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●閑話休題
               漢委奴国王印

                     文章が不鮮明なので、念のために記すと。
                     ・・・金印は少なくとも二つあった。
                     右が国宝となり、左は所在不明だが、
                     一旦は、左が本物とされた。
                     加納夏雄の模刻は左を模範としている。
                     『七つの金印』 明石散人 講談社より。

 時計は戻るが、興味深い記述の紹介です。

 ●「疑史」 第4回  (『月刊日本』 2005年1月号 より。   
 

 
 ★金印偽造の真実

 ところで、前掲の論文集成を見るに、編著の契機は、江蘇省の甘泉2号墓の発掘現場の近くのごみ捨場で昭和56年に女子人民公社員が発見した「広陵王璽」なる金印(以下、 「件の金印」とする)にあると推察できる。その理由は、件の金印が、わが金印にそれまで投げかけられたあらゆる疑惑を解消すべき要素を備えているからである。同年4月に名古屋友好訪中団が南京を訪れたところ、たまたま2か月前に出土したばかりの件の金印を見せられ、わが金印との関係をほのめかされたので、帰国後にその写真と出土の状態を金印サークルの中心人物の岡崎敬に伝えた。わが金印の蛇紐に対し、件の金印は亀紐だが、甲羅の回りや四脚部分に魚子をちりばめたデザインや、寸法の点もさることながら、ことに文字が薬研(やげん)彫りであることに金印サークルは狂喜した筈である。何しろわが金印に関する諸疑惑が、ただ1点を除いて悉く解消したのだから。

陰の声あり。 去年の8月に京都高島屋で朝日新聞が開催した展観では、誰のせいだか、何とも取り返しのつかない失策をしてしまった。そこいらの歴史学者などは概ね眼力もなく、朝日新聞もひたすら隠蔽に務めたので、どうやら世間には騒がれずに済んだが、宮崎市定には見つかったようだ。このままでは、いつか贋作説が台頭して、我々の立場はとんでもないことになる。折りも良し、中国で「広陵王璽」が出現してくれた。薬研彫りも魚子紋も、何もかもわが金印に酷似している上に制作年代も1年しか違わない。いつ誰が作ったのか知らぬが、中国でも本物と認めている。これで助かった・・・

因みに前述の「ただ1点」とは2個存在説(正確には複数存在説)のことで、これは全く解消しないどころか、件の金印の出現により、疑惑が時間的・空間的に広がりを見せて、一層深まったものと私は思う。

 南京博物院の報告によれば、件の金印が山陽王劉刑に与えられたのは永平元年(58)で、その前年の建武中元2年こそ、光武帝から倭王に印綬(文面・形状・材質は不明)が授けられた年である。両金印のデザイン・寸法や薬研彫りなどが酷似するうえ、この近接した年代が決め手となり、両印は後漢の都洛陽の同一工房で作られた可能性が高い、とまで言われることになった。折角出現した件の金印だが、その史料的欠点は、発見現場が学者が遺跡を発掘していた古墓ではなく、そこから百余メートルも離れたごみ捨場で、発見者も付近の百姓(女性)であったことにある。

 この状況は、わが金印が志賀島叶埼で所有田の水利工事をしていた百姓甚兵衛に発見されたというのとそっくりで、このあやふやな発見状況こそ、その史料価値を貶めてきたが、件の金印についても同じことを指摘せねばならない。さらに、件の金印の薬研彫りも、従来の漢代古印の例に乏しいから、これ一つだけしかないなら疑念を受けて当然(だからこそわが金印は辛苦を嘗めた)なのだが、両者の邂逅により互いに証人となりあった形で、1件は落着したかに見えた。

 こんな状況をシナでは相互引証的とか言うらしいが、被告両名が相棒の無実を証言する形だから、証拠能力に問題がある。それに、ここまで証拠過多となると、却って出来過ぎの感は否めまい。こんな場合は、どちらか一方の証言が崩れると両方とも崩れ出す。しかし、頭から南京博物院まで疑うことはないので、以下では、とりあえず偽作ないし2個存在 (正確には複数存在)問題の真相を明かすとしよう。

  「文化の日」に本稿を書いているが、資料が手元に見つからないので、以下はやや記憶に頼る。山梨大学の図書館が収蔵する『高芙蓉印譜』に、わが金印が捺されていることが発見されたとの報道を見たのは平成10年ころであったが、何で見たのか忘れてしまった。だが、天明4年4月24日に江戸で死んだ高芙蓉の印譜に、同年3月16日に福岡で発見が届けられた金印が捺される道理がない、との意見は、確か静岡大学の某教授(姓名を失念)のものと覚えている。その後、学界からは何の反応もないようなので、不思議に思ったが、今にして考えれば、『藤貞幹考』の4月2日復刻の一件さえ説明が付かないのだから、金印サークルはこれを無視するしかなかったのであろう。

 都合の悪いことは何でも無視するしか芸がないのがわが学界の宿痾で、それを咎めつつ正道に導くべきシャーナリズムも学界の走狗と化しているのだから、現状この国の文化にはまず救いはない。その中にあって、宮崎先生は、『謎の七支刀』に疑惑をほのめかすことによって、精一杯の抵抗を示された。何べん読んでも、同書のあの部分は蛇足で、名誉の格調に障る。それを敢えて書かれたのである。もし失礼、わが学界に宮崎学統を継ぐほどの学者が居るならば、先生の信条を受け継いで、この問題を自ら解決して貰いたい。 


