カウンター 読書日記 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―4
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―4
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―4

●なぜ松方正義は大隈重信を凌駕できたのか
 
 
 『横浜正金銀行史』のなかで同行の父親に譬えられる大隈重信はフルベッキ神父の直門である。

 維新政府では、当初は外国事務局や外国官を歴任したが、明治2年に会計官出仕となって財政畑に転じて以後、13年2月までは一貫して大蔵省最高首脳のひとりであった。片や同行の母親に擬せられる松方は大隈より3歳年上であるが、維新政府では長崎県裁判所参謀助役を皮切りに民部(内務)畑を歴任し、4年7月に大蔵省に転じて以来ずっと大隈の配下となり、明治8年11月から13年2月まで大蔵大輔を勤めた この間、10年10月にフランス博覧会事務副総裁としてフランス出張を命ぜら、11年3月から12月まで滞仏した。この時にフランス蔵相で、パリ・ロスチャイルド家の番頭と言われるレオン・セーに会い、中央銀行設立を助言された。これは偶然ではなく、訪仏の真の目的がロスチャイルドはじめ欧州の金融ワンワールド首脳にお目見えすることにあったと観るべきであろう。その折、中央銀行の設立と不換紙幣の整理を助言(命令)されたことは疑い得ない。帰国後の松方は、永年の上司であった大隈の積極財政を一転して批判し、真っ向から対立した。ために13年2月、内務卿に転じたが、明治14年の政変において大隈が失脚し、後釜の大蔵卿・佐野常民も辞任すると、松方が大蔵卿に就き、不換紙幣の整理を目的とする厳しい引締政策を実行した。後年のことだが、日銀副総裁として5年間にわたり澄田総裁を支え、バブル政策に加担した三重野康が、総裁になるや一転してデフレ政策に転じたのは、そこだけ見れば松方と似ている。

 政府不換紙幣・国立銀行不換紙幣の整理を図るため、中央銀行を創立して正貨兌換紙幣を発行させて通貨価値の安定を図るとともに、中央銀行を中核とした銀行制度を整備し、近代的信用制度を確立することを提議したのが松方である。明治15年に日銀条例を制定、同年10月6日にはかつて横浜正金銀行管理長であった大蔵少輔・吉原重俊を日銀総裁に任じ、同月10日を以て日銀は開業した。14年10月に初めて大蔵卿に就いた松方は、18年12月の内閣制度発足で大蔵大臣の名称となってからもその座に在り、24年5月には総理大臣を拝命するに至るも、なお蔵相を兼務、結局25年8月に第一次松方内閣の崩壊に際して蔵相の座を渡辺国武に譲るまで、実に11年近くも継続して蔵相の座に在ったのである。しかも、後を継いだ第二次伊藤内閣にあっても、28年3月から8月まで蔵相を務めた。それだけではない29年9月に再び大命降下を受け、31年1月まで続く第二次松方内閣でも蔵相を兼務し、更に31年11月から33年10月の第二次山県内閣でも蔵相に就いたので、合計すれば14年半、これに大蔵大輔時代の四年半をも併せれば、実に19年に及ぶ期間を大蔵省の最高首脳として帝国の財政を壟断したのである。実に、明治の財政金融は松方1人が取り仕切ったと言っても過言ではない。松方の第二次内閣は、かつて上伺として仕えながら、帰国後にその積極財政策を批判したため不和となった大隈を、外相・農商務相として招いた。この内閣の最大の業績は、周囲の反対を押し切って、貨幣法の制定により金本位制を確立したことである。松方が敢えて大隈を閣内に迎えたのは、金本位制定に関する深い事情があるものと思う。


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