カウンター 読書日記 ●『田中清玄自伝』 (2) ちくま文庫
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●『田中清玄自伝』 (2) ちくま文庫
 以下極私的興味をひかれた部分をランダムに紹介して、終わります。***
   

 ●野坂参三をモスクワへ送る

 ☆最近、『週刊文春』が火をつけ、同志・山本懸蔵を密告したことがばれて名誉議長を解任、党を除名された野坂参三ですが、この野坂をモスクワヘ派遣したのは田中さんだったというのは本当ですか。

 ★うん。野坂が日本共産党の名誉議長として百歳を迎え、年金を貰って安穏に生活している。日本でね。それはそれでいいんじゃないですか。ソ連というものがどんなものであったかを理解していただく材料になればと思って以下の話は申し上げるのですが、野坂参三が日本共産党創設以来の古い党員であることは事実です。まあ学者ですね。山口の萩生まれで、慶応を出てね、親代りの兄貴が神戸の材木商かなにかですよ。奥さんは竜といい、実家も葛野という貿易商で裕福なほうだった。彼は海外に留学して社会主義に触れ、日本へ帰ってきて日本共産党に籍を置くようになった。創立当時からですよ。私が最初に野坂を知ったのは、私が共産党へ入る前のことで、野坂参三という学者の端くれがいた。進歩的社会主義者という程度のね。
 僕が彼をモスクワヘやるように主張したというのは事実です。三・一五で野坂は検挙されたが、間もなく出てきた。目が悪く、その治療をするというので、2、3ヵ月の期限付きで出てきたのです。それをさらにズルズルと何回か繰り返しながら、彼は結局1年ぐらい釈放,された状態でした。その頃古い党員がどんどん検挙されていなくなるし、経験のあるものがいなくなって、歴史を正しく伝える事ができなくなっては困るので、そのためと、それから活動させても役に立たんから、モスクワヘやろうと私が言い出したんです。そうしたら佐野  博なんか、「あんな者、やってもしようがない」。「まあそう言うなよ」と僕は言ったんだ。
 転向して出てきていたから、ほったらかしにしておくわけにもいかんし。しかし、彼をモスクワヘ派遣することには、ずいぶん反対の声が強かった。

 ☆―野坂の転向というのは、偽装転向ですか。

 ★いえ、本物の転向ですよ。3・15で彼は捕まり入って、転向して出てきて、1929年6月ごろの話です。

 ☆―共産主義を捨てて、転向して出てきた人物をもう一度、モスクワヘ送り込もうとしたのですか。

 ★もう一度、転向をひっくりかえしてやれと思った。他の人はあれはもう駄目だというが、俺はそうじゃねえ、最後まで使おうと。だれも賛成しなかったよ。だからまあ、野坂を信用はしていないけど、何らかの連絡にはなるだろうし、こっちの空気も伝えて貰いたいと考え  たんです。モスクワは日本の情報に飢えておったようですし、モスクワから盛んに働きかけが来ていましたからね。
 
 
 ☆―野坂とのやりとりはどうでしたか。

 ★野坂は当時、目の柄気仝患ったあと、神戸で静釜中だフかド僕はあいにく病気で、こちらから出向くには遠すぎるので、人を介して野坂に週給を取ったんだ。面封状次郎という友人を通じてね。この男は関西学院の学生党員でした。うちの家内を引き取って面倒を見、後に俺たちを結婚させた大阪の丹羽光という小母さんの甥っ子だった。この欣次郎を使いに立てたんです。党に戻ってこいという我々の働きかけに、野坂は「勘弁してくれ、俺は転向した、党には復帰できない。病気でもあるので運動には加われないが、マルクス主義は捨てない」と、そういう返答だ。もう少し野坂というのは人間がしっかりしていると思ったが、どっちつかずの人間で、そういう返答だ。ようしそうかと。「それではシンパとしてロシアヘ行け」と言ったら、今度は「本当か、喜んでいく」と、そんなことだった。
 
