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●「疑史」  落合莞爾
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(18)で「吉井友実の維新後の事跡については、先日来『月刊日本』に連載中の『疑史』に述べており、・・・」と言及されていた「疑史」の当該部分を少しずつですが、紹介していきます。

 ●「疑史」―41回  『月刊日本』2008年2月号 K&Kプレス発行。
  

 ★高島鞆之助と樺山資紀(1)

 陸軍元帥上原勇作の私的諜者だった吉薗周蔵の手記を解読し始めてから12年を超えた。最初の10年間を周蔵の活動と見聞を分析することに費やし、2年前から周蔵の背後にいた上原勇作の研究に取りかかったが、従来の歴史常識では理解できない事柄が多く出て来た。その一つは、上原元帥が、①鈴木商店、②日本精糖、③東亜煙草、④横浜正金銀行などの各社に関して特別な権力を有していたと伝わることである。いずれも当の会社の社史には片鱗さえ出てこない。なかでも鈴木商店については、上原の一族日高尚剛が、勇作の叔母吉薗ギンヅル(周蔵の祖母)のダミーとして実質的に動かしていた、との伝承もある。

 日高は鹿児島市山下町に住んだ実業家で、上原勇作との間の往復書簡が首都大学東京に多数残されている。川越藩足軽から出た鈴木岩次郎が神戸で創業した砂糖商・鈴木商店は、障悩や薄荷に進出し、明治18年に入店した柳田富士松が砂糖、19年入店の金子直吉が樟脳を分担して業績は上がった。27年当主・岩次郎が死去し「御家はん」ヨネを担ぐ番頭経営になって飛躍的に発展した。その理由は32年に台湾樟脳の販売権を獲得したからで、金子が大番頭として采配を振るう契機も此処にあったと思われる。

 樟脳・砂糖といえば台湾である。明治28年、日清戦争の結果新領土となった台湾は世界1の樟脳産地ととして知られてていたが、風土気候は砂糖にも適した。台湾政策を立案したのは初代拓殖務相・高島鞆之助、実行に移したのは初代総督樺山資紀であった。薩摩藩以来の関係が深い2人は産業政策の眼目を砂糖・樟脳の製造に置き、財政・社会政策として島民需要の多い阿片・煙草・塩を専売制にした。上のうち阿片以外(多分)を営業品目とする鈴木商店が高島・樺山人脈との間に個人的な関係を生じるのも自然で、上原が有した特殊権力の源泉はその辺りにあるものと見当はつく。しかしながら、総督府が鈴木商店に樟脳販売権を与えた明治32年には上原は工兵大佐で、参謀本部で第四部長・第五部長を歴任し、前後も台湾総督府関係の職には就いていない。その後陸軍少将に進級した上原は、工兵監を経てジュネーブ会議のため渡欧、日露戦争には第四軍参謀長として従軍、凱旋後は中将に進級、第七・十四師団長を歴任し、さらに陸相に任ぜられて、以後は軍政畑で権力を握る。高島・樺山に始まる台湾関係の特殊権力を上原が受け継ぐとしたらおそらくこの時期で、それも高島(または樺山)から個人的に譲り受けたものであろう。

 明治29年4月に伊藤内閣が新設した拓殖務省は1代で廃止されるが、初代大臣・高島鞆之助は、樺山資紀の近縁でアメリカ帰りの樺山資英を大臣秘書官兼大臣官房秘書課長に抜擢し、しかも二女を嫁がせた。高島鞆之助は弘化元年(1844)生まれの薩摩藩士で、文久2年(1862)島津久光に従って上京、禁裏の守護に当たった。薩摩藩邸は京に数か所あったが、そのどこかで女中頭をしていた吉薗ギンヅルと出会い、終生の付き合いとなる。当時伏見藩邸にいて藩士を指令していた吉井幸輔(のち友実1828生まれ)に見込まれた高島は後に西郷・大久保と並ぶ薩摩三傑の一人吉井の後継者になり、吉井の次男友武を長女の婿養子にして子爵家を継がせた。

