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●杉山茂丸の実弟・龍造寺隆邦
● 54 一世の巨豪、癌腫に斃る

呻吟10年医療の妙を尽し  解剖総て医界の料に捧ぐ  


 龍造寺が第1回の施術の腹部切開は、名にしおう当代の名医・阿久津博士の執刀であるから、存分に徹底的に行われたので、案外に結果も宜しく、日ならずして退院して、庵主の宅にも来訪するようになったから、全快次第、早速に支那に行くべく準備をして居た、一方庵主は、阿久津博士に挨拶に行って、段々話を聞くに、博士曰く、

 「元来が癌腫の事故、早くて1年、遅くて3年の中に又々病勢の増進を見るべし」
 との事である、庵主も尠なからず落胆して、此の模様にてはとても支那などに旅行せしむる心地もせず、段々研究の結果、斯う決心をしたのである。

 「父母の片身とも云うべき弟の身体が、絶対に不治の病気とある以上は、庵主の健康と力が続く限り現代の医術にて、生命の持続される限り、最善の手を尽して見よう、次ぎには、設令え(たとえ)如何なる悪性の病気にもせよ、我家に生れて、我国民人の為めに、犠牲的の観念を以て立つ以上は、此の病気を以て無上の犠牲的行為が出来ぬ事はないから、此の病気を以て十分に研究の資料たらしむるが良き事である」、夫(それ)には龍造寺に其の旨を申し含めねばならぬと思い、1日龍造寺に面会して斯く云うた、

「今回汝の病気に付いて、能く阿久津博士と相談して見るに、斯々(かくかく)の病症にて、絶対に不治の病気であるとの事故、汝は左(さ)の覚悟をなすべし、

 第一、 男子一度生を得て、発奮志を決し、国家民人の為に尽くすは、決して偏固の心を以て為すべからず、其の為し得べき境遇と、為し得べき事柄とを弁えざる可からず、此の故に汝は支那に行ってのみ然る志を成す物ではない、生きて世に尽す事能わず、死して後聞こゆる事なき其の身体を以て全部医学上の研究資料に捧げ、人間の『モルモット』となる事、我家としては光栄此の上なしと思う、若し万一研究の結果、医学上に何等かの成績を得るに至らば、兄は此の上の満足なく、又若し助命再生の好果を得なば、夫(それ)こそどんな献身的の御奉公でも出来る訳故、此の際衷心最も爽快にして、未練なき決心をなして、医師が為すまま、又飲めと云う物は喩え糞尿腐敗の物にても、決して辞する事勿れ、予も亦堅く其の決心をなし、費途と時日とを顧慮する事なく屹度(きっと)献身的に汝が身体の保護に従事すべし」

 と申し聞かせたのである、龍造寺は満身の笑を浮べて斯く日うた。

 「世に廃物利用と申す事を承り居りましたが、私の体が夫になるとは、こんな難有事はございませぬ、幼少より抜群の腕白にて、人となって処世の出発第1歩を誤まり、半世の流離困沌は、尽くお兄様に御心配を掛る計りの結果と相成り、最終に及んで聊か自覚致します、君国を思うの道に入りましたら、直ぐに斯る難病に罹り一応落胆は致しましたが、只今承われば、夫が医学界の資料になるとは、誠に以て有難事にて、此の上の廃物利用はござりませぬ、今日より私の体は、屹と『モルモット』と心得、切るも突くも医師の勝手次第にて、薬物の如きも、薬は愚か研究の為めなら、湯でも飲みますから、御安心下さいませ」

 と、快く決心の返事をしたから、庵主も大いに安堵して、夫から大抵病院住居(ずまい)をさせた、先ず東京での名家と云う名家、先ず阿久津、阪口の専門博士より、青山、林、土肥、金杉、佐藤、松本の諸博士は勿論、庵主の平生依頼する牧、杉本等の諸名医まで、種々様々の手を尽した治療を受けたのである、而して庵主の仕事としては先ず何よりも膀胱内の瘡面を清潔にすると云う条件の下に、看護人の熟練なる者を附随せしめ、毎日薬液を以て洗滌(せんでき)し、医師の指図に依って、食物に十分注意し、夫を丹念に持続せしめたのである、其の中、又膀胱内の癌の瘡面は、葡萄の実の如く、粒々腫脹して出血を始めたから、種々手当の末、又々腹部切開の事に決したのである、阿久津博士を始め、其の他の名医達も、