  
 ☆―どうやって渡航させたのですか。

 ★陸路を通って行くルートかおり、それまでにも何名か送ったが危険だというので、別のルートを使った。ロシアの貨物船が東京・芝浦から出てウラジオまで行く。その石炭倉庫に乗せる線があった。これを扱っていたのがオムスです。そのルートはほんらい俺が使うはずだったのだが、俺はソ連へ渡航する気などまったくなかった。それで野坂にこれで行けと言ったんです。小便が大事だぞと。小便はビール瓶にいれて捨てろと。それから向こうへ着いたら、迎えがくるまで動くな、出てはいけないと、そこまで教えたんだ。
 当時、モスクワヘ人間を送り出すためには、いくつかのルートがありました。スタルイハルから東支(東清)鉄道を使うルート、上海を経由してシンガポールから入る路線、それからクアラルンプールーバンコクー雲南ルートというのもあった。最後の路線はコミンテルン極東部とは違う組織が担当し、しかも中国とソ運の仲がうまくいっているときだけ使えたルートです。スタルイハルのスタルイというのはロシア語で古いという意味、ハルはハルビンのハルで、ハルビンの隣にある駅でした。
 このようにルートといっても、ケースによって千差万別でした。たとえばスタルイハルから、東支鉄道に乗ってポグラニチナヤという駅までいく。満州とソ連国境にある小さな町です。おまえの持つ鞄はこういう色で、こんな形のバスケットだとか、服装はこうだとか、あらかじめ細かいいことが打ち合わされている。列車の中で接触するケース、あるいはポグラニチナヤの駅へ降りてから、カンツェライ(ドイッ語で事務所の意味)で待つケース、駅を降りると、駅前から坂道になっているから、そこを登ったところにある中国人の靴屋へ行くケース、一つとして同じケースはない。靴屋へ行っても先に口をきいてはならない。向こうから「ウェア アー ユー カミング フロム?(お前はどこから来たのか)」と聞かれるから、そうしたら「アイ アム フロム ゴトー(ゴトーから来た)」と答えること。これがちょっとでも違っていたら、即時その場で射殺ですよ。NKVD(内務人民委員部。のちのKGB)の任務は本人かどうかをチェックして、国境を越えさせるだけですから、こっちは命がけです。ポダラニチナヤの隣町はグロデコウオといって、もうソ連領です。そこまで行って初めて越境は完了する。
 このルートが一番使われた。プロフィンテルン(赤色労働組合インターナショナル)の第6回大会がストラスブールで開かれて、日本からは、南千住にあった東洋モスリンの女工さんだった児玉静子を送ったのも、このルートでした。彼女は後に風間丈吉と結婚しています。
 野坂はあるインタビューで越境の時の模様を聞かれ、「満州里のカンツェライの前でフットボールで遊んだ」なんて答えているが、とんでもない。実際に彼の越境に関わってきたものからすれば、こいつ、いいかげんなことを言っているなって、すぐにわかる。彼がそのインタビューで言っているのは中国人だけが使っていたルートですよ。野坂は当然スタルイハルで降りることを要求されていた。したがってこのルートを使ってモスクワヘ行ったものと思っている。
 野坂はしかし、着いてからしくじった。というのは自分は日本共産党の代表として来たと主張したんだ。私はパルタイナーメ(党員名)として山岡鉄夫という名前を登録し、使っていたから、日本共産党の代表は山岡(田中)だ、お前じゃないじゃないかというので、野坂はNKVDに検挙された。これは余談ですが、私は当時すでに谷中の全生庵を創建した山岡鉄舟に影響されていたので、山岡さんの名前を拝借したのです。
 野坂が検挙されたことは、我々の方にもソ連大使館のルートから知らせが入ったので、山懸(山本懸蔵)が行っているから、山懸に頼めと言ってやった。それでコミンテルン極東部のウラジオ機関だったオムスは、モスクワに電報を打ったんだろうな。山懸はモスクワからウラジオに飛んで来て、「野坂は党の代表じゃないけれど、スパイではないし、我々の同志だ。彼は自分を飾るためにそう言ったにすぎない」と釈明した。この山懸の証言によって野坂は釈放され、モスクワヘ行けたんです。
 あろうことかその山懸を、野坂はソ連スターリンー派に売った。問題はそれなんだよ。野坂はそういう人間だ。共産党ってそんなもんだ。人格なんかあるもんですか。自分らの出世と存在のためには何でもやる。今の自民党と一緒だ。どっちも同じ日本人だから、変わりがねえ。共産主義者になったから、人格が向上するなんて、そんな事はあり得ない。もっと悪くなりやがる。俺を見ろ。もう少し人間は良かったのに、共産党へ入ったため、これほど悪くなったり、根性もひんまがったし、人をなかなか信用しなくなった(笑)。この俺の唯一つの救いは、紳士面して表面を取り繕っている背徳の徒と違って、少しでも人間性を取り戻そうと思って、禅の修行を今日でも本気になってやっていることだけだ。

