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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(18)
★「薩摩」の枠を超える第二世代の華麗なる面々 

 本邦洋画の鼻祖とされる子爵・黒田清輝の日記が残るが、その明治29(1896)年5月9日条には、「樺山愛輔と鉄道馬車で新橋まで出た(略)。樺山資英、大久保利武、樺山愛輔、白洲某(日銀)氏らと紅葉館に集まる・・・」とある。慶応2年(1866)生まれの清輝は当時30歳、薩摩第二世代に属した。養親で伯父の薩摩藩士・黒田清綱は戊辰に戦功あり、明治元年3月に弾正少弼、後に東京府大参事・元老院議官を歴任し、子爵を授けられた。歌人としても知られた清綱は、天皇親政派の高崎正風の死後、明治天皇の御製拝覧を命じられたが、右の経歴は吉井友実の辿った道の正に直後を踏んでいる。清綱の弟・清兼の子に生まれた清輝は、明治学院の前身東京築地英語学校から東京外国語学校を出て明治17年に渡仏し、初めは法律を学ぶ予定であったが19年に画業に転じた。帰国後は、本邦に初めて西洋  画を紹介し、日清戦争中は従軍画家として知られるなど、時の人であっ
た。清輝の従兄で1歳年長の樺山愛輔は、時の台湾総督・樺山資紀海軍大 将の長男で、明治10年13歳の時、陸軍少佐だった父の勧めで渡米、アマースト大学を出てドイツに渡りボン大学で学んだが、病のために26年に帰国した。愛輔も典型的な薩摩第二世代でスポーツは万能、日本人で初めてテニスをした人物で、アメリカでは一流選手と対戦をしたという。妻は薩人の海車大将伯爵・川村純義の娘常子(明治8年生まれ)であった。因みに樺山資紀邸には、清輝の代表作「湖畔」が客間に、同じく「読書」が食堂に飾られていた。これも清輝より1歳上の大久保利武は大久保利通の三男で、亡父の功により長兄・利和が授かった侯爵を後日襲爵する。樺山資英は清祥より2歳下で、その経歴については前にも述べた。

 黒田の日記から、年代を同じくする薩摩第二世代の親しい交誼が偲ばれるが、ここに1人だけ「白洲某(日銀)」とあるのが興味深い。横浜正金銀行頭取の白洲退蔵については前月に述べたが、退蔵の息子・文平は明治2年生まれ、東京築地英語学校を出て渡米し、ハーバード大学を出た後、ドイツに移ってボン大学に学ぶ。
 文平より4歳年上の樺山愛輔も同時期にボン大学で学び、当時から知り合いであった。文平は帰国後三井銀行に入るが、すぐに鐘紡に転じた。黒田日記の「白洲某(日銀)」とは、樺山愛輔が連れてきた白洲文平と観て間違いない。留学帰りで27歳の文平を、愛輔が「三井銀行員だ」と紹介したのを、清輝が「日銀」と聞き誤ったのだ。第二世代の愛輔の長女・正子はやがて準薩摩第二世代の文平の子息・白洲次郎に嫁ぐが、このようにして、薩摩ワンワールドが薩摩人の枠を超えて広がっていく様子が窺える。正子は学習院女子部で会津藩の☆松平節子姫(のち勢津子)と同級になり、後年宮中ワンワールドとも言うべき勢力を形成した。夫の白洲次郎は、吉田茂の側近として占頷下の日本の外交・経済を取り仕切ったことで知られている。 

 
 ★高島鞆之助陸相解任の背景にあった三次元対立

 
 日清戦争後、薩摩軍事系の目的は不可避の対露戦に備えるため軍備の一層の充実を図ることにあった。これに対し、政治の理想を政党に求めた伊藤博文と大隈重信は民意と民生を優先し、日清戦後の不況の原因を軍費の増大と見て、軍備の抑制に執心し、そのために日露間の和平を希求した。明治24年以降の歴代内閣の傾向を見るに、薩摩を中核とする超然主義者(政党嫌い)の軍拡志向と、政党と結託した長州伊藤派による軍備抑制志向が交互に反復している。すなわち、第一次松方内閣は薩派が中心で軍拡予算を政党に否認されて倒壊し、続く第二次伊藤内閣は伊藤が政党と協調を試みるうちに、たまたま勃発した日清戦役の挙国一致気運によって乗り切ったものの、改新党の大隈重信の入閣に対する自由党の反発から倒壊した。その後を受けたのが28年9月成立の第二次松方内閣で大隈の進歩党(改名)と連携したため「松隈内閣」と呼ばれたが、連携の真意が金本位制確立にあったと思われ、薩摩ワンワールド内閣の再来とみるべきである。
高島は前内閣の拓殖務相を留任し、新たに大山巌の後の陸相を兼務したが、台湾総督を辞して枢密顧問官となっていた樺山も入閣し、板垣退助の後の内相となった。両大臣は固より軍拡派で連立与党の進歩党と閣内で真っ向から対立したから、進歩党は野党の自由党と連携して政府を攻撃、ために内閣は崩壊、松方は後を伊藤に譲った。
 この間拓殖務省が30年9月に廃止され、陸相専任となった高島は31年1月の第三次伊藤内閣の成立と同時に解職、予備役編入とされたので、高島の陸相時代は前後合わせて3年半に過ぎない。この政変を利用して、本来任期の永かるべき陸相の地位から高島を追放したのは桂太郎で、これにより長州が陸軍人事権を薩摩から奪い、以後の陸軍軍政を牛耳ることとなった。

