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●『田中清玄自伝』
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(18)
 明治日本における真の権力を掌握した薩摩ワンワールド ◆落合莞爾
 (「ニューリーダー」6月号 はあと出版株 ☎ 03・3459・6557)
 の章末に下のような一節☆があり、最近文庫化されて再読した『田中清玄自伝』(ちくま学芸文庫 2008・5・10刊)にも同様な記述があったので、先ず『田中清玄自伝』の方を紹介しておくことにする。
 
 
 **************
 ☆「・・・予備役に編入された高島は、一年後の明治三十二年二月に枢密顧問官に就くが、その後の高島の境遇を示す史料は甚だ少ない。ところが近来発掘の『宇都宮太郎日記』の明治三十三年条に、これに関して甚だ興味深い記事がある。平和主義の参院議員宇都宮徳馬の父として知られる宇都宮太郎は佐賀藩士の出で、当時は陸軍少佐・参謀本部員であった。後に上原勇作の股肱となり、陸軍大将に昇る。上原が吉薗周蔵に命じて作らせた阿久津製薬が、後にミノファーゲン製薬となって、宇都宮の長男徳馬の政治活動を助けることになる。」(●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(18) )
 ***************

 以下『田中清玄自伝』より。*******

 ●東北学連や新入会の仲間たち
 
 ―実際に左翼運動に入っていったのは、何かきっかけですか。

 大正14年に小樽高商軍教(軍事教練)事件というのがありまして、小樽高商の車事教練を廃止する、しないで騒動となって、弘前でも廃止せよというビラをまいた。それが最初の活動だった。右翼の学生がいきリ立つ。よしっ、やるならこいっ、負けるもんかいと。小さいときから剣道や合気道をやらされていたのが役に立ちましたね。学校はただ保守的なだけですから、どんどん社会科学研究会を伸ばしていって、この年に東北学連ができたのです。

 ―どんな顔ぶれだったのですか。

 仙台にあった東北帝大の島木健作、玉城肇らに鈴木安蔵が中心となって、二高から島野武(元仙台市長)、高野信、角田儀平治(守平)、水戸高から宇都宮徳馬、水田三喜男、山形高から亀井勝一郎、小林多喜二らが来ていた。俺と島野とは兄弟のように親しくなった。東大時代も一緒のアジトだったし、俺と一緒のころに入党した。あれは本来無党派、私らと同じです。高野君もオルグに来ながらバイオリンを持って来て、「ここは静かでいいし、お前のとこは御馳走があるから」って(笑)。私はお金には困っていなかったから、まあ裕福なほうだったんでしょう。
宇都宮は水田と同じく大学は京都ですが、ずいぶん付き合いました。肝胆相照らして、彼も入党させた。でも俺が言わないからだれも知らない。いい奴ですよ。親父は宇都宮太郎という陸軍大将で上原勇作元帥の後継者、お母さんは鍋島男爵家の出だ。あれは戦前からミノファーゲンという製薬事業を興し、事業家としても思想的にも天才ですよ。
 宇都宮には思想的にはもちろん、事業や情報の面でもずいぶん厄介になった。というのはあれの家には、親父の副宮たちがしょっちゅう来ているから、情報が入るんだ。「おい田中、お前憲兵に狙われているぞ。俺と一緒に飲みに行ってりゃ安全だ」なんてね(笑)。それでずいぶん助かった。彼が連れていってくれたのは、柳橋の「柳光亭」とか「亀清」とかの料亭だった。一見(いちげん)さんが行ったって上げてもらえるような店ではありません。幕末の閣老や明治の元勲たちが通った店です。葉山に別荘を買ったとき、金が足りなくなって、彼から借りたこともあったなあ。1万5千円だったか、3年後に返しました。彼はずいぶんいろんな人を助けている。日中友好協会なんかは彼のお陰ですよ。ずいぶん喧嘩もしたけれど(笑)。 


