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 ●『高橋是清自伝』にみる、フルベッキ。
 ●『高橋是清自伝』にみるフルベッキ。

 前稿で、こうあった。

 「 小島: フルベッキは大隈重信と副島種臣の先生として、万国公法やアメリカの独立宣言を教えているし、明治になって東京に招聘され、大学南校の教頭に就任している。フルベッキが南校の構内に住んでいたので、そこにいた高橋是清は彼から歴史を学んでいるし、聖書の講義を受けてキリスト教の信者になったことが、★『高橋是清自伝』(中公文庫)の中に書いてある。高橋是清までがフルベッキ人脈かと驚きました。」

 近現代日本の自伝中の「白眉」だと確信する『高橋是清自伝』から当該部分を紹介しておきます。

**************

●孤高の友と校長辞職の事情

 明治8年(22歳)10月モーレー博士は博覧会の要務をおびて、外国へ出張せらるることとなったので、私も現職より、大阪英語学校長に転勤を命ぜられた。そこで、私は早速赴任の支度に取りかかり、それがすっかり整ったので、後藤常(一条十次郎)のところへ暇乞いに出かけた。
 後藤はアメリカから帰った後、しばらく我々と一緒に森さんの御厄介になり、大学南校教官時代も同様一緒であったが、明治3年鮫島さん、がフランス公使となられた時、外務書記生として随行して行った。そうして、駐在約3年ばかりで暇を請うて帰って来たのである。元来、漢学の力のある人で、かつては老荘の学に熱中したが、私がフルベッキ先生にキリスト教の講義を聞くころには、彼もともに同席して熱心に聴講していた。もっとも私は信者になったが、彼は信者にまではならなかった。それがフランスに行って以来は、却って仏教の研究に煩き、帰朝以来は英語も出来、フランス語も上手であって、外務省では役に立つ人として借しまれていたのに、自ら求めて辞職し、番町の今の山本達雄君の邸の隣に引込んで、一切世間との交際を絶ってしまっ  た。友人たちはしきりに留めたが、彼は何の介意するところもなく、初一念を徹して行くので、ついには誰も取合わなくなり、訪う人さえも絶えてないという寂しい生活であった。だが私だけは前からの先輩ではあるし、どうかしてもう1度世の中に出そうと思って、休日などには、必ずこちらから出掛けてはもう1ぺん世間へ出てはどうだと勧めたものだ。しかるに後藤は「世の中に出る前にまず自分を修養せねばならぬ。自分が出来ていないで、役人などになるのは間違いだ」という議論で却って私に仏教の研究を勧めるという始末であった。従って私が後藤の所へ行って、今度大阪に行くようになったことを話すと、彼は非常に失望して、「世の中の人がみんな自分から離れて行ってしまう時に、君だけはいつも変らず訪ねて来てくれるので誠に嬉しく思っていた。しかるに君はかねて私に対して世間に出て大いに働けというが、私はまた人間が出来てからでなけりゃいかぬといって、この議論の解決はまだついていない。それでまずこの議論の解決からつけよう。そうしてもし私が敗ければ、君の言に従い、君が敗ければ私に従うことにしよう」と言う。
 
 そこで私も「そりゃもっともだ、大いに議論しよう」とその夜であったか、翌晩であったか、一晩夜の更くる(ふける)まで激論した。しかるに、議論の結果は私の方が歩(ぶ)が悪く、ややもすると破られる。よって、私は約束に従い「よし君の言に従おう、さて大阪行きはどうしよう?」と相談すると、言下に「すぐ行ってやめて来い」と短兵急である。
 「今突然辞するについては、いつも自分に親切にしてくれる田中文部大輔や督学局長の野村泰介(もとすけ)君、同僚の服部一三君らには、何とか挨拶をせねばならぬが、何といって説明すればよいか」というと、

「理由はいうな、単に考えるところがあるからといえばよい、そうしてすぐに辞表を出し、旅費や手当なども返してしまえ」という、実はその時すでに洋服代やその他に旅費手当の内をかなり使い込んでおった、が、それは後藤に貯えがあるからその内から支払っておけというのでそうすることにした。

右のような次第で、文部省へ行って、理由もなにも述べず、単に考うるところがあるからといって辞職してしまった。これが大阪英語学校長の辞令を受けてから四日目の10月14日、ついに1回の赴任もせず、校務も見ずして、依願免職となったのである。省の人はこれを聞いて、高橋は気狂いになったと評判しておったそうだ。