 「斯く繰返しての荒療治を為すも、何様疾患その物が悪性故、一時の仕事たるに過ぎず、余りに痛わ敷てお気の毒である」 と申さるゝも、龍造寺は断然聞き入れず、庵主もまた龍造寺に、根本的同意をして、飽迄徹底的施術を要求するので、阿久津博士は再び決心をして、大施術を執行せられたのである、
今度は膀胱内の組織の悪しき所を、十分に切断して取除け、其の瘡面を電気にて十分に焼灼(しょうしゃく)せられたが、何様大施術の事故、博士は満身の流汗は下着を透して、上衣まで絞るように至りたれども、十分為すべき仕事は為さねばならぬと、其の施術を終られたのは、2時間の後であった、夫より龍造寺は、例に依って施術後の摂養に注意して、とうとう又本の通り位には回復したのである。

丁度此の頃の事で、庵主の秘書役を頼んで居る、陸軍出身の清水と云う人がある、此の人の叔父君に当る老人で書家を以て業とする人があって、老年に及ぶも子供がないので、諸国を周遊して書道に遊んで居た折柄、不計(はからず)も胃癌となり、総ての医者に見放されるまま責めても死水は1人の甥の清水に取って貰わんと、人に連れられて来たので、清水氏は懇切に介抱して居る中、京都の或る寺より胃癌の妙薬を施薬すると聞き、夫(それ)を煎じて叔父君に飲ませて居たら、最早死期に迫まって居ると医師に云われた叔父君が、中々死なぬので、一同不思議に思い、尚一層其の薬を継続して飲ませて居る中、或る日血の糞便を排泄して以来、段々回復に向い、とうとう全快して、又々元の書家となって諸方を周遊して居るので、清水氏は其の薬の種を見付け出して、今夫を宅に植付けて居るから、夫を龍造寺に飲ませては如何との勧めにより、薬とさえ聞けば、何でも飲む龍造寺の流義故、早速に其の種実を得て、自宅内に50坪計りも蒔き込んで、其の枝葉を煎じて毎日の常飲料として龍造寺は暮して居たのである、折から又段々と此の薬の話を聞くに、20年前、泉州堺の人で奥某と云える人が、拳大の癌腫が胃の俯に発生し、先ず大阪病院にて見放され、夫より東京の胃腸病院にて見放され、赤十字病院にて見放され、帝国大学病院にて見放され、最後に順天堂にて見放されたので、弥(いよいよ)死期が数月の中に迫りたると聞き、夫なら帰って郷里の土とならんと思い、自宅にて療養中、或る人の勧めにて、右の植物を煎じて飲用せば、胃癌の全快疑いなしと聞き、全然無駄と思いながら、手の尽たる後の気慰みに、夫を土佐の国より取寄せ、毎日の飲料として服用して居たる処、56ケ月も過ぐるも中々死なぬので、益々気を得て服用を続けて居たるに、8ケ月目に及んで、或る朝真黒なる血の加き物を、多量に吐出したので、驚きの余り一時喪心したのを、家人は驚きて種々介抱の末、人心に帰り、今までは水さえ胃中に収り兼ね、右の煎薬だけは、種々の困難をして、やっと飲用して居たのに、夫から後は先ず重湯が嚥下出来る事となり、其の次には僅かな粥が食われ、漸次体力も回復して、爾後5ケ月にして平常に回復したので、其の薬草を以て内務省より許可を受け、治癌剤と命じ売薬として売り出したる処、売行抜群なりと聞き、丁度清水氏の話と一致符合するに付き、庵主は弟の可愛さと、研究の面白さとにて進んで此の薬の研究にも着手する事としたのである、夫から此の薬草を本として調査を遂げたるに、俗称「ハマヂシャ」と云い、和名「ツルナ」と云い、薬名「蕃杏」(ばんきょう)と云い、英名にて「エキスパンサー」と云うとの事、一見蔓生の如くして、黄なる小花を着け、菓は丸味を待って厚く、副食物としては茄て浸し物、若くは味噌汁の身などに宜敷、「しゃきしゃき」とした歯当り宜敷、少し塩気を合む味を有せり、種は堅き殼内に芥子の如く、障隔内に群列して、其の殼のまま、播種する時は、2ケ月位萌芽を生ぜず、故に槌を持って半ば打割って播種するを常とす、夫より世間に癌腫とさえ聞けば、此の薬を施薬して飲用させて見たが、脈拍が良好となる事丈けは一般に同一であるが、子宮癌、肝臓癌、膀胱癌等には一切験目(ききめ)を認めざりしが、胃癌丈けには確かに顕著なる功験があるので、庵主の友人岸博士は、大いに此の薬草に興味を持ち、専ら製薬試験の事に従事せられ、数ケ月の後、一の製薬を得
られた頃、丁度庵主の友人栗野子爵の姉君の70有余にならるる人が、又拳大の癌腫が胃俯に出来たるより、土肥博士の「ラジウム」治療等にて、種々手当も尽されたるが、更らに効験なきより、此の岸博士より製薬の散薬を貰い、夫を服用して50幾日の持続の折柄、或る日看護婦が、気たたましき報告に「御隠居様が多量の血便を排泄せられました」との声に驚き、一同駈付けて見るに、何とも形容の出来ぬ臭気にてありしと、夫から何れも応急の手当をなす内、漸次落付き日を経るに従って衰弱に衰弱を重ねたる体も、段々と回復して、とうとう後には湯も咽に通らざりし病人が、性来好物の西瓜を幾切れも摂取せらるゝに至ったとの事である、斯る薬を龍造寺が自宅内に沢山蒔き付けて、平常不断に飲用する事を継続したので、其の為か脈拍だけは何時でも丈夫で暮して居たが、何様難病故、とうとう3度まで腹部切開の施術を行い、同一の方法にて焼灼しては快癒する事を繰り返したのである。

