カウンター 読書日記 ●近代日本の基盤としてのフルベッキ山脈
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●近代日本の基盤としてのフルベッキ山脈
<参考>

 藤原肇氏の対談集『賢者のネジ(螺旋)』(たまいらぼ出版 2004・6・30刊 1500円)の第六章としてフルベッキに関して興味深い対談が収録されているので、紹介しておきます。
 ***************  


 ●第六章 近代日本の基盤としてのフルベッキ山脈(対談者 小島直記))

 ★三宅雪嶺『同時代史』のスゴさ

藤原 日本の歴史は皇国史観や支配者のエゴで、意図的に歴史の捏造が行われて来た過去を持ち、その名人が私の家系に繋がる藤原不比等でした。そのために日本の古代史は支離滅裂ですが、それに等しい間違いが氾濫しているものに、幕末から明治の初期にかけての歴史がある。小説が歴史を僣称していることが原因で、嘘が虚構の形で罷り通ってしまっているために、われわれは祖父の世代の歴史に関して、本当のことを知らないでいると思う。だから、小島先生に書き直しの仕事をお願いしたいのです。あの時期の人物について多くの本を書かれ、伝記作家として時代的な背景を描きながら、そういうバックグラウンドと史眼を持っておられる点で、先生の右に出る人は先ずいない。

小島 そういう点では三宅雪嶺の『同時代史』がいい。彼は日本の歴史を自分が生まれた万延元年(1860年)から始めており、私は読書会でこの本を会員と一緒に勉強したが、実に偉い学者だと実感しました。

藤原 三宅雪嶺は強烈な国粋主義者だというので、私は彼の本をこれまで1冊も読んでいません。どんな風に偉いのかを教えていただけませんか。

小島 一口で言えば、それは彼が大学教授にならなかったことです。京都大学の文学学部長の話も歯牙にかけなかったし、博識で人格高潔な雪嶺は在野精神を誇り、言論人として無冠の帝王として生涯を貫きました。彼は東大の文学部で哲学を専攻しているが、在学中に教室ではなく図書館に通ったと言われ、そのシャープな頭脳には快気が充満していました。『同時代史』が持つ比類ない素晴らしさには、いまどきの日本の歴史学者がどんなに逆立ちしても、あれだけのものを書けるとは思えません。民族の誇る宝だのに、惜しくも絶版のままです。

藤原 そんな凄い本が絶版で誰も知らないとは、日本人の歴史感覚が衰えている証拠ですね。恥ずかしながら、私もその本の存在を知りませんでした。

小島 三宅雪嶺は当事者の手紙を資料に使っており、明治時代は人と会った後は必ず手紙を書き、会見内容をきちんと整理しておく習慣がありました。だから、この手法を活用することで、事実をきちんと押さえ、歴史とはこういう構成で組み上げるのだと、自ら歴史に取り組む姿勢を明示しているのです。その点では、出まかせを並べ立てて平然としていた徳富蘇峰などは足下にも及ばないし、言論人としての信念も思想も格も違う。

藤原 徳富蘇峰は変節漢だけでなくインチキ男です。権力に懐柔されて御用言論人になってしまい、政府のプロパガンダの旗振り役でした。だから、弟の徳富蘆花からも変節を理由に義絶されており、行き着いたところはファシストの権化でした。三宅雪嶺が歴史の資料に手紙を活用したように、マリアス・ジャンセンも『坂本龍馬と明治維新』(時事通信社刊)の中で、手紙を使って心理分析と状況判断をしており、幕末から明治維新にかけての時期を描いたものでは最高です。続いて大仏次郎の『天皇の世紀』(朝日新聞社刊)があり、その次には奈良本辰也が書いた各種の歴史評論がある。その後に、萩原延壽の『遠い崖』(朝日新聞社刊)や村松剛の『醒めた炎』(中央公論社刊)になる。しかし、小説は10位以下というのが私の判定です。

小島 小説はフィクションとして読者に迎合するから、どうしても面白くしなければならないので無理がある。あれだけ国民に人気のある司馬遼太郎でも、かなり嘘を書いているのに、読者はそれに気がつかないで、小説を歴史と取り違えている。小説を書くときの悩みはそれをどう克服するかであり、そこに小説や文学の限界を感じた。そのために、私は同じ小説でも伝記を書くことに人生の路線を改めました。そして、人間を描くことを通じて彼が生きた時代に迫り、歴史の空白部を埋めることができないかと思って、これまでなんとか仕事を続けてきたが、雪嶺の『同時代史』を読んだ時には衝撃を受けました。