 それから私は番町の所に同居し、全く世間に顔出しもしないで、2人きりもっぱら仏書の研究に精進した。しかるに後藤と私は、半年ぐらいの内に、仏教の主旨について意見が合わなくなった。今から考うれば、彼は少しく悟り損っていた。即ち彼は私心なければ何をしてもよいという一種の邪道に迷い込んで、すべての議論が私とは異なって来たので、とうとう2人はわかれるようになった。ちょうどそのころ肥田昭作君が東京英語学校の校長をやっていたので、そこへ行って教官となった。これが明治9年(23歳)5月のことである。

 ●悲痛なフルベッキ先生の晩年

 これより先、モーレー博士が文部省へ来るという噂が立つと、フルベッキ先生は「そうなりゃ、もう自分は要らなくなるだろう。ついては、どこか適当な借家を探さねばならぬが、どうもよい家がありそうにない。一層のこと屋敷を買って、小さくとも自分の家を建てたいと思うが・・・」という相談であった。その時分はまだ条約改正前で、外国人の不動産土地所有権を認めない。それで、先生はさらに「日本政府では、まだ外国人の不動産土地所有権を認めないから、自分で家を建てようと思えば、誰か名義人を頼まねばならぬ。ついては一切のことを君にお願いしたい、どうか君の考えによってしかるべき屋敷を一つ探して貰いたい。もちろん代価はすべて自分が払うが、ことごとく君の所有物としてもらって差支えない。万一君が心変りして、自分の所有権を無視されても自分はいささかも怨むところはない」といわれる。

 フルベッキ先生は、当時文部省の顧問、開成学校の教頭として、随分顕職の人にも知己が多かった。高位高官の人たちが外国の事情を知りたいと思う時には、まずフルベッキ先生を訪ねて教えを乞うた。就中、加藤弘之、辻新次、杉孫三郎などいう人々は、しばしばやって来て、先生の教えを受けた。
 そういう立派な人たちと親しい交際があるのにかかわらず未だ一介の貧書生である私に対して、かくまで篤く頼まれることは、私に取っては面目の至りであるが、考えて見ればかようなことは自分の柄にないことでもあるから、一旦は断ろうかとまで思ったが、翻ってフルベッキ先生の身になって考えると、私に頼まれるなどはよくよくのことであろうと思い返して、快く引受けることにした。

 方々屋敷を探していたら、駿河台の鈴木町に立派な屋敷があったので、早速談判してそれを買い求めた。その屋敷というのは、一方に日本家が建っており、他の方には広い空地が残されてあった。それで空地を地均し(じならし)して、そこに木造2階建ての洋館を建築することにした。
 フルベッキ先生は、洋館の建築中、とりあえず日本家を手入れしてそこに住まわれたが、洋館が出来上ると、すぐにそれに引越された。そうして私に日本家は空いてるから、いつでも来てお住まいなさいといわれるので私も言葉に甘えて引越した。

 この家は以前旗本の邸宅ででもあったろう、かなりの平家建てで、長屋も附いていた。長男の是賢は明治10年(24歳)にこの家で生れた。
 明治11年になって、フルベッキ先生は、いよいよ帰国せらるることとなった。それで先生がいわれるには、
「自分は日本政府からたくさんの俸給を戴いていたが、今財産として残ってるものは何もない、ただこの邸宅ぐらいのものだ、今度帰国するについてはどうかしてこの邸宅を売って貰いたい」 そこで私は早速当時懇意にしておった金持の茅野茂兵衛と辻金五郎とにそのことを話した。すると、両人は、
「そういうわけなら、我々が引受けましょう」
といってくれた。
 一体いくらくらいの値打があるかとだんだん調べて見ると、屋敷の買入れ代と洋館の建築代とで、6千数百円の金が出ている。その他に敷物だの、窓掛だのという家具類があるが、これはいくらになっているかフルベッキ先生にも分らない。とにかく、まず6千円から7千円までの間で売れればフルベッキ先生には大満足だ。先生の方では、住み古した家だから、その値段で売れるかどうか分らない。しかし自分は今急いで帰らねばならぬところだから「椅子やテーブルはそのままにつけて置く」といわれるし、茅野も辻も、フルベッキ先生の事情には大変に同情して「何しろ値段の標準がつかないで困るが、とにかく6千5百円で買いましょう」ということになって、茅野の方へ買い取られた。フルベッキ先生は大変に喜んで、間もなく日本を発ってアメリカヘ帰られた。私もそれと同時にこの屋敷を立退いて、茅野の2階に引越した。

