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●金印偽造補遺 
 ● 「疑史」 第5回 金印偽造補遺  『月刊日本』 2005年2月号  

 本稿の第1回で「歴史する」「歴史を使う」ことを論じた☆のは落語で謂うところの枕である。第2回に金印偽造を論じるつもりでいたら、小泉総理の靖国参拝に難癖を付けてくる予感がして、急遽「歴史の悪用」に換えた。第3回と第4回で金印偽造を論じたが、引用した明石散人著『七つの金印』の内容について、多少付け加えたい。同著は、綿密な史料調査と鋭い推理を基にした作品で、小説と呼ぶのが憚られるほどだから、世の金印学者らが展開する曖昧で独善的な屁理屈よりも傾聴さるべきものだが、それだけに史実と推理及びフィクションが混同される虞(おそれ)がある。それを予防する義務が、たまたま某大学所蔵の記録により真相の一端を知った私に課せられたと思う。

むろん偽造当事者の後見人は素より、当時から偽造を追究していた某教・本山も、本件の全内容を伝承している筈だが、歴史学なぞ問題にもしていない彼らに、何を問うても、また責任を説いても無駄であろう。

さて、小説『七つの金印』の梗概は以下の通りである。
①国宝金印は、秋月藩の儒者・原古処の実父・手塚甚兵衛が以前から所有していたもので、輪郭の1か所に欠損がある(これをA印とする)。
②手塚は秋月藩儒の養子口を伜に斡旋してくれた黒田藩の儒医・亀井南冥に対する礼物としてA印を贈った。
③南冥は自分が祭酒に就いた藩校甘案館の功績とするため、(架空の百姓甚兵衛が)志賀之島でA印を発見と偽装。
④南冥はA印の摩耗を来たさぬため、発表文書に押すためのスペア(B印とする)の作成を藤原貞幹に依頼したが、B印の輪郭には窪みがあった。
⑤南冥は志賀之島叶岬にてA印を発見した旨の甚兵衛口上書を作り、B印を押して郡奉行に届出。
⑥A・B2印とも黒田藩が買い取る。
⑦藩主印を刻した篆刻家で藩小姓頭の梶原景煕が金印を鑑定し『梶原考文』を作り、B印を押す。
⑧梶原はのちに南冥の息子昭陽に精巧な模刻印を贈ると記録するが所在不明。
⑨明治11年、黒田侯は銅製鋳金の模刻印を帝室博物館に寄贈するも所在不明。⑩明治20年、帝室博物館初代館長の町田久成が黒田侯からA印を借り出して加納夏雄に銅製塗金の模刻印(A#とA*とする)を二個作らせ、A#を博物館に納め、A*は現在藤井有隣館に在る。
⑪金印発見地を探究していた中山平次郎は、『梶原考文』所蔵の印影(B)と、南冥の弟で崇福寺住職の曇栄が伝えた印影の同一性を確認し、「梶原が手づから押したと記す真印の印影は之なり」と大正3年10月5日『考古学雑誌』に発表。
⑫その10日後、黒田侯爵家歴史編纂主任中島利一郎が『筑紫史談・第三集』に、梶原考文は「手づから押した」ではなく「手づから復刻した」と読むべきものと主張し、黒田家什物金印の印影としてAを載せ、比較のために隣に並べた曇栄所有印影もAであった。
⑬ところが、翌年2月5日の 『筑紫史談・第四集』で、編集者は、「中島が前後2回印影を送ってきたので、第三集には最初の方を掲載したが、それが模刻だと言ってきたので、改めて別の方を掲げる」としてB印影を掲載。
⑭大正5年3月、中山は『金印余録』の中で 「手づから刻したとは読めない。自分は古来真印とされてきた2つの印影を照合した上で、Bを真印と主張するのだから、もう1度見比べて貰いたい」と黒田家側に要求するが、中島は返答しない。
 
 要するに、『筑紫史談・第四集』において、『第三集』が真印と模刻印の印影を取り違えたことを発表し、改めてB印影を掲載した段階で中山説の勝利が確定した。真印と確定されたB印は後年国宝に指定され、現在は福岡県立博物館にある。因みに、⑫に掲載した黒田家金印と曇栄印影がともにAであった事情について、『七つの金印』の推理は・・・中島が箱を開けた時、1個の金印の他に押印した紙1枚があった。本物とA・B2つが存在したと知らぬ中島は、箱中の金印(B印であった)を真印と信じると同時に、例の紙の押印(A印のものであった)を当然その印影と思いこみ、掲載写真用として筑紫史談会に送った。比較用の曇栄印影についても「どうせ同じ真印なのだから、例の紙を用いて宜しい」と指示したため、『筑紫史談・第三集』には同じA印の印影が並んだのである。⑬の段階になって中島は、A印影を模刻印のものと弁解したが、それを証明するためのA印そのものは黒田家のどこにもなく、以後ひたすら沈黙を続けるしかない。

 南冥・梶原および曇栄らの残した印影がすべてBだったことから、中島はあくまでB印を真印と信じたが、実はA印がオリジナルであった。町田にA印を預けた黒田侯は、A印に代えてA印を押した紙を箱中に入れたため、箱中にはB印とA印を押捺した例の紙が残った。ところが黒田侯はA印の返還を受けぬまま逝去し、町田もまた死亡したため、A印は行方不明になり、それを主人公の曾祖父が骨董屋から購入した、という筋立てで、最後に「A印も、当時の小判と同じ成分構成のため当時の偽作と判った」とのオチがある。

