カウンター 読書日記 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―2
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―2

 ★大正コスモポリタンの代表格・白洲退蔵の登場   


 明治14年の政変で佐野大蔵卿が辞職、代わって内務卿・松方正義が大蔵卿に就任したのは14年10月21日であった。フランスから帰国後、不換紙幣の整理を急ぎ、そのために海外からの正貨吸収を必要と考えた
松方は、その実行に当たって横浜正金を利用せんとし、従来の管理官を廃し、代わりに特選取締役を任命することなどを示達した。特選取締役は政府持株に関して政府を代表する者で、大蔵卿が任命する民間人を充てたが、これは官吏たる管理官が管理するよりも、民間適任者を選んで業務を任せた方が時宜に適すると松方が考えたからである。

松方が大蔵卿に就いた14年の末から翌年にかけ、商況は激変して貿易関係業者の倒産が増加した。横浜正金の得意先にも破産が増えたが、中村頭取の経営は放漫に流れ、15年上半期の決算は彌縫策を講じて配当を据え置きとした。これを憂慮した松方の追及で、中村頭取は7月10日の総会で引責辞任し、副頭取小野光景が頭取に就任、任期満了で副頭取を退いていた小泉信吉が副頭取に復活した。特選取締役には河瀬秀治、村田一郎が選任されていたが、河瀬は6月に辞任、これに代わって摂津三田藩(藩主・九鬼隆義)の儒官で藩の大参事もした白洲退蔵が、三田藩顧問・福沢諭吉の推薦により、8月に取締役に特選され、直ちに副頭取に就いた。

しかしながら、小野新頭取は中村時代の隠蔽体質を継承して彌縫策に走り、官民分離論あるいは平穏解散論を唱えて株主間に宣伝したから、株主間でも不穏な動きが広がり、小泉も職権の発揮を保証されないとして早々に副頭取を辞した。松方大蔵卿の意向は、同行の改革のため、白洲退蔵を頭取、深沢勝興を副頭取に任じ、深沢の手腕で改革を断行させることにあった。そこで福沢は、頭取含みの特選取締役として、松方に白洲退蔵を推薦したのである。しかし深沢は病身で、16年1月の定時総会では頭取に白洲、副頭取に小泉が就き、深沢は取締役に再選されたものの2月1日に病死する。計画が頓挫した松方は、止む無く3月22日、第百国立銀行の原六郎を特選取締役に任命し、頭取に就けた。白洲と小泉は辞任し、小泉は古巣の大蔵省に戻り、白洲は19年になって岐阜県大参事に就く。

以上長々と述べたのは、白洲退蔵とその子孫に焦点を当てるためである。

 退蔵の子息・文平は明治2年に生まれ、フルベッキ(理事長)とヘボン(初代総理)が創立した東京築地英語学校(明治学院の前身)を20年6月に卒業後、渡米してハーバード大学に学び、更に渡欧してボン大学で学んだ。ハーバードで知り合ったのが後に三井合名理事から日銀総裁・蔵相になる池田成彬(慶応3年~昭和25年)で、生涯の知友となった。

帰国後の文平は、三井銀行から鐘紡に勤めた後、興した貿易商・白洲商店が大成功したが、昭和4(1929)年に破綻した。

日本的情緒・趣味を甚だ嫌ったという文平は、儒者ながら早々キリスト教に入信し、神戸女学院の創立に携わった父の退蔵と同じく、コスモポリタン臭が濃厚である。文平の次男・白洲次郎が妻に迎えたのは、伯爵・樺山資紀の孫女(樺山愛輔の娘)の正子であった。退蔵の父・文平と同様、岳父の樺山愛輔(慶応元年生まれ)留学帰りで、大正コスモポリタンを代表するワンワールド人士であった。
 
 

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