 戊辰戦争で軍功をあげた高島は、27歳の明治4年御親兵募集に応じて上京するが、折しも宮中改革のために宮内太丞に就いた吉井友実の計らいで宮中に入る。初年侍従番長に昇るが、常に明治天皇に近侍し、聖旨を報じて樺太にも出張した。7年、佐賀の乱に際して天皇の意思を前線司令官に伝えるため佐賀に出張、そのまま陸軍に入って、初任大佐、10年の西南役では薩摩隼人の弱点を衝く作戦を具申して陸軍少将・別働第一旅団司令長官に補せられたが、時に33歳であった。17年の華族令で高島は子爵に叙せられる。師匠の吉井は維新後ほとんど宮内省で過ごし、卿・大臣に一度もならなかったが、伯爵になった。

 樺山資紀は高島より7年の年長で、天保8年(1827)生まれ。橋口家から樺山家に養子入りした。戊辰戦争で功名を成すが、西郷隆盛の命により国元に戻り、知覧地頭となった。明治4年、陸軍に入り初任少佐となるが、御親兵でなく、鎮西鎮台の鹿児島第2分営長に補せられた。同じ年、宮古島漁民が台湾に漂着し原住民に虐殺される事件が生じたが、政府の対応が曖昧なため、宮古島を管した旧琉球国の宗主国を以て任じる薩摩人の間に不満が起こる。陸軍少佐の身で台湾征討の実行を図った樺山は、種々暗躍して陸軍の許可を得、単身台湾に渡って要所を視察した。明治6年の政変のため延び延びになっていた台湾征討は、7年に実行に移され、樺山少佐は陸軍中将・西郷従道、陸軍少将谷干城(たてき)に属して従軍、後に台湾総督になる因縁がここに生じた。

 明治10年の西南の役では、樺山中佐は熊本鎮台参謀長として、谷司令官を扶けて奮戦、「敵の大将は谷でも、樺山が参謀では、熊本城は中々落ちまい」と西郷隆盛を嘆かせた。11年大佐に進級して近衛参謀長、13年には大警視(警視総監)を兼ねた。14年に陸軍少将に進級、7歳年下の高島と一応肩を並べることができたが、ここで生じた上昇気流は17年2月、海軍に転じて海軍少将・海軍大輔(次官)に任じられてから急激になり、同年7月の華族令で高島、野津道貫とともに海軍少将の身で子爵に叙された後、18年6月には海軍中将に進級してようやく高島・野津と対等になる。
 
 海軍次官を7年務めた樺山は、23年第一次山県内閣で遂に海相に就いた。この間高島少将は12年2月から独仏に出張、帰国後の13年4月熊本鎮台司令官、14年に大阪鎮台司令官になる。以後は大阪に居つづけ、16年に陸軍中将・西部監軍部長、21年からの第四師団長時代には軍政家として名望を馳せた。24年の第一次松方内閣で、大山巌の後継者として陸相に就いた高島と山県内閣から留任した樺山海相は、ここに軍部大臣として並んだのである。
 

 安政3年(1856)薩摩藩領の都城に生まれた上原勇作は、高島より12歳若い。御親兵募集に応じた兄を追って、明治4年末に単身上京、麹町の陸軍少佐・野津道貫邸を寄宿先としたが、すべて叔母吉薗ギンヅルの計らいによる。高島鞆之助の妹が野津に嫁いで義兄弟の2人は、当時麹町邸で同居しており、ギンヅルが勇作を預けたのは、野津少佐ではなく、同居の高島侍従の方であった。上原勇作を語る時、父となった野津に焦点が当たるが、薩摩軍人による上原応援団はそもそもギンヅルが工作したもので、高島と野津は樺山を含め、勇作の少年時代から応援団を組成しており、その団長格はずっと高島であった。高島の師匠で、京の薩摩藩邸時代から女中頭のギンヅルと昵懇だった吉井友実も、むろん上原応援団の一員で、顧問格であった。上原の秘密はこの辺りにあるのだが、史家は誰1人気がついていない。 
 