 見事な推理とエキサイティングな筋立てだが、少なくとも前掲文の傍線部は真相から逸れるようである。某大学図書館の記録から私が推理した真相は以下の通りである。

 金印は南冥・梶原ら黒田藩士が、藩主の了解のもとに内密で偽造したもので、印文・形状などのデザインは印聖高芙蓉(大島逸記)に頼み、制作は印刻の名手梶原が行った。本件に藤原貞幹と上田秋成を1枚噛ませたのは、自ら印文を解読した彼らが金印を天下に喧伝することを期すためである。梶原は4個拵え、その4個の印影を挟み込んだ上田秋成の著書が、後に古書店で発見される。

 4印のうちA印を本物と見倣して藩が秘蔵し、全国配布文書への押捺にはB印を用いたのは、A印が手元にある以上、押捺はスペアで宜しいとの了見だろう。『七つの金印』に載せるA印影は『筑紫史談・第三集』のものだろうが、同書の筋立てでは、A印が市中に流れたとするが、実際にはその筈はあるまい。B印と明らかに同手と分かる金印を、表に出せる筈がないから、既に鋳潰したはずだ。残りは、1つを梶原自身が所有し、1つは亀井昭陽に贈ったようで、ガラの悪い業者が今も時々「九大に金印が2つあるんやが、この際買わんとね?」なぞと持ちかけてくるのは、この2つではないか。こうなれば、国宝金印の名称として、意味不明の「漢委奴国王印」や、架空発見地に因む「志賀之島金印」の名称は不適切で、まあ「黒田金印」とでも称すのが至当であろう。

 名工・加納夏雄が模作したA*印の輪郭には、窪みでなく欠損がある。だからこそ前々月の本稿のキャプションにも「加納夏雄の模刻は左〔A印のこと〕を模範としている」とあるが、これは『七つの金印』の主張で、私自身はそこまで断定していない。A*印影を見る限り、AよりもBに近い部分もあり、幾つかの画(カク)における横棒の先端が、Aでは真っ直ぐなのにA*では装飾的に上に折曲げられている処などは、むしろBに似ている。尤も、押印の仕方により印影では画の末端が変化するから、それが原因かも知れぬが、疑問として残る。

 さて始末はどうついたか。筑紫史談会は大正4年2月から6月にかけて、『筑紫史談』の創刊号から第三集までを再販し、初版本を回収して差替えを図った。第三集の再版本では印影写真をAからBにすり替えており、再版目的が一旦世に出たA印影の抹殺にあるのは明白であるが、幾つかの大学には初版本が回収を免れて残った。大正5年、⑭により反撃を始めた中山を、筑紫史談会の領袖は、恐喝まがいの暴論で脅かして沈黙させてしまう(『七つの金印』による)。

 再版云々については、私は裏付けを取っていないが、あり得ることと思う。筑紫史談会の背後にいた黒龍会は、旧黒田藩士が組織した実力行使団体で、必要とあれば殺人も厭わなかった。中山が本件を更に追究すれば、旧藩と旧藩主の威厳を損ねることが明らかであり、これを防ぐために、黒龍会が何をしてもおかしくなかったのである。

 黒田金印は高芙蓉の古印知識の限界が露呈したもので、漢の印制に合致しない点がある。ことに材質と印面の不一致を指摘した人が多いが、それは、印主の地位により、璽、印、章などの印文と材質が厳密に規定され、「漢○○国王」なる印面に相応するのは銅製なのに、黄金製の点が始末が悪い。これを、漢帝がそれだけ倭王をチヤホヤしたから、とこじつけるに至っては、歴史を知らぬご都合主義以外の何物でもない。さんざん理解に苦しんだ末に、貿易用私印説を唱える者があるが、金印業界中最も良心的な部類であろう。こんな金印業界に参加しなかった中村直勝と宮崎市定ご両人の見識が光るが、宮崎先生は昭和55年の京都高島屋の展観「邪馬台国への道」で、一体どこを見て偽印と断定されたのか。東京国立博物館蔵のA#との比較だけでは、黒田金印の真贋は鑑定できない筈である。

 宮崎先生の疑念表明は、「広陵王璽」が昭和58年に発見された直後で、そうみれば「広陵王璽」も訝しい。学者が黒田金印と同一工房品と判定するからには、年代や発見場所も含めて二卵性双生児というべく、兄貴が江戸後期の福岡産と判れば弟も同じ産と見たくもなろう。幾ら何でもそれは無理だが、

 「黒田金印と同一工房の制作に見えるように、誰かが作意した」という可能性はどうであろうか。
 筑紫史談会の残党が金印界に紛れ込んでも不自然でなく、昭和の南冥・梶原が広陵王璽発見の謀略を企んだとも憶測しうる。それには中国側に協力者がいないと無理であるが、南京博物院にも疑惑がなくはない。平成11年元旦から放映された三部作のTBSの特別番組「故宮大長征・中国皇帝秘宝1万キロの旅」の中で、「南京博物院関連の倉庫で梱包したままの古陶磁が大量に発見されたが、これは国民党政権が戦後台湾に逃げるときに積み残したもの」と解説していた。その1部が早速日本に運ばれ新宿三越別館で展観されたが、余りの質の悪さに観客は呆れていた。TBS社内でも激しい批判が起こったと聞くが、その後は話題にも出てこない。実は日本人陶工の戦前の模造品を、南京博物院の権威を借りて真作と公認させようとした悪計で、有名な「永仁の壷」の国際版との噂があった。仮にその通りならば、日本古陶磁界の主流と中国の博物館官僚の結託には、当然わが官員も関係している筈で、竹下主導「日中友好」時代の隠微な実情からしても、全くあり得ないことではない。

 ☆印の「第1回」については、後日アップします。

  


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