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 ●疑史―第42回  高島鞆之助と樺山資紀(ニ)
 ●疑史―第42回 

 ●高島鞆之助と樺山資紀(ニ) 『月刊日本』2008年 3月号 


 ●高島鞆之助と樺山資紀(ニ) 『月刊日本』2008年 3月号

 維新政府は明治2年6月2日に「戊辰戦争戦功賞典表」、9月14日に「己巳箱館戦争戦功賞典表」を、そして同26日に「復古功臣賞典表」を発表した。

 大名・公家を別にして藩士たちの賞典禄は西郷の2000石(薩摩・戊辰)を最高とし、次いで大久保(薩摩・復古)・木戸孝允(長州・復古)・広沢兵助(長州・復古)の1800石と大村益次郎(長州・戊辰)の1500で、ここまでがAAA級。AA級の1000石が吉井友実(薩摩・戊辰)・小松帯刀(薩摩・復古)・岩下方平 (薩摩・復古)・伊地知正治(薩摩・戊辰)、板垣退助 (土佐・戊辰)・後藤象次郎(土佐・復古)の6名で、維新の功績において同率6位と査定された。その下は、大山綱良(薩摩・函館)が800石、黒田清隆(薩摩・函館)が700石、山県有朋(長州・戊辰)・前原一誠(長州・戊辰)・山田顕義 (長州・函館)が600石でA級である。因みに維新政府の頂点たる太政官総裁局総裁・東征大総督の座に在った有楢川宮熾仁一品親王の戊辰戦争賞典禄は1200石、政府軍の頂上で軍事総裁・海陸軍務総督・軍防事務局督を務めた小松宮嘉彰二品親王は同じく1500石であった。

 賞典禄に与らなかったが、ワンワールド関係者と南朝復興関係者の維新における功績は大きい。佐賀藩ではフルベッキ直門の大隈重信がAA級、楠公義祭同盟では副島種臣がAA級、大木喬任がA級、長州藩では井上馨と伊藤博文をA級と見るべきであろう。アーネスト・サトウと通じた勝海舟の維新の功を否定しないが、幕臣はこの場合対象外である。以上からして、維新功績において吉井と同等以上と見做しうる藩士は、右のAAA5名とAA6名に、AA相当の大隈・副島を加えた合計13名と見てよい。

 明治の三傑といえば西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通であるが、薩摩では木戸を吉井に入れ変えて薩摩三傑と謂う。王政復古の成った明治元年9月8日、西郷と吉井は満41歳で、木戸は36歳の若さであった。他の3人は敢えて論ずる必要もないが、吉井については戦前の講談社刊『大日本人名辞典』すら僅か18行を割くに止まる。最近のフリー百科「ウィキペディア」に至っては、本人よりもむしろ子息の海軍大佐吉井幸輔や孫の歌人・吉井勇の解説に偏るのは、書き込むにも巷間史料が存在しないからだろう。解説の内容も、
(1)島津斎彬の擁立と藩政改革を図った藩士組織誠忠組の中心であった、
(2)大阪蔵屋敷の留守居役だった、
(3)寺田屋騒動で負傷した坂本竜馬を匿った、
(4)禁門の変・戊辰戦争で藩士を指揮した、
(5)西南戦争では西郷に与しなかったが西郷自裁の翌年から副島種臣と共に秘かに西郷の年忌を営んだ、
(6)西郷の名誉回復と上野の銅像建立を発案し遺児の叙爵に努力した、など個人的な話ばかりである。他には、パリ外遊中にマッチ国産化の必要を感じて、支援した逸話が喧伝されているが、何のための外遊かを説明した論説を見ない。
まして、吉井とグラバー及びアーネスト・サトウとの重大な関係は、近来ようやく推測が始まったばかりである。 