★幕末史で見直すべきフルベッキ

藤原 三宅雪嶺から徳富蘇峰の話になったので、蘇峰が熊本バンドだった熊本洋学校のことになりますが、これは幕末に渡米した横井太平の発案で、欧米文明を学ぶために作られた学校です。横井太平は長崎で英語と文明を学び、G・H・F・フルベッキのアドバイスに従って、兄の左平太とともに、1866(慶応2)年に米国に私費留学しているが、2人は蘇峰と同じで横井小楠の甥に当ります。しかも、横井小楠もフルベッキから西欧思想や国情を教わり、開明思想を確立する上で大いに役立てている。また、小楠の先見性を最も評価したのが勝海舟です。

小島 そうですね。幕末の歴史で日本人に与えた影響が大きいにもかかわらず、外国人の役割評価が低いが、これまで看過されて来た人としては、アーネスト・サトウとフルベッキがいると思います。英国の外交官のサトウは『一外交官の見た明治維新』を書いたし、西郷吉之助(隆盛)や桂小五郎(木戸孝允)などと親交を結び、日本文化や日本史の研究において、非常に優れた観察と分析を残しています。

藤原 だが、アーネスト・サトウが書いた記録の中には、長崎における出来事はあまり書いてありません。でも、主に江戸や京都を舞台にした外交交渉を始め、討幕運動についての記録が多いだけに、表の歴史の落穂拾いにはとても役に立ちますね。

小島 サトウが活動した当時の外交交渉の性格からして、歴史の中心は長崎から東西の都に移っていたので、ペリーが訪日してからは長崎の重要性が低下した。それは福沢諭吉の人生のパターンからも言えることですが、人材教育の面でフルベッキを中心点に置いて、明治になって活躍した日本人を捉える観点で見れば、彼の存在が重要だったという意見に大賛成です。

藤原 横井小楠の2人の甥が渡米していますが、兄の横井左平太はアナポリスの海軍兵学校に入学しています。また、勝海舟の長男の小鹿もフルベッキの手配でアナポリス海軍兵学校を卒業しているが、残念ながら2人とも結核のために若死にしています。もし、帰国後にこの2人が海軍の中核になっていたら、日本の明治の歴史はずいぶん変わっていただろうし、海軍が陸軍に従属しなかったかも知れません。

小島 海軍が英式から米式に変わったかもしれないし、アメリカ海軍の恐ろしさを日本人に伝えるうえで、大いに貢献したということも考えられる。それにしても、当時の結核は現在のガンに似て不治の病でして、有能な人材が結核で倒れて若死にしており、血を吐いて肺病を呪った俳人の正岡子規にしても、徹底的に生命力を消耗させられています。

藤原 フルベッキは岩倉具視の2人の息子に英語を教え、彼らをアメリカに留学させるために手配をしており、旭小太郎(岩倉具定)と龍小次郎(岩倉具経)の兄弟は、ラトガース大を卒業して明治の顕官になっています。その関係もあり、岩倉遣欧使節団の派遣も、フルベッキのアドバイスが計画の基にあって、近代化に大きな役割を演じています。

小島 フルベッキは大隈重信と副島種臣の先生として、万国公法やアメリカの独立宣言を教えているし、明治になって東京に招聘され、大学南校の教頭に就任している。フルベッキが南校の構内に住んでいたので、そこにいた高橋是清は彼から歴史を学んでいるし、聖書の講義を受けてキリスト教の信者になったことが、★『高橋是清自伝』(中公文庫)の中に書いてある。高橋是清までがフルベツキ人脈かと驚きました。

藤原 小島先生の本の中には、あちらこちらに、フルベッキ博士の名前が登場している。先生はそういったバックグラウンドをすでにお持ちだから、幕末から明治半ばにかけての歴史として、フルベッキ人脈を中心にまとめてほしいのです。この歳でそこまでできないと言われるでしょうが、それをやれる日本人は先生の他にいないのでしょうか。