数え来れば龍造寺が新橋停車場にて発病以来、丁度10年の間、各名医方も驚嘆する程、学理と薬剤と、施術と看護との4つに最善を尽したのは、
 第一、医学上の研究
 第二、父母の遺体に対する務め
 第三、兄弟の恩情より、万一にも全快の機はなきやとの未練心
で有ったに相違ないのである。

 其後庵主が、郷里福岡へ帰省中「龍造寺容体不良」との電報に接したから、取る物も取り敢えず帰京して見たれば各医師が、
「如何な龍造寺さんの健体も、今度は六ケ敷(むつかしい)と思います、夫は『ブルース』の性質が甚だ不良であるから電報を打ちました」との事であった、病床に行って龍造寺に面会して見れば、顔頬(がんきょう)も左程の衰弱は見えねども、脈と呼吸は素人にも大分多いようである、何でも10年目の病体故、予を隊長として、皆代る代わる夜伽をせよと命令して、予も夜伽看護を続けたが3日目の昼頃、俄かに段落(だんおち)がして、医師が「カンフォル」の注射を始めた、又、食塩の注射をも為た、夫から2-3時間奮闘の後、愈々絶望となって来て、もう頸髄が痙攣して来て、瞬が出来ぬように成って来た時、龍造寺は庵主に向って斯く日うた。

 「お兄様、大分気持が良くなって来ました、此の塩梅では今度も又難関を切り抜けまして回復するであろうと思います、今迄は色々の不養生を致しまして、御心配ばかりを掛ましたが、今度こそばシッカリ保養を致します、此の冬を兎や角凌ぐ為めには、熱海に頃合の家を見付けて置ましたから、体が動ける丈けに成りましたらば、腰を据えて熱海に転地仕ようと思います、来春菜種の花の咲く頃には屹度全快するであろうと思います」
 と云うから、庵主は思わず満身の血が凍る程不潤になって来た、今此の末期に及び、此れ程脳髄の明晰な男でも其の死期を知らぬのか知らん、況んや度々の施術の時も自から進んで大施術を受けたのは、已に絶対に不治の病気たる事を知って居たればこそ、其の旺盛な決心もあったのである、然るを「菜種の花の咲く頃には全快仕よう」とは、全く安楽国へ行く積りであると見えると思い、