 ☆―その山懸、つまり山本懸蔵ですが、どんな人物でしたか。

 ★かわいそうに、いい男でした。三・一五で逃れるんです。肺が悪いと言うのでたしか浅草でしたが、奥さんがいかにも寝ているように取り計らって、2階の窓からそっと下ろして逃がした。それでその後、党の命令でソ連へ渡るんです。警視庁は山懸は肺病でもう立てない身体だからと、警戒を厳重にしなかったので逃げられたんです。党の連絡を待って、正式にソ連へ入っています。ですから山懸はスパイでも何でもありませんよ。奥さんは「シベリアおまつ」と呼ばれた、水商売か何かをしていた人で、山懸に惚れ込んでね。最初にソ連にいった頃だから、党創設のころでしょうね。ウラジオかどこかで知り合ったようでした。奥さんは度胸があったから、警察が踏み込んできてもそっと逃がして、4、5日ばれなかった。

 ☆当時の彼の肩書きは何だったのですか

 ★総同盟の委員長か副委員長でした。それから党の中央委員。日本の古い労働運動の闘士ですよ。大衆煽動をやらしたらうまかったなあ。小樽で沖仲仕の大争議があってね(昭和2年6月)、海上労働者の総罷業で規模は2万人とかいった。彼と一緒に現地へ行った。彼は表の労組の代表として演説をしたが、こっちは裏でオルグです。裏の指導者は三田村四郎だった。陰のオルグとして入り込み、組織を作って相手に打撃を与えてゆくのは、三田村が抜群だった。一方、山懸だが彼の演説を聞くと、大衆はワーッと沸いて立ち上がったもんだ。非常に優秀な大衆組織家であり、活動家でしたね。

 ☆学者肌の野坂とはずいぶん違いますね。

 ★全然違う。あんなのが大衆の前で演説をしたら、燃え上がった火が消えちまうわ(笑)。愛される共産党くらいが関の山だ。俺が言いたいのは共産党はたしかに野坂を解任、除名処分にしたが、なぜ山懸の名誉回復をしないんだということだ。各国の共産党は山懸のような経歴を侍つ者をすべて名誉回復し、党籍回復もやっているのに、なぜ日本共産党はそれをやらないんだということだよ。

 ☆―ほかの同志たちについての寸評を聞かせてください。

 ★鍋山は戦術家、佐野学さんは戦略家で学者、渡辺政之輔は人との付き合いがうまく、巨大な組織者だった。理論家としては高橋貞樹だった。モスクワにあったコミンテルンの幹部養成学校のレニンスキークルスヘ送られたが、ドイツ系ユダヤ人で天才といわれたハインツ・ノイマンと論争して、一歩も引かなかった。しかし、このノイマンも最後はスターリンに殺されている。スターリンという男は、猜疑心が強く、たとえ自分に忠誠を誓った部下や同志であろうとも、自分の地位を脅かしそうなものは一切認めず、これをまだ芽のうちに摘み取り、文字通り根こそぎ殺してしまった。それがロシアというものを、この上もなく惨めなものにしてしまった。それが共産主義というものの本質じゃないですか。同時にそれは人類というものが、自己の保身と出世のためには人を裏切る冷酷な存在でもあるということですよ。

 ☆モスクワヘ渡った山懸については、どう見ていたのですか。

 ★山懸は殺されるぞと。彼は反スターリンだ。率直に物を言う男だから、スターリンのやリ方は真の共産主義じゃないと、あれはかならず言うぜ、そうしたらやられるぞ。これは我々の常識だった。我々ばかりではなく、ソ連を知っている連中、コミンテルンを知っている連中、スターリンを知っている連中、すべての常識だった。各国の指導者からそういう犠牲者を出さして、叩くというのがスターリンのやリロで、それを実行したのがベリヤやKGBの連中だった。

 ☆―コミンテルンではどんな人間と付き合ったのですか。

 ★まずヤンソン。彼が日本共産党と中国共産党を担当していた。クーシネンもいた。彼はコミンテルンの書記長。ヤンソンはもともと船員でラトビア人だった。好人物でしたが、最後はスターリンに殺されてしまった。1929年ごろはジョンソンという名前で日本にきていました。確かソ連大使館の商務官というのが公式の肩書きだったとおもいます。これは一皮剥けば、コミンテルンの日本に対する組織者であり、対日工作の責任者でした。それからブハーリン、ジノビエフ、力-メネフもいたなあ。
 戦後、中国へ行ったときに昔の話をしたら、中国共産党の古い幹部連中は、みなヤンソンのことを知っていましたよ。彼はコミンテルン極東部長をやり、中国共産党も彼の支配下でした。周恩来が海外担当、李立三が国内担当と、コミンテルンに代表を2人出していたのは中国だけでした。それだけ中国の党が大きく、重要だったということです。