 この当時、まだわが金印の真相を知らなかった私は、ある人物に教えを乞うた。すでに故人となったこの人物(S)は龍谷大学出身で、某短期大学の教員をしており、「ほんまの仕事は宗教関係の、まあ一種の公安ですわ」と語ったが、彼の極めて深遠な知識と、しばしば呉れる驚嘆すべき情報で、私は京都の宗教中枢の奥深さを知らされた。毎日のように電話でやりとりし、近来の出来事の裏面を語り合っていたが、高芙蓉の印譜疑惑を話したところ、「ちょっと大学の図書館で調べてきますわ」と、言って電話を切ったが、2日もせずに回答が来た。

 「あの金印はもともと黒田藩が天明ころに作ったもんですわ。あの時分はちょうど考古学ブームで、あちこちでこんな真似をしたんでしょう。目的は、将来、黒田の殿さんが征夷大将軍になる時に備えたもんやそうです。博多から昔の日本国王の印が出たのは、黒田の殿さんが将軍になるべき因縁が顕れたもんや、と主張したいからですや。そやけど一個やおまへんぜ。4つくらい作ったらしいわ」

 Sが大学図書館で見た史料によると、わが金印の作者は高芙蓉で、印章学では当時の最高権威であったから、黒田藩は大枚を払って制作を頼んだ。あるいは藤貞幹にも関わって貰ったのかも知れぬ。だとすると4月2日模刻の件が無理なく説明できる。ともあれ高芙蓉は全知識を駆使し、印文はじめ材質・形状・デザイン・寸法などを定めたが、当時のこととて、引証すべき実物や資料が今日よりも逞かに少なかった。尤も、その分だけ事が「バレず」に済むわけであるから安心して、大胆に偽造を実行した。漢印に例を見なかった薬研彫りにしたのは、芙蓉の知識の限界が露呈したものだろう。印文も、「漢倭奴王印」とすべきものを「漢委奴国王」としたため、考えられないほどの無駄な考証を後世の学者に課したが、却ってその分だけ金印サークルの仕事を増やし、利益をもたらしたことになる。出来上がった4個(?)の金印を黒田藩に納めた高芙蓉に、水戸藩から声がかかった。
「噂を聞いて、こりゃ怪しいと思うたんですや。水戸は歴史研究の中心で、歴史は自分とこの最大の使命やから、怪しいから調べよう、と決めたんですな。そこで高芙蓉を儒者として雇うて、ゆっくり泥を吐かそうとしたそうですわ。まさか本藩の藩儒とはでけんから、支藩の宍戸1万石に命じて雇わせたらしいんや。江戸詰めですわ。芙蓉は喜んで江戸に向かいますわ。これを察知した黒田藩から追手が掛かり、黒田の忍者に江戸でやられたんですわ。口止めですや」

 芙蓉の死因は、『大日本人名辞書』によると将官傷寒とある。傷寒は、狭義には重症の感冒で、緊縮凝結による切迫症状のことである。要するに、病名は分からぬが症状は明白で、傷寒としたのは、今日死因として多用する心不全のごとき用法で、毒殺と見てよい。

「何でそんな史料が大学図書館にあるんだい?」
「無論、うちの寺の記録ですわ。本山かて高芙蓉を見張ってたんですな。忍者の報告が本山に残っとんですわ。寺は昔から世事を調べてきたんですわ。外にも膨大な記録がありまっせ」
 「それにしても、この金印は国宝中の国宝だぜ。こんな重要事件の真相を知りながら、世間に教えないというのはどういう了見だ?」
 「そんなん、在家が勝手にやってることに、寺からいちいち口を出しまへんぜ。在家に聞かれても、直ぐに答えるな、なるべく言うな。これが坊主の心得や。初級マニュアルにもそう書いてます」

 以前にもSに助けて貰ったことが何回かある。
 上原元帥付の私的特務であった吉薗周蔵の手記を分析研究している私は、杉村某著の大谷光端伝によると、大正3年に出国したまま数年も帰国しなかったとある光端師と、周蔵が国内で会見した場面が記されているので、解釈に悩み、Sに打ち明けた。
この時も、「明日京都へ行ってきますわ」と言ったが、翌日「分かりましたぜ。光端さんは自分専用の船を持ってたんですわ。そやから自由に入出国しても、誰にも分かりませんやろ。何遍も帰国してまっせ。伝記ら(など)嘘ばっかりや」とのことであった。

 後になって、『周蔵手記』の別紙に記載したメモに「専用船は寺丸という名で、大連の大谷別邸と日本をしじゅう行き来していた」との記載を見つけ、その大学図書館の資料の凄さに舌を巻いた。しかし杉村とて伝記の内容について、西本願寺の了解を取った筈である。これも、在家の勝手にして寺の関わる所に非ず、と言うのであろうか。
 黒田侯爵も本山も、わが歴史学会なぞ黙視しているのは、学会の現状は所詮その程度のものと見たからか。

 

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