●人材教育が導いた幕末の改革

小島 私は80代の半ばという年齢に達しているから、新たな挑戦の仕事はもっと若い人に任せて、側面からのアドバイスをする程度がいい。しかし、フルベッキ博士を中心に明治の歴史を書く仕事は、言うまでもなく実に興味深いものです。岩倉具視の息子たちまで留学させたことからもわかるように、教育者としての彼の貢献は偉大でした。長崎で生まれてフルベッキに英語や歴史を習った人には、枢密議員議長になった伊藤巳代治をはじめ、郵便制度の父と呼ばれる前島密もいる。長崎における教育者としてのフルベッキは、確かに明治の人材に絶大な影響を与えています。

藤原 教育者として人材を育てたという視点が重要であり、西欧文明に根を生やすフルベッキという幹から、横井小楠をはじめ大隈重信や勝海舟の枝が伸びた。そして、幕末にかけて育った人材が葉や花となって、われわれに近代国家の果実を約束したのに、普仏戦争の幻想に迷ったプロシャ派の日本人が、ドイツ産の幹を接木したのは悲劇でした。

小島 藤原さんも私もフランス派に属す日本人だから、プロシャの仇をフランスで討つにしても、フルベッィ先生はオランダ系のアメリカ人です。確かに、日本がプロシャに幻惑された最大の理由は、軍事力と工業力という目に見えるものだったが、フルベッキは宣教師として日本を訪れたのであり、目に見えない影響力で文明の精神を伝えたのです。

藤原 そうですね。私は日本人では佐久間象山と横井小楠を敬愛していますが、横井小楠の場合は富国強兵だけでなく、それに士道を加えた三本柱で考えており、「国是三論」の思想を構成しているからすごい。富国・強兵・士道の三本柱がヨーロッパ精神で、富国強兵だけで終わったのがドイツだと私は考えており、日本がドイツ派に席巻されると発狂するのです。
 これは『日本脱藩のすすめ』(東京新聞出版局刊)に引用しましたが、英国の歴史学者のA・J・P・テーラーは『ヨーロッパ・栄光と凋落』(未来社刊)の中で、「ドイツ人は合理的秩序を保つために、常に鉄のような規律を求めてきた。ドイツ人はこの枠組みがなくなると二―チェのように発狂する」と書いているように、今の日本でもドイツかぶれが発狂し始めています。士道は“志道”で正しい政治をするということであり、横井小楠の思想の高邁さと広さに感銘して、人をあまり褒めない勝海舟でも絶賛している。幕末から現在まで日本では、士道が行方不明なのです。

小島 武士道ではなくて小楠の言う士道は良いですね。英明君主といわれた越前藩主の松平春嶽に三顧の礼で迎えられて賓師になった小楠は、実学を通じて経世済民を実践することを通じて、優秀な人材を数多く育て上げた。その弟子として藩の財政立て直しを実行したのが、机上の学問ではなく実地調査を行った三石八郎であり、彼は由利公正と改名して明治政府に出仕しています。彼は五か条の誓文原案を書いているが、有名な第一条の「万機公論に決すべし」という言葉は、横井小楠の思想を受け継いだものです。

藤原 勝海舟はその横井小楠を義弟の佐久間象山より評価していた。小楠はフルベッキの世話で甥をアメリカに留学させたが、海舟も息子の小鹿を、海軍が重要だからとアナポリスに入学させるために、渡米させたのでしょうね。

小島 そうでしょう。勝海舟は大ボラ吹きだったから信用がなく、奥さんは一緒の墓に入るのを嫌がったそうですが、坂本龍馬は日本一の偉い人と尊敬して、この海舟に弟子人りしたのだから面白いです。また、海舟に会う前の龍馬はコチコチの攘夷論者で、開国論を唱える勝の暗殺を考えていました。そこで、幕府の政事総裁だった松平春獄に面会し、勝への紹介状を書いて欲しいと頼んでいます。

藤原 幕府の政事総裁といえば首相の立場だが、当時の厳しい身分制度の壁があったのに、どうして龍馬が面会できたのか実に不思議です。脱藩した一介の浪人である龍馬が会って、紹介状まで書いてもらったというのは、普通ならとても考えられないことですね。

小島 面会して紹介状まで書いてもらった話は、ことによると小説の中のことかもしれません。もし事実なら松平春獄の包容力の証拠であり、龍馬が海舟を殺そうとする気配を知りながら、あえて紹介状を書いたなら大した心意気です。しかも、龍馬は海舟に会って攘夷思想の愚かさを知り、勝海舟に弟子入りして開国派に転向し、同時に横井小楠に傾倒して指導を受けた。それで人物としてさらに大きく成長していくのです。

●龍馬もフルベッキに学んだ?

