中に置かれていたようだ。小学校時代には絵や作文を親が描いたり手を入れたりして成績優秀に無理やり仕立てていたというからこれは過干渉を通り過ぎて、変わった種類のネグレクトと言える。
 中学になると親の介在ではおっつかなくなり、智大の成績も愕然と落ち、親は智大を見捨て、成績のよい弟の勉学に全力を尽くすことになる。
 こんな状況の中、智大という名づけも彼にはプレッシャーであっただろう。

 おそらく加藤家では大学も出ず、派遣社員として末端の労働に携わっていた智大のことは家の恥でその存在すら外にあまり知られたくなかったのではないか。今回の事件はそんな両親への復讐という伏因が臭う。親を殺さず無関係の他者を殺すことによって遠回りに親に復讐する犯罪は案外多いのだ。
 そして智大の思い通り、両親は全国民の前で謝罪会見をするという針のむしろに置かれている。

 また私は外国人労働者が日本に入って来はじめた20年前、その差別的環境からいつかこういった者の中から日本人を巻き込んだ犯罪が生まれるのではないか(当時は犯罪があっても彼ら同士の中だけだった)とエッセイに書いたことがあるが、それから7、8年後にそのことが現実のものとなり、今では当たり前のことになっている。

 その延長線上で、今日本の社会を覆っている、というより若者の生活を覆っている派遣社員、契約社員という人間をモノ化した「ピンはね使い捨てシステム」の中からなんらかの犯罪が生じるのではないかと考えたことがあったが、今回の秋葉原の事件はまさにそれを絵に描いたような出来事である。

 そういうことで加藤容疑者の犯した罪はエクスキューズ出来るものでは到底ないが、こういう若者の使い捨てシステムを容認して来た、というより作り上げた現政権の罪は重い。
 無残な形で殺された7人の殺害に演繹的に現政権が加担していることになるからである。

 ***************


 ここで、再度『国家論』 佐藤優 ー序章 にもどって、読み続けます。


 ●序章  国家と社会
 
  
 3 国家の暴走にどう対抗するか

 ★ 9・11以降の状況
 
  
 なぜ現時点で国家を扱う必要があるかという私の問題意識の稜線を明確にするために、現状認識について少し述べておきます。
この関連で、2001年9月11日に発生した米国同時多発テロ事件が大きな意味をもちます。私の理解では、9・11を契機として、状況が一変しました。9・11以前は、グローバリゼーションヘの対抗運動は、まさにアンチ・グローバリズムだった。要するに、アンチというかたちでしか規定されないような、抵抗するネットワークの主体的な形成(アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの言うところの「マルチチュード」)によって、資本に対立していた。このような運動は、ときどき資本と衝突するとはいえ、基本的には非暴力です。消費を最大の武器にした、ボイコットを通じたかたちでのシステムヘの異議申し立て運動でした。

 ところが、そのような運動とは別に発生してきた、アルカイダ型のイスラーム原理主義のテロが、9・11でシンボリックに登場したわけです。北朝鮮やイランの脅威ということならば、相手は国家という主体なので、日本なりアメリカなりが取引をして脅威を除去することができる。しかしアルカイダには、そのような司令塔がない。脅威は確かに存在するし、ネットワークも確かに存在しますが、取引すべき相手は目に見えません。
 そういった状況下では、自分の国の中にそのようなネットワークとつながりうるような人間がいないかどうか、徹底的に捜し出して、それを隔離、孤立させ、さらに除去していくことになる。要するに、公衆衛生の発想、街をきれいにしていくという発想です。では、きれいにしていく主体は何かというと、それは国家であり、それを実際に担うのは官僚です。つまり、官僚の暴力性、官僚のきれい好き、官僚の排除の論理、官僚の国民の内面への干渉―こういったものが必然的に生まれてくるのが9・11以後の世界です。

 ビラを徹いただけで人が捕まる。労働組合内のちょっとした内紛や言い争いに警察が介入してくる。自衛隊の保安隊が、問題のある市民運動はないかと、内部調査をやっていることが露見する。こういうことが起きるのも、9・11以降に国家がきれい好きになり、官僚が暴力性を高めていることと論理整合性がある。体制への異議申し立てをする有識者の側は、このあたりを論理的に分析することに成功していません。だから、有効な議論が展開できないのです。