 慶応3年10月、徳川慶喜は大政を奉還、宮廷は12月9日摂政・関白・征夷大将軍・所司代らの職を廃し、新たに総裁・議定・参与の三職を置いた。格で言えば、総裁が首相、議定は閣僚、参与は次官だが、新政府の実質は議定と参与の合議制であった。総裁に熾仁親王を仰ぎ、議定には小松宮・山階宮の皇族、中山大納言・正親町三条前大納言・中御門中納言の5公卿と薩摩・土佐・越前・安芸・尾張の5藩主の計10名が挙げられた。参与は当初、公卿5名と議定5藩の徴士14名の計19名であったが、やがて増えた。

 明けて慶応4年正月17日、新政府は太政官の職制を定めた。太政官に神祇・内国・外国・陸海軍・会計・刑法・制度の7科を置き、議定が之を分督し、参与が分掌することとした。最初の参与は薩摩藩の西郷(海陸軍務掛)・大久保(総裁局顧問)・岩下(外国事務掛)の3名、土佐藩は後藤(外国事務掛)の他2名で、長州藩からは海陸軍務掛の広沢と外国事務掛の井上・伊藤が参与となるが、木戸の総裁局顧問は参与を超えた格と見て良い。29日吉井が参与兼海陸軍務掛になり、2月2日には小松帯刀が大久保に代わり参与兼総裁局顧問となったので、薩人の参与は増えた。肥前藩徴士では3月に副島と大隈が、4月に大木喬任が参与となる。

 慶応4年2月3日、太政官は職制を更定、7科を改めて、総裁局及び神祇・内国・外国・軍防・会計・刑法・制度の7局とし、総裁局に正副総裁、輔弼、顧問、弁事以下を置き、7局に督(議定)、正権輔(議定か参与)、正権判事(参与)および書記以下を置いた。例の13人では、2月13日に西郷が参与兼大総督府参謀となり、同20日に広沢と大久保が内国事務局、岩下が外国事務局、吉井が軍防事務局とそれぞれ参与兼局判事に就いた。木戸も参与に就き、後藤・小松と共に総裁局顧問・外国事務掛を兼ねる。3月10日には副島が参与兼制度事務局判事、同17日には大隈が参与兼外国事務局判事となった。

 因みにこの日、吉薗周蔵の祖父・右京大夫・堤哲長が参与兼制度事務局権輔に就く。吉井、西郷と同い年で孝明帝の側近だった哲長は、典型的な貧乏公家で、妾の吉薗ギンヅルと共に京と日向の間を往復し、民間医療をしながら辛うじて幕末を乗り切った。薩摩藩邸に常駐していた吉井は、藩邸の女中頭たったギンヅルとは辱知の間柄で、旦那の哲長も知らぬ仲ではなかった筈で、ともに参与に就いたのは奇縁である。哲長が権補に就いたのはいかにも唐突で、しかも吉井ら判事よりも一格上(中将相当)の二等官である。孝明帝すでに亡いのに哲長が要職に就いた謎は、当時の宮廷事情にある筈だ。この日、参与兼神祇官判事に就き、直ぐに議定兼神祇事務局輔に昇った津和野4万3千石の藩主・亀井茲監の養嗣子に、哲長の三男茲明がなったこと、更に大政奉還の当日、哲長の実子・甘露寺萬長を特に堂上に列し松崎の姓を賜わったことも異例で、宮廷事情に繋がることが推測される。しかしながら哲長は、参与就任後2ケ月にして満42歳で蔓去する。長生きしたら当然大臣も望めたが、そうなれば慶応元年6月16日に生まれた庶子・林次郎(堤次長と称した)の運命も変わり、ひいては吉薗周蔵が生まれなかったことになる。

 2月27日、軍防事務局判事・吉井友実と権判事・大村益次郎に軍制議定の命が下る(『明治史要』)。軍務局判事には他に津田信弘・土肥典膳もいたようで、大村は軍制議定のために特に軍防事務局判事加勢を命じられたらしいが、折しも政体改変の真最中にあり、関東の軍事情勢は用兵の天才大村を直ちに必要とした。大村は4月27日に軍務官判事に昇格、東征大総督・熾仁親王の補佐を命じられて東下する。
 閏4月21日、三権の分立を図るために官制を改定、太政官に議政・行政・神祇・会計・軍務・外国・刑法の7官を置き、改めて議定・参与を任じた。新議定の三条実美・岩倉具美が行政官輔相を兼ね、実質的な総理と副総理となる。議政官・行政官を除く5官の指揮系統は、正副知事→正権判事→書記以下とされた。新参与は9人で判事を兼ね、その数は漸次増えた。翌日、徴士の三等官以上に位階を授け、二等官に従四位下、三等官に従五位下を授け、大久保参与は従四位を授けられた(辞退)。参与は三等官の筈だが、大久保の場合は特旨によるものか。