藤原 坂本竜馬がフルベッキに学んだとは誰も書かないが、あれだけ好奇心の強い竜馬のことだから、彼が長崎で海援隊を動かしていた時期に、頻繁にフルベッキの塾に出入りしていたはずです。長崎奉行所が作った済美館と佐賀藩の致遠館は、ともにフルベッキが校長として教えた教育施設だし、致遠館の逸材が大隈重信と副島種臣でした。だから、大隈が創立した早稲田大学は致遠館が源流で、明治になると、東京に招聘されたフルベッキが大学南校の教頭に就任している。私学と官学の源流に立つ人だったわけです。

小島 しかも、フルベッキから聖書と万国法を学んだ大隈は、明治初年に大阪でキリシタン禁制の談判が行われた時に、英国のパークス公使と大激論をしており、正々堂々と渡り合って相手を感心させています。その話は『一外交官の見た明治維新』に書いてあるが、「初めて顔を見知った大隈八太郎という肥前の若侍が、自分は聖書や祈祷書を読んでいるから、この問題は十分に心得ている、とわれわれの面前で大見得を切った」というのです。この談判が評価を受けて三条実美に抜擢され、大隈は外務次官(外国官副知事)になり、明治政府の官僚として出世街道を駆け上ります。彼は築地本願寺の側に大邸宅を構えたので、そこに豪傑が集まり築地梁山泊と呼ばれたが、大隈邸の隣の小さな屋敷が伊藤博文の家で、その門内の長屋に井上馨が住んでいたのを見ても、いかに大隈が時めいていたかよくわかります。

藤原 国家としての日本の出発について、廃藩置県や教育制度の整備などが実施され、富国強兵が政策の中心になったという具合に、習いましたが、そういう明治の初め頃の人間関係については、歴史として読んだ記憶はあまりない。日本の歴史は皇国史観や薩長史観に支配されたので、薩長の連中にとって重要だとされたものだけが主体になって、維新以降の歴史が書かれていると考えるのは、江戸っ子の私のひがみでしょうか。

小島 私は九州の福岡県で生まれた人間だから、そんな感じがしないこともない。ただ、東京の人は地方の出身者に偏見を持つから、東国政権としての徳川幕府を倒した薩長の人間に対してとくに反発するのでしょう。

藤原 そういわれると図星だから参ってしまいます。でも、明治政府を支配した長州系の権力者の多くが、吉田松陰の松下村塾の出身者だから、松陰を偉大に描きすぎていると思うのです。確かに、松下村塾からは高杉晋作をはじめとして、伊藤博文や山縣有朋などが出ているし、彼らは奇兵隊を指揮して立身出世しています。また、吉田松陰が教育者として孟子をテキストに使い、人材を育て上げたことに関しては評価するが、松下村塾はある意味でテロリスト養成所として、タリバン(神学塾生)に似ているのではないかと思います。

小島 アフガンのタリバンとの比較は奇抜なだけでなく、タイムリーな発想でとてもわかりやすい。しかし、吉田松陰の信奉者たちが聞いたら怒るでしょう。でも、松下村塾の四天王と呼ばれて皆の尊敬を集めていた高杉晋作、久坂玄瑞、吉田栄太郎、入江杉蔵ら全員が、御一新が完成するのを迎える前に斃れています。また、佐世八十郎(前原一誠)は新政府で陸軍大輔になったが、辞任した後で萩の乱の首謀者として処刑された。生き残って明治政府で栄華を極めたのは、足軽出身である伊藤博文と山縣有朋でした。

藤原 この2人は奇兵隊の指揮官として足場を築き、有能な先輩がどんどん死んでいったおかけで、明治になってから位人臣を極めています。また、伊藤の場合は幕末のロンドンに密航して渡り、半年ほど滞在して英国の社会を体験しています。

小島 伊藤悛輔(博文)と井上聞多(馨)が訪英したのは、福沢諭吉が訪欧から戻ってから半年後の1863(文久3)年であり、ロンドンで下関砲撃のニュースを聞いたので、大急ぎで帰国したのに英語はかなりできたようです。それからは長州征伐の混乱期だったので、2人は銃の手配に長崎に何度も出かけて、武器商人のグラバーや坂本竜馬と取引しており、このへんが歴史のエピソードとして面白いところです。