 ☆―いま旧悪を暴かれた野坂が、日本共産党を除名されたことについては、どんな感想をお持ちですか。

 ★野坂は自分が粛清されるから、山懸(山本懸蔵)を犠牲にし踏み台にして殺して、自分は党の代表だと名乗った。そんな野坂のような者がやってきた「愛される共産党」なんか、こんなもの、屁みたいなもんだ、いつでも潰してやるわという思いでしたね。(腕を指し)この辺にできた傷みたいなもんですよ。共産党が野坂問題であっぷあっぷしているぐらいがちょうどいい(笑)。
 それと、野坂という男は典型的なジェントルマンで、温厚で、実に狡猾で、陰謀家で、冷酷無比な人間です。まさに共産主義、スターリン主義にぴったりの男だ。そんな男をモスクワヘ送ろうと主張したのは、かえすがえすも私の失敗だった。あの時、私が直接、野坂に会っていれば、彼の本質を見抜けたんだが、とても動ける状況ではありませんでした。というのは、あの時、私は風邪をこじらせ肺炎を患った揚げ句、42度の高熱を出して、宇都宮徳馬君の屋敷に隠れて、静養させてもらっていたんです。非合法だから医者にもかかれない。もうだめだと言われたんですが、彼の家にあった漢万薬を飲んで助かったんです。彼はそれからまもなくして、中国の薬草を主原料とする薬を開発して、ミノファーゲンという会社を興すのだが、それぐらいだから彼の家にはいろんな漢方薬があったんですよ。そんな訳で、関西におった西村欣次郎という男を通じて、野坂をモスクワヘ行くように工作したのです。
・・・
  『田中清玄自伝』 <了>。 
 

 ★<追記> 因みに、【佐伯祐三:調査報告】(左のリンク先をクリックしてどうぞ)には、以下のようにあります。
 
 
 ****************

 ★  第七章  帰国時代  
    第九節 不倫騒動と出立

 幡ヶ谷の周蔵の家は、五百坪ほどの地所に建つ二軒長屋で、壁を合わせた隣に、 管野敬三(仮名)という陸軍軍属が住んでいた。管野の父は、戊辰戦争の頃、会津藩の戦死者が街中に放置されていた時、三番家老町野主水が死体取り片づけのために、秋田から呼んできた内の一人と伝わる。以後、親子二代にわたり、陸軍の下で特殊な役目を負っていたい。現に管野の長男は、陸軍官舎で生まれている。
「救命院日誌」昭和二年四月二日条。
 ケフハ 仰天スルコトガヲコッタ。管野敬三ノ妻君ガ 佐伯トノ浮気ガ発覚シテ 離別シタノデアル。
 その妻 由利子(戸籍名フミ)が、管野が軍の用務で遠方に行ったまま一年も帰宅しないうちに、佐伯と出来た。三月三十一日朝、妊娠していることが夫に知れて、自分で離婚を申し出た。家を出たが、行き場がないので、巻さんの家に身を寄せている。周蔵が、子供の父親は誰かと聞くと、巻が怒ったように、「佐伯さんです」と云った。以上が「救命院日誌」の要約である。

 因みに、会津藩筆頭家老田中土佐の子孫が、弘前高校生の共産主義者で、以前からしばしば上京していた。この三月に高校を卒業して東大に入り、管野家を訪れてくるようになった。夫人の実家二階堂家が会津藩士で、田中家の親戚だからである。やがて隣家の周蔵と親しくなるその東大生は、名を田中清玄という。ところで「周蔵手記」同年三月条に、巻さんが、函館の女学校を出て東京で裁縫の職についた妹チヤさんを引き取り、幡ヶ谷の隣家を借りて一緒に住む、という記載がある。隣家とあるが、正確には近隣ということであろう。

 同月四日条、要約。管野は由利子と離婚すると断言し厳しい状況であるが、相手をさほど憎んでおらず、妻君の不貞のみを怒っている。問題の由利子は周蔵と同じ年格好(実際は明治三十年一月十八日生まれで、周蔵より三歳下)だが、管野との間に二児がある。
 


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