 フルベッキ先生が、いよいよアメリカヘ帰らるることとなると、畏きあたりでは先生多年の功績を嘉して、勲三等に叙し旭日章を授けられ、かつ『大日本史』その他を下賜せられた。当時外人に勲三等を賜うがごときはまことに異数のことであった。

 
 さてフルベッキ先生は、明治11年の夏、家族を引連れ、桑港に上陸すると、ひとまずホテル・ルス・ハウスに入り、間もなくセコンド・ストリートに借家を探してそこに住まわれることになった。
 その時、私と鈴木宛てに手紙を寄越されているが、物価の安いといわれている桑港も、9人の家族を支えねばならぬ自分に取っては何を見ても高いように思われてならぬ。日本では皆が親切で生活も経済的にゆけたが、ここではそれが出来ないから、今後2年とは暮せまい。ただ果実の豊富なことだけはここのとりえだ。・・・とこう書いてあった。
 それから2ヶ月ほど経って、今度は私への手紙に、―自分は健康が回復次第直ちに日本へ帰ることに決心した。ここでも伝道や教育についてなすべきことがないでもないが、自分はここよりも日本へ行った方が、モットよく自分の天職を尽すことが出来るように思う。そうして、今度日本へ行くには単身か、さもなくば、ごく少数の家族で行く。それから、私はもう政府のお雇いは御免被りたい。ただ教育方面からの話があれば、それは考慮して見ねばならぬが、他の方面は一切お断りして、もっぱら願訳と伝道に主力を尽したいー

 先生は日本を去っても、日本人の厚情、日本の住みよいことは非常に執着を持っておられた。この手紙の後半にも、明年の秋には是非日本へ帰りたいと繰返し繰返し書いてあった。
 その後、先生と私とは久しく消息を絶っていたが、明治22年(36歳)ペルー銀山の用務で渡米した時先生の家族をカリフォルニヤの田舎に訪ねた。当時、先生は日本へ行って留守、夫人は病気で会えなかったが、お嬢さんが出て来て、「今、自分は小学校の教師をしてやっと生活だけは続けているが、何とかしても1度日本へ行きたいと思う。妹は桑港の幼稚園で保母をしている、弟のギドウも桑港で働いている」という。いかにも気の毒な家庭の有様であった。

 翌23年、私はペルーから帰朝したが、ある日用件をもって横浜へ行ったら思いがけなく、バッタリ先生と出会(でくわ)した。無論先生はその時も宣教師の資格をもって来ておられたが、まことに悲惨な境遇であった。というのは、元来フルベッキ先生は、最初に来朝せられた時宣教師として来られたのであったが、その主義とするところは、ただやたらに教理を弘めるだけではいかぬ。その根本は教育でなければならぬというにあったから、本職の宣教師の方よりもむしろ政府の雇い人として、教育のことに力を注がれた。

 実際、また東京へ来らるる前、長崎時代から先生はもっぱら力を教育のことに用い、その門下には大隈侯始め多数の肥前人がおった。それで先生が大学南校に聘せられて東京へ移られると同時に、肥前生と称えられた書生の一団が、同じく大学南校に転校して来たくらいであった。そういうわけで、先生は宗教家としてよりも、むしろ教育家として働かれ、ことに大学南校の教師となられてからは政府より手厚き給与を受けていられたので、仲間の宣教師どもは窃かにこれを妬みかつ非難しておった。

 従って2度目に宣教師として来朝せられた時も、もちろん日本語はさい輩を抜いているし、説教や文章なども立派であったが、宣教師仲間にはあまり気受けが好くなかった。その時先生はいかにもしんみりした調子で、「自分は今宣教師をやっているが、一層のこと日本に帰化したいと思う。日本政府から月百円の給与を保障してくれるならば、それで自分は食って行けるから日本人として一生を日本に仕えたい」
といわれた、私は先生の境遇をいかにも気の毒に思ったけれども、自分自身がペルー鉱山の失敗後で、如何ともすることが出来なかった。そこでそのことを加藤弘之、辻新次、浜尾新君らに話して助力を請うた。これらの人々も大いに同情して、文部省その他に尽方してくれたけれども、それがうまく行かぬ内に、先生はとうとう脳溢血で亡くなられた。誠に悲痛な最期であった。

  <了> 
 


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