●忘れ去られた近代日本への影響

藤原 ちょうど蘭学から英学に移行する時期に当たり、フルベッキはその橋渡しの役目を果たしたが、福沢諭吉も一歩先んじてその体験をしています。

小島 福沢諭吉は長崎で蘭学を学んで大坂に出て、緒方洪庵の適々斎塾で学び塾長になるが、藩命で江戸に行って蘭学塾を開く。ところが、ある日のこと、横浜に行ったら看板が読めず、役に立たないオランダ語から英語に切り替え、ショックで蘭学をやめて英学に変わった話は有名です。しかも、万延元年(1860)の遣米使節団に木村摂津守の従僕として渡米し、続いて遣欧使節団の翻訳方としてヨーロッパ各地を訪れ、その体験から『西洋事情』をまとめて出版した。・・・中略・・・

日本との結びつきという意味でオランダの存在は、江戸時代の長崎の出島における関係だけでなく、幕末から明治における西周や榎本武揚を含めて、近代日本に大きな影響を及ぼしています。
藤原 その2人の幕臣(西周と榎本武揚)はライデン大学に留学したし、母方の郷里が島根県の津和野で、私は西周とは不思議な因縁でつながっているのです。だから、高校時代に『百一連環』を読んだことの影響もあり、ライデン大学に憧れたこともありました。そして、中学生の頃からフランス語をやっていた関係で、フランスのグルノーブル大学に留学しました。

小島 そうでしたか。私はオランダヘは碁を打ちに行ったことがありますが、予想もしないほど素晴らしい碁の伝統ができていた。オランダを訪れてみて初めてこの国の性格がわかり、オランダ人についての理解と評価ができました。アムステルダムやロッテルダムのように、個性的な都市が独自の経済活動をしているし、チューリップと運河がオランダを象徴する点て、実にのどかで平和な国だという印象を持ちました。自国よりも低い海面下に国土を造成して、海洋を自国の延長であると考えて海外に進出し、地球の果てまで雄飛する精神は見上げたものです。最初に株式市場と株式会社を作った国だけに、その国際性の面では世界における先進国です。

●答えを教えない。「正道」を守る

藤原 私もそう思いオランダ人の学友に感謝しています。また、オランダ人の面白さは着眼点の良さを誇るとともに、学位や肩書きなどにはあまり執着することなく、興味深いと思う場所を求めて世界中を渡り歩き、何らかの種をまく形で仕事を残すことです。

小島 種まく人ではなくて種まく民族というのは、いかにもオランダ人らしくていいですね。

藤原 私の青春時代の体験を通じてよくわかることは、フルベッキの生き方の中にオランダ気質が沈積しており、「彷徨えるオランダ人」-フライング・ダッチマンーそのものだという点です。オランダ生まれの彼はユトレヒトの工科学校に学び、20歳の時に新天地を求めてアメリカに渡り、鉄道技師として働いていた。その時に伝染病で倒れたが、病床で宣教師になって布教しようと決めます。ちょうど日本はペリーの黒船に脅かされて開国を決め、帝国主義の勢力争いの穴場に似たところだったのです。彼は布教のために幕末の長崎にやってきたが、日本は蘭学から英学に関心が移る転換期であり、フルベッキは架け橋の役目を果たしたのです。彼は海外での長い彷徨でオランダ国籍を失ったが、肩書きに執着しないからアメリカの国籍も取らず、日本でも帰化しないで地味に暮らしたので、無国籍の世界市民として日本で生涯を終えた。東京の青山墓地に葬られているのです。
そこで無理を承知でお願いしたいのですが、福沢山脈を探検して記録を残した小島先生に、フルベッキ山脈にも踏み込んでほしいのです。

小島 フルベッキが大隈重信や副島種臣をはじめとして、高橋是清に至る明治に活躍した日本人に、絶大な影響を与えたことは疑いえない。日本人としてその恩恵を大いに感謝したいと恩います。人材を育てた恩人としてのフルベッキ先生は、一般には明治のお雇い外国人の1人であるという形で、その貢献に対して評価が行われているが、「彷徨えるオランダ人」という捉え方は実に新鮮です。
 彼が育てた幕末の日本の若者が成長して、その実力と見識によって近代日本が作られ、日本の進路が決まったことがわかった以上は、ライジングサンのフライング・ダッチマンの存在が、これからの仕事にとって大きな励みになります。 
 

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