 この論理が摑めないので、マスメディアは「人権に対する侵害だ」ととらえ、労働組合は「組合の団結権に対する侵害だ」と抗議し、ビラを撒いて捕まった人は「表現の自由に対する侵害だ」と、旧来型の主張をする。しかし、それでは世論が動かない。結果として世論が体制を支持するのは、現体制やシステムの動きに対して批判勢力が噛み合う議論を展開できていないからです。一言でいうと知的な怠慢です。きちんとした知力をもって、問題の存在をとらえようとすれば本質は見えてくるはずです。
 
  
 ★贈与の重要性
 
  
 では、国家の暴走に対抗する具体的な対案はあるのか。国家によってきれいな社会を作るのは不可能ということがポイントです。国家は社会ではなく自己保存のことしか考えていない。アルカイダ的なテロが起きたら、官僚は生き残れない。だからテロは嫌だということです。われわれもアルカイダが嫌だというならば、社会を強化しないといけない、新自由主義(市場原理主義)的な流れの中で生まれてきた、構造的に弱者となって2度と立ち上がれない地域に対して、きちんとした投資をする。搾取や収奪へのストップをかけるような、本来の相互扶助ですね。あるいは、きちんと贈与をすれば、アルカイダのようなかたちでの異議申し立て運動はおのずから治まるはずです。

 考えてみてください。かつては、コミンテルン(第三インターナショナル)や国際共産主義運動がありました。それに対して治安維持法で弾圧しても、逆に抵抗運動がどんどん出てきて、完全に抑えることはできなかった。ところが東西冷戦下の世界では、革命を阻止するために資本主義国はみな社会福祉政策を充実させる。累進課税制によって、再分配をする。教育はできるだけ無料、高等教育にもほとんどお金がかからないようにして、機会の平等を担保するかたちで、社会的な階層の流動性を高めた。その結果として、そこそこ豊かな社会が実現する。極端な金持ちもいないし、極端に貧乏な人もいない社会が実現したことで、結局は暴力的な異議申し立て運動や、革命運動は後退していった。本来、暴力革命を志向していた共産党も議会路線に転換し、揺り戻しは不可能なところまできた。

 現在のように、ムスリムを監視する部局を公安警察に作り、モスクの前には公安部の刑事がいるというようなやり方をしても、テロは増えこそすれ、減ることは絶対にありません。つまり、これは反復なのです。だからこそ贈与が重要なのです。
 
 
 ★二つの地獄絵
 
  
 では、目本の現状について考えてみましょう。現状}Oのまま放置すると、近未来に2つの地獄絵が出現することになります。

 第1は、新自由主義下の格差がもたらす地獄絵ですーこれから見ていくように、社会と資本主義の相性はきわめて良い。この「相性の良さ」を放置するとどうなるか。すでに日本では年収が200万円以下の人々が1000万人を超えています。 このような状態が続くと、低所得者はぎりぎりの生活しかできず、家庭をもち、子供を作ることすら難しくなります。また、高額所得者と低所得者の間で、「同じ日本人である」という同胞意識が薄れていきます。そうすると日本で生活することが、殺伐として、楽しくなくなってきます。

 第2は、国家の暴力がもたらす地獄絵です。それは、国家が肥大して戦争への道を突き進んでいくということだけではありません。第1の資本主義の弊害を国家によって是正しようという世論が当然起こってくるのですが、この処方箋には落とし穴があります。国家というと抽象的な存在のように聞こえますが、国家の実体は、税金をとりたてることによって生活している官僚です。前述した官僚の自己保身ゆえの「きれい好き」とも関連しますが、国家は、暴力によって担保された、本質的に自分の利益しか追求しない存在です。確かに、国家が所得の再分配や社会福祉のための機能を果たすことはありますが、それは原理的にそのような方策をとらないと、国家自体の存立根拠、すなわち官僚の存在基盤が危うくなるときに限ります。さらに、日本人としての同胞意識を高める機能を国家に期待すると、それは必ず官僚の都合の良い方向に社会が誘導されるという結果を招きます。

 結論の頭出し(先取り)をすると、社会は社会によってしか強化されません。そしてまた、国家も社会によって強化されるのです。国家は必要悪です。社会による監視を怠ると国家の悪はいくらでも拡大します。社会が強くなると国家も強くなります。そして、強い国家は悪の要素が少なくなるのです。

 それでは、続く第1章では『資本論』の論理を援用しながら、国家と社会の関係を探っていきます。このことは一見迂遠に思われても、国家の暴走にどう対峙するか、社会をどう強化するかを考えるうえで、たいへん重要なことなのです。
 
      続く。

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