 軍防事務局は軍務官に改まり、2局4司を置く大組織となるが、知事小松宮、議定兼副知事・長岡護美(肥後藩主の弟)は横滑りで、判事も吉井と大村が横滑りし、4月には参与・大木喬任も判事を兼ねた。『明治史要】付録の官制表に「軍務
官判事4名」とあるが、あと1人は未詳である。軍務官判事・大村益次郎は5月13日、大総督府の名で上野寛永寺の彰義隊に討伐を宣言し、忽ち平定に成功した。

 慶応4年は9月8日を以て明治元年と改元、10月に天皇駕が東京に至り、江戸城を以て皇居となし、東京城と改称した。新政府は実質的に軍政であったが、翌2年にかけて諸事すこぶる多端、ことに賊兵処分などの戦後処理が集中した軍務官は恰もGHQのごとく、警察機能まで担って東京市中取締りに諸藩兵を指揮していた。
大村判事は10月24日二等官副知事に昇進するが、徴士出身の新参与からも二等官に昇進する者が続々出てきた。即ち小松・大隈・寺島が外国官副知事に、広沢が民部官副知事に、岩下が留守府次官に、大木が東京府知事に昇進する。AAA級では、大久保が参与職東京在勤、木戸も平の参与で、大総督参謀を罷めた西郷は参与さえ辞めた。彼らが敢えてこの肩書に甘んじた理由と、実際の待遇は未詳である。この間、GHQに等しい軍務官に身を置いていた吉井は、その真の目的のために、敢えて昇進を避けたのではないかと思う。吉井は、江戸占領軍司令官ともいうべき大村副知事と諸侯系の長岡副知事の下で、権判事・海江田信義・井田譲を指揮して軍政議定を進めていたが、その裏で、秘かに明治新政体と東京宮廷の在り方を探っていたものと思う。GHQに譬えれば、GⅡのウイロビー少将あたりを思わせるが、実は科学経済局長・マーカット少将に類した策士ではなかったか。

 明治2年正月31日、新政府は諸道の参謀を東京に上らせて軍務官に集め、維新の軍功査定を軍務官に命じた。軍功に対する賞典禄は、6月から9月にかけて発表されたが、大村の1500石は戦功からして当然で、吉井の1000石も維新の功績からすれば低過ぎる程だった。問題は、賞典禄に表れた吉井の実績から見て、以後の昇進が次第に停滞していくことである。例の13人のうち、小松・後藤・木戸・大久保・広沢・岩下・大隈・副島・板垣が新参与に名を連ね、西郷も一旦新参与に就き(元年11月辞任)、A級の大木、由利公正、横井小楠、福岡孝悌すらも新参与になったが、AAA級の大村とAA級の吉井・伊地知は新参与に就かなかった。伊地知が華々しい戦功にも関わらず、板垣と同様、新政府軍に参加しなかったのは新政府に対する存念のためと思われる。大村は軍務官判事から権知事、兵部大輔に昇進するが、とうとう新参与にならず、吉井もまた新参与に就かなかったのは相応の理由があるべきだが、未詳である。

 明治2年3月28日、新帝東京城に入り、東京遷都は成った。ここにおいて新政府の急務は、新しい軍制の制定もさることながら、東京城における宮廷制度の新設にあった。薩摩ワンワールドの総長・吉井は、西郷・大久保と相携え、軍務官判事の肩書で軍制議定に忙殺される傍ら、実は秘かに宮廷改革案を練っていたもの推量する。        (続)
 
 

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