 「そうじゃ、10年の星霜短かしとせず、今日まで汝が生命を持続したのは、全く汝が勇猛の結果である、此の上は身心共無為の境界に入り、安楽の処に転地をして心安く暮せよ」と云うたのが、庵主が愛弟龍造寺に対する今生後生と限った最後の引導であった、夫から30分立つか立たぬ中に、呼吸がごとんと響いて、跡はふーっと一つ長い息を吐いて落命したのである、此れが東京府下中野郷字中野1055番地の龍造寺が自宅の8畳の間に於てである、夫から立会医師の最後の診断も済んで、弥々龍造寺隆邦は死亡したとの知らせを為し、親近の者も最後の式も終えたから、庵主は医師に向って斯く云うた。

「我が家憲として、家中死亡者は、何物でも掛り医立会の上、悉く解剖を行わせるのであるから、先生方の御相談で、どうか順天堂で至急解剖の上、病理研究の資料として戴きたいのである」

 「夫は実に有難事でござりますから、10年以前より今日まで龍造寺さんを診察した医師の方々に、只今から至急通知を致しまして、明朝の10時に解剖を致す積りで、準備を致します」
 と云うて一同引き取られたのである、夫から其の夜は一同と共に愈々最後の夜伽をして、明朝の8時半に自動車を以て龍造寺の遺骸を順天堂に送り付けたのである、其の解剖の結果は、

1.主病たる膀胱の癌腫は「クルミ」実のように収縮固結して、之を裁断したるに綺麗に尿道丈けの働きをする事に成って居たとの事
2.腎臓は両方とも、一方は腐敗一方は全部が化膿して居たとの事
3.肺部に結核の病竃がありしとの事
4.心臓部に結核の転移ありしとの事
5.脳部の解剖は脳量も目方も抜群普通の人より多量なりしとの事

 右の如き事から幾多病理上の事を宜敷く書いて、各部の写真を添え、広く之を配布せられたとの事である、要するに龍造寺の癌は、或る形式に於て直って居たのである、死因は腎臓及心臓であると確定したのである。

 嗚呼庵主は生来始めて骨肉の弟を失うたのである、夫も3回まで人切俎板(手術台)の上に載せて、血塗れになしてである、然れども庵主の心理状態は頗る満足であった、如何なれば、如何にも夫が徹底的であったからである。

第一、効果は収めなかったが、出来得る限りの教訓を得たのである
第二、豪放不羈の男ではあったが、生涯寸時間も兄弟友愛の情を失わなかったのである
第三、癌腫の病に罹ったのを、10年間看護したのである
第四、現代に於てあらゆる名医の手にて、十分の治療をなし、また十分の研究をして貰うたのである
第五、癌に対するあらゆる薬は、善悪とも飲ませ尽して、各其の成績を調べる事が出来たのである
第六、其の遺骸は帝国大学より解剖の講師が出張して、数十人の名医立会の上、熾烈なる眼力の焼点に横わって、其の学的資料に提供したのである

 庵主は此の上此の稿を書くに忍びぬから茲に筆を擱く(さしおく)であろう、之を読む青年諸士は、庵主の兄弟が行為の善悪に拘わらず、諸士が兄弟間友情の何かの資料として呉れられなば、庵主の満足よりも寧ろ龍造寺の冥福を祈る上に於て、多大なる功徳であると感謝するのである、庵主此の間、龍造寺の後家の宅を訪うて見たらば、庵主が曾て(かつて)書いて遣った、不味い詩の掛物を壁間に掛け、其の下に龍造寺の位牌を祭って居た、曰く、

坎輠半世苦辛多 かんかはんせい しんくおおし
吾弟十年惧病魔 ごていじゅうねん びょうまにともなう

可憫呻吟唯問我 あわれむべししんぎん ただわれにとう
今秋菊信果如何 こんしゅうのきくしん はたしていかん 



 *以上で、「43 魔人・龍造寺隆邦」から紹介し続けた言わば「龍造寺隆邦伝」は<了>となります。
 
 

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