 ・・・中略・・・
 ―いま旧悪を暴かれた野坂が、日本共産党を除名されたことについては、どんな感想をお持ちですか。

 野坂は自分が粛清されるから、山懸(山本懸蔵)を犠牲にし踏み台にして殺して、自分は党の代表だと名乗った。そんな野坂のような者がやってきた「愛される共産党」なんか、こんなもの、屁みたいなもんだ、いつでも潰してやるわという思いでしたね。(腕を指し)この辺にできた傷みたいなもんですよ。共産党が野坂問題であっぷあっぷしているぐらいがちょうどいい(笑)。
 それと、野坂という男は典型的なジェントルマンで、温厚で、実に狡猾で、陰謀家で、冷酷無比な人間です。まさに共産主義、スターリン主義にぴったりの男だ。そんな男をモスクワヘ送ろうと主張したのは、かえすがえすも私の失敗だった。あの時、私が直接、野坂に会っていれば、彼の本質を見抜けたんだが、とても動ける状況ではありませんでした。
というのはあの時、私は風邪をこじらせ肺炎を患った揚げ句、42度の高熱を出して、宇都宮徳馬君の屋敷に隠れて、静養させてもらっていたんです。非合法だから医者にもかかれない。もうだめだと言われたんですが、彼の家にあった漢万薬を飲んで助かったんです。彼はそれからまもなくして、中国の薬草を主原料とする薬を開発して、ミノファーゲンという会社を興すのだが、それぐらいだから彼の家にはいろんな漢方薬があったんですよ。そんな訳で、関西におった西村欣次郎という男を通じて、野坂をモスクワヘ行くように工作したのです。
 

 文字通り、歯に衣着せずに語りつくしたこの「自伝」は他にも興味深い語りに満ちており、

 巧まずして昭和史の貴重な異伝となっている。
    

  引用・紹介を続けます。

 聞き手☆は、大須賀瑞夫(おおすが・みずお)氏です。

 ************

 ●出獄後にもらった一万円

 ☆函館中学時代のことを話してください。

 
 ★まず函館の町について触れましょう。ご承知のように函館は、明治維新前から下田、横浜、兵庫(神戸)、新潟とともに開港されていた。いわゆる五港開港ですね。高田屋嘉兵衛はもちろんだが、北洋漁業をはじめとする遠洋漁業、海運業、倉庫業が非常に発展し、商人道が発達してスケールの大きい商人が輩出した町でした。たとえば日魯漁業を作った堤清六、玄洋社で頭山満先生に薫陶を受けた真藤慎太郎という人もいた。真藤さんなどは戦争中でも軍を頭からどなりつけて黙らせるぐらいの豪傑でした。
 ・・・中略・・・

 それから音楽が盛んだし、至る所モダーンな西欧風の雰囲気が函館にはありました。作家も多いですよ。中学の同級に亀井勝一郎がいました。ハリストス教会の下が亀井の屋敷で、親父さんは函館の古い商家の一人で銀行屋さんだった。

 函館新聞社の社長に長谷川淑夫(よしお)という人がいて、その長男が『丹下左膳』を書いた林不忘です。彼は本名を海太郎といい、牧逸馬、谷譲次というペンネームでも書いていた。俺よりも六つ上だが、中学のストライキ事件の首謀者と見なされ、反発して自ら退校、アメリカに渡ったんだ。その弟が洋画家の潾二郎(りんじろう)、ロシア文学者の濬(しゅん)、作家の長谷川四郎です。私ととくに仲が好かったのは濬だ。お父さんという人は犬養毅とも親交のあった新聞人で、日露戦争のときには戦争反対論者だった。ですから、男の子供がたくさんいたけど、だれも軍隊になんか行きませんよ。そういう自由の気風がありましたね。(北一輝との交流も。)
 それから久生十蘭がいました。本名は阿部正雄、俺よりも四つ上で、亀井の家の隣だった。これは林不忘とは従兄弟同士でね。彼は天才でしたね。そのかわリ学校じゃ不良少年だ。あまり学校などは来ずに、いつもギターを弾いていたなあ。水谷準も函館です。本名は納谷三千男。大正末期に雑話「新青年」の名編集長として知られた人物だが、納谷の親父は日本郵船の函館における幹部だった。日本郵船といえば今東光、今日出海兄弟も函館でした。もともとは弘前の出身だが、父親が日本郵船の函館支店長で、弟の日出海は私と同級でしたので、今兄弟とも親しくつき合いました。石川啄木はもう亡くなっていましたが、娘が女学校におりましてね。これと北海タイムスの記者が恋愛をしたというので、評判になったことを覚えています。

 ☆―函館は北洋漁業の中心地で豊かな経済力を持ち、同時にヨーロッパ式の文化や雰囲気を、フランス、イギリス、ロシア、中国、アメリカ人などを通じて取り入れてきた町だったということですね。

 ★うん。そういう気風の中で私は少年時代を送った。生活はヨーロッパ風、だけど精神は会津の精神です。舟見町という所に叔父の家があり、郵船会社の函館支店長をやっていた。俺が七飯から出て行くと、今日はどこの船が入ったとか言ってね。それでトランプをやって遊ぶんだが、久生十蘭が一番うまかったねえ。