 吉井は軍人としても優れ、戊辰(鳥羽伏見より奥羽役)戦役で与えられた賞典禄1千石は、函館戦争と復古功臣の賞典を合わせても、大名・公家を別にすると最上級で、西郷の2千石、木戸・大久保・広沢真臣の1800石、大村益次郎の1200石に次ぐ。因みに板垣退助も1千石、黒田清隆が700石、山県有朋・山田顕義は600石であるが、上の三つの賞典表に井上馨・伊藤博文の名はない。

 第一次松方内閣で第二代陸相に就いた高島は、選挙干渉の事後処理に反対し樺山海相とともに辞任して枢密顧問官に転じ、日清戦中は予備役中将であった。日清講和後の28年8月、高島は現役に復帰、樺山総督の要請で台湾副総督に就き、台湾土匪を掃討して日清戦争の最終仕上げをした。29年4月、第二次伊藤内閣は台湾総督府を監督する拓殖務省を新設する。初代大臣を委嘱された高島は、台湾政策を練る一方、9月に陸相を兼務した。30年9月、拓殖務省廃止に伴い陸相専任となった高島は、31年1月の第三次伊藤内閣成立で陸相を辞め予備役編入、
その後は枢密顧問官となり大正5年の死去まで20年近く、何をして過ごしていたのか解説した資料をまだ見たことがない。高島の陸相辞任は薩長陸軍閥の暗闘を象徴するものとされ、桂太郎の策謀が囁かれるが、三宅雪嶺の『同時代史』に至っては、その理由を、高島が早熟で年を経て無能化した人材異変と解し、第二次松方内閣の陸相の時にそれが暴露したから、と断定した。以後の論者は雪嶺の説を引用するばかりであるが、真相はどうか。

 吉薗家の伝承では「高島さんは陸軍を途中で辞めて宮中を固めた」というが、その意味は後に考究する。


 高島の後任陸相には桂太郎が就き、参謀総長は次長の川上操六が昇格し、軍政と軍令を分担して日露決戦に備えたが、川上は32年5月急死する。これは明治陸軍史上最大の椿事で、取りあえず大山巌が後を継ぐが、適任がいない。近年発掘の『陸軍大将宇都宮太郎日記』では、宇都宮太郎を中心とする薩摩系の少壮将校が高島を惜しみ、参謀総長に就けるべく「起高作戦」を練ったことが明らかになった。結局、大山参謀総長が37年6月まで勤めた後を山県有朋が継ぎ、日露戦争終結までこの布陣で押し通し、実務は参謀次長を甘んじて受けた児玉源太郎がすべて取り仕切り、結果として戦勝したので、世間は高島が居たことなど忘れてしまい、その雰囲気のなかで史家は冷徹な探究を忘れたものか。

 大正2年、第三次桂内閣に向けられた憲政擁護・閥族打倒運動で政党側は首相たるべき人材の欠如に悩むが、政友会の尾崎行雄は「山本権兵衛で駄目なら高島鞆之助でいこう」と言いだした。「政友会に入れば、閥族でないから良いじゃないか」との理屈である。これは、高島を陸軍から追ったとされる桂に対する当てつけか、或いは政党嫌いで知られた高島に対する皮肉かも知れぬが、高島は無能どころか、その実力は天下周知であったから、尾崎もこの言を吐いたのである。
 
 
 陸軍部内の嘱望にも関わらず、高島が参謀総長になった理由は何だったか。雪嶺の人材異変説の虚妄は明白だが薩長対立説も疑わしい。私見は、吉薗家伝承に基づいて洞察した結果、高島自ら意図的に引退したと思う。明治25年の陸相辞任時に決めた方針に反し、台湾の領有を確実にするために現役復帰して台湾副総督、さらに台湾政策を確立するために拓殖務相・陸相を歴任したが、其処に本意はなく、ために2度目の陸相時代の言動が周囲を迷わし、雪嶺はそれを咎めたのだ。その証明は、高島の師匠たる吉井友実の事跡から始めねばならぬが、次月号以後になる。
 
 
  <続く>
 

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