カウンター 読書日記 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―3
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―3
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―3

 ★ワンワールド人脈の華麗かついかがわしき樹形図   
 

 
 吉井友実に松方正義・樺山資紀・高島鞆之助ら自ら維新に挺身したのが薩摩ワンワールドの第1世代で、白洲退蔵はこれに同期している。維新前後に生まれたその息子ら、即ち樺山愛輔・吉井幸蔵(安政2年生)、樺山資英(明治元年生・妻は高鳥鞆之助の娘・球磨子)らが第2世代で白洲文平や陸奥広吉ら留学帰りが彼らに同期してワンワールド仲間を形成した。吉井幸蔵の実弟で高島鞆之助の婿養子となった友武(慶応3年生・妻は高島鞆之肋の長女・多嘉)も、当初は仲間に加わっていた筈であるが、その事績は陸軍中将としてしか伝わっていないし、高島子爵家を継がすべく甥(幸蔵の次男)友春を養子にし、後に離縁した事情は未詳である。第3世代は第2世代の子女ら即ち白洲次郎(明治35年生)・正子(明治43年生)夫妻らの世代で、ここに至ると薩摩の枠を抜け出し、他藩出身者に拡大するのは自然の成り行きである。

 この第3世代が宮中コスモポリタンを形成し、美智子皇后の皇室入りを実質的に支援したと言われている。
媒介の栄誉を表面的に担った東宮御教育参与・慶応義塾塾長の小泉信三が、小泉信吉の子息であったことは偶然ではない。小泉信吉は嘉永2年(1849)生まれの紀州藩士で、慶応2年に福沢諭吉の蘭学塾で洋学を学び、フルベッキが教頭の開成学校教授となり、明治元年に英国留学し、帰国後は大蔵省に入った。横浜正金銀行の創業時には白洲退蔵の下で副頭取を務めた信吉は、第1世代の退蔵とは年も離れたいわば第1.5世代であった。横浜正金時代にも渡英して金融事情を学んだ典型的なワンワールド金融人で、その子・信吉は明治21年生れでワンワールド第3世代に同期し、2代に亘るコスモポリタンであった。

 福沢諭吉から発したワンワールド人脈は、白洲退蔵と小泉信吉に分岐して白洲次郎と小泉信三を生んだのである。戦後貿易庁長官に挙げられ、吉田茂の片腕としてマッカーサー司令官と種々折衝し、サンフランシスコ講和条約締結に尽力した白洲次郎を、救国の英雄と囃す向きが近年多いが、むしろコスモポリタン特有のいかがわしさを感じるのは私(落合)だけであろうか。

 松方正義の三男・幸次郎(慶応元年生)も典型的な薩摩ワンワールド第2世代で、明治17年に東京帝大を中退し、エール大学とソルボンヌ大学に留学、明治24年に第1次松方内閣の秘書官に就くが、明治29年に実業界に転じて川崎造船初代社長となり、昭和3年までその地位にあった。第一次大戦後の欧州で絵画・彫刻らを蒐集し、松方コレクションで知られるが、政治家としても昭和11年から3期連続の衆議院議員として政界でも活躍し、国民使節として渡米し国際交流に務めた。幸次郎の妻は旧三田藩主、子爵・九鬼隆義の息女・好子で、三田藩と薩摩ワンワールドの浅からぬ因縁を感じる。
 
 
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