 当時、函館の人ならだれでも知っていた言葉に、ボウギシャというのがあります。路面電車は二種類あり、列車並みの長い方をボウギシャと呼んだんです。束京からきた連中は、こっちが「ボウギシャで行くから、湯の川で侍っていろ」なんて言っても、きょとんとしている。弘前高校へ進んでから、英文学の先生に高杉という先生がおりましてね。後に早稲田の教授になった人です。この先生に函館では長い電車をボウギシャと呼んでいるという話をしたら、「ほう、函館ではそういうのか。英国ではボウギーというのだが、日本で聞いたのは初めてだ」と感心されて、こっちも英語からきているのを初めて知ったぐらいだ。
 ・・・当時の函館は近代的な都市だったのである。

 
 ●東北学連や新入会の仲間たち
 
 ☆―実際に左翼運動に入っていったのは、何かきっかけですか。

 既引用につき、略。

 ☆―弘前時代には農民運動もやっていますね。

 東北学連を作った後、青森県津軽の車力村という農村で、青森県農民運動を起こしたんです。車力農民組合というのを作ってね。淡谷悠蔵さんや、共産党の古い活動家だった大沢久明さんらと一緒に。淡谷さんは歌手の淡谷のり子さんの叔父さんです。

 ☆―当時の党内の様子はどうでしたか。

 ★大正15年、共産党系左翼理論は「俺は日本のレーニンだ」と自己宣伝していた福本和夫でした。東大新人会も社会科学連合会もあげてそうでした。一高出身の佐野文夫や志賀義雄などは新人会のメンバーだが、みな福本イズムになびいていた。学生はどどうしても理論でいくから、福本イズムのような観念論に取り込まれてしまう。しかし、あれがどれだけ日本の労働運動や無産運動を悪くしてしまったか。コミンテルンが「日本の党は堕落してしまった」と憂慮して、ブハーリンが中心になって、1927年7月にモスクワに日本共産党の指導者と、アジア問題の専門家を招集して討議を重ね、テーゼができた。
 その前年の1926年、つまり大正15年12月5日、山形県五色温泉での日本共産党再建大会で、福本は党中央政治部長に就任し、従来の指導理論・山川イズムを圧倒してしまっていた。佐野学らは第一次共産党検挙事件で獄中にいましたから。その時、福本を担いで「これはレーニンの再来だ」と幅をきかせていたのが、徳球(徳田球一)だった。この男は単純だから。

 ☆―福本はモスクワヘ呼ばれましたね。

 ★モスクワは逐一、日本の状況について報告を受けていましたから、福本イズムを日本から排除するつもりで、手ぐすね引いて待っていたんです。モスクワにレニンスキークルスというコミンテルンの指導者養成の最高機関がありました。各国共産党の一番いいのを集めてね。日本からは高橋貞樹、佐野博、これは佐野学の甥で、後に俺と一緒に共産党を再組織した。
ドイツ共産党からハインツ・ノイマンというこれはユダヤ人。ものすごく頭がいい。高橋はそれに負けなかった。そこへ福本のほか、徳田球一、渡辺政之輔、鍋山貞親ら日本共産党を中心とする代表が呼ばれて行った。福本はコテンパンにやられて、もう言葉もない。日本人同士を議論させたんです。高橋が急先鋒で、一番強烈に福本を批判した。福本イズムに立つのは、福本本人と徳球だけでした。それでいっぺんに福本はひっくリ返って、自説撤回だ。
 この時に面白いのは、最後の批判会でも福本はコテンパンにやられるわけです。するとあれほど福本を礼讃していた徳田球一が、
 「俺は福本によって迷惑しているんだ。福本の欠点は前から分かっていた。しかし、福本はなかなか自説を撤回しないから、俺がだましてモスクワヘ連れてきたんだ」
 とぬかして、その掲げ句に福本を殴るか蹴るかしたんだな。渡辺政之輔は自分も福本イズムに走っていたから、それまで黙って聞いていたんだが、これを見て、
 「この野郎、貫禄みたいな裏切り者があるか。今までさんざん福本を担ぎ上げてきたのは、お前じゃないか」
 そう言って、いきなり徳球を殴り倒した。そういう一幕もあったと、この話は鍋山からも聞いたし、佐野博からも聞いた。徳球っていうのはそんな人間だとね。こういうのは徳球に限らず、共産主義者には多いんです。

 それでできたのが<二七年テーゼ>で、これが日本共産党再建の根本方針になった。・・・中略・・・
 
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この記事に対するコメント
はじめまして。

批判などではありません。

ハイン・ノイマン(1902-37)は、ユダヤ人でもユダヤ系でもありません。

また戦後になっても、田中清玄は野坂参三と意外にも(?)関係良好だったようですが、これをどうお考えになりますか。
【2011/02/22 21:10】 URL | オットー #- [ 編集]


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