 第三次伊藤内閣では、下野した進歩党と自由党が合同して憲政党となり、政府を激しく攻撃した。伊藤首相は対抗のために御用政党を結成せんとし、井上馨の了解を得たが、超然主義者を装う山県有朋の反対で長州派は割れた。ここに伊藤は官職を抛って辞職を表明し、議会の最大勢力たる憲政党の領袖大隈と板垣を後任に奏請したので、本邦初の政党内閣たる第一次大隈内閣(隈板内閣)が成立したが、それも進歩党系と自由党系の閣内抗争で自ら崩壊する。組閣の大命は山県に下り、31年11月に第二次山県内閣が成立した。海相は西郷従道から山本権兵衛に代わり、以後山本が薩摩の海軍系の総帥に就く。超然主義が看板の山県も政党政治の流れに勝てず、憲政党と閣外で手を握った。

 これを要するに、軍拡・軍縮および超然主義・政党主義、さらに薩摩・長州の三つ次元における対立が重なり合って、政変の律動を来していたのである。高島鞆之肋の2度に亘る陸相就任と離任も、まさに右の律動に合わせたものであった。高島に対抗する桂太郎が、選挙大干渉以来、高島の果断な行動力を畏怖する政党勢力を手段を尽くして操り、高島の解職をネタに政治取引をしたものと思われる。三宅雪嶺は高島を、「第四師団長で慢心して頭脳に異変を来したもの」と評したが、事実は正反対で、高島の頭脳と胆力を恐れた桂が企んだ政治的陰謀がまんまと成功して、高島の解職と予備役編入をもたらしたのである。桂太郎は、この40年後の昭和13年に、戦略の天才石原莞爾を予備役に追い込んだ東條英機の俑を成したのである。予備役に編入された高島は、1年後の明治32年2月に枢密顧問官に就くが、その後の高島の境遇を示す史料は甚だ少ない。ところが近来発掘の『宇都宮太郎日記』の明治33年条に、これに関して甚だ興味深い記事がある。平和主義の参院議員宇都宮徳馬の父として知られる宇都宮太郎は佐賀藩士の出で、当時は陸軍少佐・参謀本部員であった。後に上原勇作の股肱となり、陸軍大将に昇る。上原が吉薗周蔵に命じて作らせた阿久津製薬が、後にミノファーゲン製薬となって、宇都宮の長男徳馬の政治活動を助けることになる。

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 ☆秩父宮雍仁親王妃勢津子(ちちぶのみややすひとしんのうひせつこ、旧名:松平 節子(まつだいら せつこ)、1909年(明治42年)9月9日 - 1995年(平成7年)8月25日)は、日本の皇族。大正天皇の次男である秩父宮雍仁親王の妃。
旧會津若松藩主松平容保の四男で外交官の松平恒雄(1877年-1949年)の長女。母は佐賀藩十一代・侯爵鍋島直大の娘・信子。
 元の名は「節子」で、成婚の際に雍仁親王の実母である貞明皇后の名「節子(さだこ)」の同字となること(諱)を避け、皇室ゆかりの伊勢と松平家ゆかりの会津から一字ずつ取り、同音異字の「勢津子」と改めた。 

 昭和3年(1928年・戊辰/明治維新から60年目の年)、秩父宮雍仁親王(大正天皇第2皇子)と松平勢津子(松平容保の六男・恒雄の長女)の婚礼が執り行われた。会津松平家と皇族の結婚は、朝敵と汚名を着せられた会津藩の名誉が回復されたことを意味していた。(ウイキペディア)
 

 因みに、秩父宮と勢津子との結婚で朝敵=会津藩の汚名がはらされたことについては、『田中清玄自伝』でも言及されており、孝明天皇の死についても、「明らかに暗殺と聞いておる」と語られている。
 (第一章 会津武士と武装共産党)
 


 
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